紙の本
進化論をめぐる言説
2021/09/12 16:55
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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
進化論を軸にして、種の99.99%が絶滅してしまう絶滅論争と、適者適存を巡る社会一般の「進化」概念の誤用、悪用と、ドーキンスvsグールドの一方的な論争、「説明」と「理解」に代表される知の2極(科学と歴史)へと話題は広がる。著者の親切そうな人柄を反映してか、著述も丁寧に説明するので晦渋さはなくて親しみやすいし、気ままに別の話題が繰り出されて脱線したり、煩わしさも少し感じた。しかし無駄話も含めて視野が広くおもしろい内容だった。進化論というより科学をめぐる哲学本、というのが実態ではないかと思う。
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【はじめに】
参加した読書会の課題本として挙げられていたため読んだ。
著者の吉川さんも参加されていて、本のタイトルは『理不尽な進化「論」』であるべきだったかもしれないが、それだけ「進化論」が理不尽だという全く違う意味に誤解されかねず、また『理不尽な進化論「論」』でもよかったかもしれないが、「ロンロン」となるのも変なので、『理不尽な進化』にしたとのこと。
なお、「理不尽」という言葉については、著者は次のようにその言葉の選択の理由を説明している。
「理不尽さ、などという妙な言葉を選択したことには理由がある。端的にいえば、本書をアート(文学、芸術)の本にもサイエンス(学問、科学)の本にもしたくなかたからだ。あるいはアートもサイエンスも、という本にしたかったからである」
つまり、本書は「進化論」に関する本であり、進化論の「正しさ」に対して信を置きつつも、同時に実際の歴史の理不尽さを対置し、その二つの間を取り持とうとするものなのである。
「本書の主目的が進化論の解説ではなく、私たち自身の進化論理解を理解するという点にあることを考慮すると、グールドの敗走が真価を発揮するのはむしろこれからである」
【概要】
■ 進化論「論」
ダーウィンの進化論の果たしたインパクトは、生物進化を自然主義的に説明する道を拓いたということにある。それまでは、精妙に作られた生物の仕組みができあがる論理を人類は持っていなかった。星々の運行が神の手がなくとも科学(=自然主義の論理)で説明がつく中で、そこには神が介入する余地があった。進化論は、我々を含む生物界がこのような姿にあることを超越者なしで説明することを可能とした点で画期的であった。
1)個体間に性質の違いがあること(変異)、2)その性質の違いが残せる子孫の数と相関すること(適応度の差)、3)それらの性質が次世代に伝えられること(遺伝)、という三つの条件が揃ったときに進化が起こるというのが自然淘汰の要諦。
著者は、進化論を強く支持するダニエル・デネットがまとめたダーウィニズムの本義を次のようにまとめる。
・ダーウィンの革命性は生物進化が自然淘汰というアルゴリズミックなプロセスの結果であることを見出した点にある
・進化論とは自然淘汰のアルゴリズムをリバース・エンジニアリングによって解読する学問である
・進化論が行うリバース・エンジニアリングにおいて中心的役割を担うリサーチ・プログラムが適応主義である
研究分野としては、ここで言われる「適応主義」のプログラムが非常に上手く機能している。現代においては、適応主義はパラダイムとして確立している。
「デネットにとって(もちろんドーキンスにとっても)、適応主義を採用するのかしないのかということは問題ではない。よい適応主義者になるのか、それともわるい適応主義者になるのか、もはやそれだけが問題なのである」(p.218)
さらに著者によると進化論のパラダイムは、生物としての人間自体をその帰結として含んでいるため心理学、哲学の領域まで浸食しているのである。マルクス主義がその時代の乗り超え不可能な哲学だとサルトルが言ったように、「ダーウィニズムこそ、われわれの時代の乗り超え不可能な哲学である」という。進化論をそのうちに含まない哲学はこの時代においてはもはや成立しないのだ。
進化論のパラダイムはさらに通俗化し、生物進化の理論として正当に適用される範囲を超えて使われることも多い。例えば、企業の栄枯盛衰や、競技やゲームでのプレイヤの競争などで「適者生存」や「突然変異」が本来の意味を逸脱して利用されることもしばしばである。進化論のコンセプトは、すでに一般社会の中で「言葉のお守り」にもなっているのである。
■ グールド vs. ドーキンス
この適応主義が描く自然主義的世界観に対して異議を唱えたのがスティーブン・グールドである。グールドは、「断続平衡説」など修正ダーウィニズムの論客として知られ、ネオ・ダーウィニズムを「適応万能論」として批判した。本書第三章「ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか」は、ほぼ丸々がグールドと『利己的な遺伝子』の著者でネオ・ダーウィニズムを代表するドーキンスとの争いの振り返りに当てられる。
グールドは、その文才を生かした流麗なエッセイによって有名になったが、あらためて彼 の『パンダの親指』の8章「利他的な集団と利己的な遺伝子」でのドーキンス批判や『ダーウィン以来』の32章「遺伝的可能性と遺伝決定論」でのE.O.ウィルソンの社会生物学への批判を読むと、グールドが主張している論点が理解できなかった。「あなたたちは間違っているはずだ」とグールドが主張したいがためにただ言葉を重ねているようにも感じる。また本書の中でグールド批判に対するドーキンスの主張が書かれているとあるドーキンス著『延長された表現型』第3章「完全化に対する拘束」を読んでも論争の噛み合わなさを感じてしまうだけだった。
グールド・ドーキンス論争の顛末を描いたキム・ステレルニーはその著書『グールド vs. ドーキンス』の最後に次のように結論付けている。『利己的な遺伝子』や『盲目の時計職人』などを読んで、自分はもっとドーキンスの方の理があると思っていたが、まとめるとするとこういうことなのかと納得できるレベルのまとめだと思う。
「私の手の内のカードをさらしておこう。私自身の考えは、グールドよりもドーキンスのほうにむしろ近い。とりわけ小進化、すなわち地域集団内での進化的変化に関しては、ドーキンスが正しいと考えている。しかし、大進化は小進化をスケールアップしただけのものではない。グールドの古生物学的な視点は、大量絶滅とその結果について、そしておそらくは種と種分化の本質について、真の洞察をもたらしてくれる。したがって、地域的なスケールの進化についてはドーキンスが正しく、一方、地域的スケールの事象と古生物学的に長大な時間スケール事象との関係については、おそらくグールドのほうが正しいということになるのだろう」(p.166)
これに対して本書では、次のように述べられ、学会の論争においてはグールドはドーキンスらネオ・ダーウィニズムに敗れたということを著者も認めつつ、この論争自体への最終評価を保留する。
「これは、ダーウィニズムの仕事を二つに切り分けたうえで、ドーキンスの土俵を進���のプロセスを探る研究に、そしてグールドの土俵を進化のパターンを探る研究に割り当て、それぞれの土俵で両者に軍配を上げる判定だ。私も自分の考えはグールドよりもドーキンスに近いと感じているが、このステレルニー判定は基本的には妥当なものだと考えている。とはいえ、このように土俵を切り分けることでグールド問題が解消されるとは、とても思えない」
そして第三章の最後で、各章の関係を次のように述べた上で、「理不尽にたいする態度」と題された終章に進んでいく。
「ここまで、グールドの敗北にはもっともな理由があったことを論じてきた。しかし他方で、グールドが不利な挑戦をやめなかったことにも、もっともな理由があったのではないか。それは進化論という学問そのものの存立にかかわる重大事でありながら、あるいはむしろそれゆえに、彼を混乱させ、分裂させ、自滅させる蟻地獄になったのではないか。じつは勝利者が決して近寄らないその場所にこそ、進化論が喚起する魅惑と混乱の源泉があるのではないか。こうした見立てのもと、次の終章では、その魅惑と混乱の源泉を目指して歩を進めることにしたい。そこで明らかになるのは、グールドの敗走が、第二章で論じた私たちの誤解や混乱と無縁でないどころか、その鏡像のような、あるいは生き別れた双子のような存在だということである。そしてそれは、第一章で論じた進化の理不尽さを、いわば真に受けた結果なのだ」(p.258)
■ 理不尽にたいする態度
著者がグールドにこだわる理由は彼が見せた「進化の理不尽さへの執着」である。それは、「歴史」であり「事実の複雑さ」の尊重の姿勢と言えるのではないか。そしてグールドが論争に敗れたとして、おそらくはなぜ敗北することをわかりつつ攻撃的な批判をしなくてはならなかったのかを突き詰めるによってなぜ「理不尽さへの執着」が必要なのかが明らかになる。
その理由のひとつは、「学問」と「歴史」とを同列に扱うべきではないということになる。学問においては、ドーキンスは勝利し、グールドは敗れざるを得なかった。著者が指摘するように、「強いていえば、「説明」だけが方法的である。学問とは「説明」という方法と、それによって獲得された知の総体にほかならない」からだ。しかし、その上でグールドは次のように考える(と著者は指摘する)。
「グールドにとって、現在的有用性と歴史的起源の区別、つまり進化のメカニズムにたいする生命の歴史の独立性は、どうしても確保されなければならないものであった。... 進化論をかたちづくるのは、進化のプロセスを扱う自然淘汰説だけではない。進化論にはもうひとつの柱があり、それが、進化の歴史を扱う生命の樹の仮説である」(p.295)
こういったグールドの考え方が重要なのは、われわれ一般人もしくは社会の進化論の受容とグールドの考え方には共通するものがあるからだと指摘する。グールドのエッセイが一般に受け入れられた理由の一端はおそらくそこにある。
「ここで大事なことは、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する革命的理論を手にしたとしてもなお、私たちがその事象を目的論的にしか理解できないという事態は変わらないということである」
これは先に指摘した「��葉のお守り」のように無見識に進化論のコンセプトが利用されることにつながる。
「進化論の学説はもともと学問的な限定がなされることで有効性が確保されているのだが、私たちはそのような限定から離れて融通無碍にそれを利用する。.... 私たちはグールドの切った空手形をドーキンスの名声によって現金化する」
■ 人間中心主義と進化論
最後に、科学=自然主義としての進化論を突き詰めたとき、われわれにとって進化論はどういった意味を持つのかを本書に沿って考えたい。
著者はまず次のように宣言する。それは現代のいわゆる人間中心主義の思想のパラダイムであるように思われる。
「私たちは学問=科学の遠心化作用にたいして、あらためて「それは人間であることとなんの関係があるのか」と問わなければならない」
そして続けて次のように新しいパラダイムの出現を予感させる。
「近代人たる私たちには、もうひとつ逆向きの問いが必要である。すなわち「それは人間であることとなんの関係があるのか」と問うだけでなく、返す刀でこんどは、「それは進化/進化論となんの関係があるのか」とも問わなければならない」
著者がその後、「科学的知見の理解を邪魔するのは、多くの場合、私たちのなかの「人間」なのである」と書き、グールド・ドーキンス論争や、グールドのE.O.ウィルソンに対する批判が発生した背景を科学ではなく、「人間」が問題であったと指摘する。
「適応主義、そして社会生物学をめぐる論争があのように激しいものになったのは、それが歴史認識や政治や宗教といった「人間的、あまりにも人間的」な領域へのコミットメントと切り離し難いトピックであったからだ」
そして、人間中心主義への批判としてすでに言い古されたフーコーのあの言葉を持ち出してくる。「人間」はそれほど簡単には消えないのではと躊躇いながら書き記す。
「経験的=先験的二重体としての「人間」は近代とともに誕生した歴史の産物だと、先のフーコーは言った。そして「人間」は近い将来、「波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」という言葉を残した。私には「人間」の行く末がそうなるかなどわからない。いま進行しているのは「人間の終焉」というより、経験的主体と先験的主体のあいだの懸隔の広がり、あるいは解離的共存であるように思われる」
グールドが示した理不尽さへのこだわりへの感性が重要なのだと著者は言っているような気がする。
【所感】
なかなか理解するのが難しい本であった。書いてあることが難しいということではなく(簡単ではないのだが)、それよりも著者の意図をつかむことが難しかったという印象である。
その中での自分の理解として、この本で著者が言わんとしていることは、進化論が必然的に踏み込んでくるわれわれ自身の存在に関する還元主義的な考え方への「異和感」なのかもしれない。そうであるがゆえに、この本は、論理的にはドーキンスの肩をもちつつ、どこまでもグールドに関する本になったのだ。少なくとも自分にとってはそう感じ、そう考えたとき、すっと腹に落ちる感覚があった。
言い換えると、進化の理不尽さに拘るグールドの「理不尽さ」と、そのある種の誠実さについ��の本だとも言える。それは著者が言う進化論にまつわる「哲学的困惑」にも相当するのかもしれない。
著者は、「いま私は、「ダーウィニズムこそ、われわれの時代の乗り超え不可能な哲学である」と叫びたい気分である」(p.410)と書き、「ダーウィニズムという万能酸はまだ世界の一部分しか浸食し終えていない。それが効いてくるのはむしろこれからであろう」と書きながら、一方でグールドが主張し続けたこだわりを捨て去ることができない。われわれは、「それは進化/進化論となんの関係があるのか」という問いを繰り返して、何とかやりくりをしていく方法を見つけなければならないのだろうか。
いずれにせよ、グールドを切り捨てることに躊躇いを生じさせる何かこそ著者の吉川さんがこの本の中で扱おうとしていたものなのではないかと思った。そしてそれを語るために、この本の長さと迂遠さとが必要になったのではないかと。
誰にでもお薦めする本ではないが、自分にとって進化論を巡るすでに答えは出ていたと考えていたことについて、いろいろと考えさせる本であった。
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『ドーキンス VS グールド』(キム・ステルレルニー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4480088784
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くどい文章ではあるが面白い視点をたくさん提供してくれる。なるほど絶滅に視点を置くとそうなるか、お守りとしての進化論、そして説明と理解の議論。経営学の世界でも進化論的な物言いを目にするし、現在の経営学は実証主義の説明の世界が主流ながらそれでいいのかという疑問があった。その解答を得たわけではないがさまざまなヒントはあったかな。一読して理解できたわけではないからもう一度読んでみようと思う。
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科学史としての進化論も本書の視点で扱いつつ、でも進化論自体の本ではなく、進化論と非科学者である私たちの「進化論の理解」との関係を、進化論自体の本質的な面白さと絡めて語り尽くす。圧倒的に面白い。もともと進化論自体にそこまでの興味があった訳ではなかったはずなのに読む程にぐいぐいと引き込まれて進化論がいかに現代人の価値観に染みついて便利に使っているのか、しかもそれでいて実はそれは進化論自体ではないのでは、と。アート&サイエンスってビジネス書の流行りワードの一つみたいに使われること多いけど本来こうあるべきなのではと強く感じる楽しい読書でした
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ウィトゲンシュタインの壁。
生の問題(不条理性)から逃げないこと。
自分を棚に上げて科学を礼賛しないこと。
不条理にこそ価値がある。
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第一章:理不尽な絶滅(ゲームのルール変更による絶滅)が絶滅理由のほとんど。
第二章:現代人はラマルク・スペンサー的進化(進化=進歩、改善)を進化としているが、ダーウィン的進化(生存者=適応者)は別物。
第三章:適応した機能は全て最善の機能であるため、なぜその機能を持っているのかを推測することには意味がある。しかしそれに反対する人(グールド)もいる。
終章:グールドの意見が通らなかったのは、運要素(ゲームのルール変更)の影響を織り込むべき、と言ったものの、その方法を提案できなかったから。
だいたいこんな内容を長々書いている感じ。タイトル、前書きでは絶滅した生物とその理由から進化を探る本かと思ったのだが、内容は進化学の歴史と言った方が近い。それならそうと最初に言ってくれ。
以下、私の意見
今残っている機能は最善の機能であるという仮定から生物機能の意味を推測するというのはなるほどなと思った。昔ドーキンスの本を読んだ時、各生物の機能の存在理由が想像されていたが、根拠がなく、こじつけでは?と思ったことを思い出した。これ以外やり方がないから、進化学の主流派は皆このやり方を使っているのね。
グールドの意見「生物進化に運要素を織り込むべき」は確かに可能ならその方が精度が高まりそう。しかしやる価値があるかは不明だ。
隕石墜落など、急激な環境変化(ゲームのルール変更)が絶滅理由のほとんどというが、5億年の歴史の中でこういうイベントはたかだか5回だ。過去1億年程度は大量絶滅イベントは発生しておらず、公正な進化が進んでいるっぽく見えるが、、。現代の生物の進化論で運要素を織り込む必要があるかどうかは、地球の安定状態でどれくらいの生物が理不尽な絶滅をしているのかによるだろうから、そこを論じて欲しかった。
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<あとがき>
私は自分で掘った穴を自分で埋めるようなやり方で本を書く。 はじめに躓きがある。原因を探るために地面を掘り返すが、掘り返したところで見つかるわけではない。躓いたのは地表においてなのだから。 今度は掘り返した土を埋め戻すことになる。 新たな目標は、もはや躓く余地がないほど地面を平坦にすることだ。その埋め戻し分が書き物になる。
当然ながら埋め戻す土は掘り返した土と同量なわけだから、地面の上になにかが積み上げられることはない。つまり誰の糧になるわけでもない、自分の納得のためにだけ本を書いている。
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題名に惹かれて読み始めたのだが、素人相手と書いてあるのに、難しいし細かいシツコイので、読み進めるのがたいへんだった。
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はじめて進化論がらみの本を読んだのがグールドの『ワンダフル・ライフ』だったと思う。20年以上まえ、グールドが亡くなる少し前のこと、たまたま本屋で平積みになっていたのを手に取った。読んでみていたく感心して、ほんの数冊だが他の著作も読んだ。その後、グールドが非主流派というかキワモノ的な立ち位置でドーキンスらとのあいだに論争があることを知り、ドーキンスも『利己的な遺伝子』は読んだがグールドとの違いは何もわからず、なにか引っかかるようなものを抱えながらも今日まで特に不都合もなく生きてきた。
この本のおかげですっきりしました。進化論にとっては重要な論争かもしれないが、あまりにも概念的で素人的には「まあまあ、どっちでもよくない?」みたいなところもあるので、これくらい噛み砕いてもらってはじめて理解できた(気がする)。
科学の方法論としてはドーキンスら主流派の唱えるとおりだが、一方でわれわれが歴史を語るときには、グールドが迷い込んでしまった難儀な領域にわれわれも否応なしに足を踏み入れざるを得ない、といったところか。
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進化論から始めて歴史と自己への認識に至るまでを深く広く熱く語られている。熱量が高すぎるが故に読むのに骨が折れるのも事実。特に一番長い終章は人文学的な専門用語、言い回しが多く、読み続けるのに難儀した。註の参考書籍紹介のコメントが何気に面白い。
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進化というか進化論についての本。初めは面白い考察だなあと読み進めていたけど、長くて周りくどくて途中から苦痛になって断念。断念した本って久しぶり。色々考察して描く必要がありそこが妙なんだろうけど、頭の良い人って面倒臭いなって思った。
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文庫本オビの名だたる評者のコメントに魅せられて手に取ってしまった一冊。
本書は科学としての進化論について論ずるものではないし、一般読者にも理解できるよう丁寧に論述されているが、内容を一言で説明することは難しいので、気になったところを、以下書き留めておく。
「私たちは進化論が大好きである」(序論)との印象的な一文から本書は始まる。そもそも進化論は、生物の世界を説明する科学理論である。と同時にそれは、"新たなビジネス環境への適応"、"進化する天才"、"○○のDNAが流れている"といったワードを日々目にするように、物の見方やイメージを我々に喚起するものでもある。
本書は先ず、「適者生存」として語られる進化論を、圧倒的多数の絶滅した種から見るとどうなるのか、という問いから思考を進めていく。遺伝子が悪かったのか、運が悪かったのか?それを説明するキーワードが"理不尽な"である。生存のためのルールが変更されてしまう、そして新しいルールはそれまで効力を持ってきたルールとは関係ない。こうして多くの種が絶滅し、代わってその空きに新たな種が登場する。
第二章では、科学理論としてのダーウィニズムと、スペンサー流発展的進化論として私たちが抱いている進化論的世界像(との分業体制あるいは乖離的共存の状況について語られる。この辺りの論は非常に面白い。
第三章は、適応主義を巡り、進化生物学者として有名なグールドとドーキンスの間で行われた論争を取り上げる。論争の判定としてはドーキンス側に軍配が上がったというのが今日的評価だが、著者は、なぜグールドは死ぬまで負けを認めようとしなかったのか、その点について終章で考えていく。
ここでのキーワードは「歴史」である。グールドは、生物がもつ特徴が何の役に立っているのかという「現在的有用性」と、それがどのような経緯でそうなったのかという「歴史的起源」の区別を保持することが重要であると言う。ではなぜ歴史が必要とされるのか。進化の道筋はそのメカニズムとは外的な関係にある物理的諸条件に左右されるという事実は、進化の歴史が単なる発展や展開ではなく、ほかならぬ歴史であることと同義であるからである。
そして、ダーウィニズムの心臓部には「説明と理解」、すなわち「自然の説明」と「歴史の理解」という哲学的問題がビルトインされている。
本書はたしかに進化論に関する本である。そこで取り上げられている内容だけでもとても興味深い。同時にものの見方、考え方についての人文学的内容に溢れた本である。ニ読、三読することでそのつながりや著書が本書全体を通して言わんとしていること、面白さがより分かってくるのではないだろうか。
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理不尽な絶滅
運で決まるルール、
適応したもの、たまたま適応していたものが生き残る
これは理不尽な絶滅と同じなのかもな、と思うことがたびたびある。
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「理不尽」という言葉がこんなにも進化論(ネオダーウィズム)を表現するのにピタッと合致するとは思わなかった。
ドーキンスとグールドの論争、そして実社会で言葉のお守りとして俗用(悪用⁉︎)される進化論について丁寧に解説されており、仕事も含めて今後の人生にプラスになる書籍であり、おすすめできる。
ただし、本書はサイエンス書ではなく哲学書であり、内容もボリュームがあるので、読破には時間を要した。
しばらく経ってから再読し、しっかり自分のものとしたいと思える一冊だった。