電子書籍
固定観念さようなら
2021/11/14 00:45
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:魚大好き - この投稿者のレビュー一覧を見る
私たちはモザイク(男女の特徴を組み合わせた)脳をもっていることを研究結果や論文を元に主張している書。
気づき:
性別の違いによる理由だからと思っていた行動は、実は社会的、文化的背景がそうさせていた。
心理的なジェンダーに合わすための性転換手術は本人の意思と言うよりは社会の期待に合わせた行動なのかもしれない。
感じたこと:
女性らしいや男性らしいとかほんとどうでもいい。どっちの生殖器でも、ジェンダー関係なく本人のやりたいことをできる世の中になってほしい。
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レビューはブログにて
https://ameblo.jp/w92-3/entry-12707964931.html
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日頃私が考えてるのと近いと言える内容だったのですらすら読めた。
(気になった点がないわけではないのでそれは後述)
私が日頃考えてるのに近かった内容は、脳の可塑性とか、
「平均したら男女差あるけど個々人で比較したら必ずしも差が見られるとは限らない」
とか
「筋肉量やテストステロン量も生後のジェンダーによる扱いの違いの経験を反映するよ」
とか
「男女どちらに多い特徴をどのくらい持った脳の人かは生殖器からは予測できないし同性でも自分と似たパターンかどうかはわからない、組み合わせが異性で似る場合もある」
とか
「性別のみを根拠に薬の量を変えるのもおかしい」
とか。
「ジェンダーフリー教育」の章はTERFジェンダー学者は心して読め、という気分。
後半のジェンダーバイアスの記述は『WORK DESIGN(ワークデザイン):行動経済学でジェンダー格差を克服する』 イリス・ボネット
https://booklog.jp/item/1/4757123590
と被るかな。
気になるのは以下の点。
「ジェンダーがない世界」=「生殖器による分類が意味をなさない世界」で、ノンバイナリーのジェンダーアイデンティティは肯定しているものの、バイナリーなジェンダーアイデンティティのトランス女性やトランス男性の人々を尊重する文章が一つも見当たらないのは指摘したい。
「ジェンダーのない世界では、性のカテゴリーそのものが重要性を失う。社会的な意義がないのであれば、ある人の生殖器の形態は重要ではない。これは非定型の生殖器を持つ人にとって朗報だし、そうした子を持つ親にとってはとくにそうだろう。子どもに手術を受けさせるプレッシャーがなくなるからだ。」
と書く一方で
「またある女性に恋心を抱いたとして、その人が男性の生殖器を持つとわかったら、最初に女性にのみ惹かれると思ったのが間違っていただけだ。」
と書くのは理解に苦しむ。
↓これも意味がわからない。原文を読みたい。
「ジェンダーがなくなっても、女性と男性はやはり生物学的に異なるので行動も異なるだろうというものがある。私はそれを問題だとは思わない。それどころか、生物学的な理由によって女性と男性の行動が違うと思うなら、同じことを達成するのにジェンダーにもとづくあらゆる慣習を導入する理由はまったくないと思う。」
(私の認識はこれ↓
「脳に男女どちらに多い特徴を持つかは、ついてる生殖器からはわからない」
「ヒトはジェンダーアイデンティティを持つ」
「ジェンダーは今のところ男女のバイナリーである」
はどれも成立する。
(脳の神経科学的な事実、ヒトの認知心理学的な事実、人間社会の事実)
この先は価値判断。)
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GENDER MOSAIC: Beyond the Myth of the Male and Female Brain
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011853
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脳は生殖器と異なり、モザイクである。様々な構造において、女性に多い・男性に多いという平均的な差異があっても、一人の人間で見ると両方が混在しており、個人間の変動は性差を超える。ジェンダーによる男女の類型は、お互いの可能性を摘む。バイアスに気付こう。
サブタイトルが全てを語る。前半は自然科学的、後半は社会科学的に書かれていました。
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『人はみな、「女性的な」特徴と「男性的な」特徴のパッチワークなのだ。 』
この本では、男らしさ、女らしさというものは存在せず、例えば男の人に向いている仕事なんてものはない、ということを科学的に説明していく。
200ページと読みやすい文量で、内容も簡潔であるが、いかんせん1980円は高く感じる。(紀伊國屋書店はいつも強気な価格設定な気がする。しかしなぜか買ってしまう。)
レビューを書いている自分自身、「男らしくないなぁ」と言われたことは何度かあるが、たいして考えてこなかった。ただ、よくよく考えてみると、確かに「男らしさ」とは何かということに対して、輪郭を掴みづらいのは事実であるし、それは「差別的な考え方」に繋がりかねない。
男脳、女脳という考え方は、わかりやすく、また部分的には当たっているという点で、今後とも変わらずあり続けるだろう。
ただ、「男らしい」「女らしい」と口にする前に一度、「らしさ」という、自分の偏見を見つめ直してみる必要がありそうだ。
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17世紀以降、平等主義の下、男が女より優位な証拠を、精巣の有無や脳のサイズ、身体に対する脳の比率など身体差にこじつけて求めていた。
しかし、脳はモザイク状のもので、らしさを全て持つ脳など極めてまれで、男らしさと女らしさの両方の性質を併せ持つことが多い。
脳はきわめて柔軟で、一生を通じて変化し、ラットではストレスの有無などか極めて簡単に変化する。すなわち、性差は本当に生物的性差によるのかジェンダーによるのかわからない。そもそも、性差の原因を求めるよりも、そのような特性を見つけた時に、特別な支援を行うようにするべきである。
ジェンダーバイナリーは乳児期から洗脳を始め、二分化を全員に強いることは、トランスジェンダーはもちろん、モザイク状の特性を持つシスジェンダー(身体と心の性が一致する人)すらも束縛する。
性別以外の身体的特徴を普段から使うことはめったにない(青い目の友達など)のに、なぜ男(性の生殖器を持つ)友達などは良く言われるのか?
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ずっと疑問に思っていたところが部分的に解決した。
「男だから」「女だから」という分け方に違和感を覚える人は多いだろうが、それがどうして良くないのか、どういう点で誤っているのかを科学的に説明してくれる本。
電車、恐竜、昆虫、図鑑、など数々の男の子っぽいものへの興味を示してきた我が息子だが、彼は赤ちゃんが好きだし、可愛いキャラクターも大好き。
前者は性別に由来すると思われるのに、後者は「個性」「例外」「状況のせい」と済まされ、根拠として却下されてしまうと。確かに。
人々のジェンダーに関する固定観念の強さは並大抵じゃない。
ずーっと刷り込まれてきて、それに沿うように無意識的に行動してきたから。
でも見方は少しづつ変えられる。
子どもたちには、生活の中でジェンダーについて積極的に疑問をもってほしいというメッセージを伝え続けていきたい。
もちろん自分自身も顧みるところはたくさんある。
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男脳・女脳という考え方は非科学的で、脳の多様性にはさまざまな決定因子がある中で性別は強力な決定因子ではない。同様に「女らしさ」「男らしさ」という概念も無意味、というお話。その根拠は脳はストレスによって「(いわゆる)性別」が反転したり、オスメスで異なる影響を受けたりするから。(人間の生殖器はストレスでによって変わることはないよね。)人の脳は、いわゆるステレオタイプな「女らしい特徴」「男らしい特徴」のモザイクでできている。男女で分けたら確かに平均値に差は出るけど、大部分の男女が重なる位置に属する。無作為に抽出された人を、男→地図に強い、女→優しいと決定づけることができないもんね。
男女がこれほど違って見える理由は、人を「女性」「男性」と集団に分けることにある。行動は人の能力、資質、 嗜好だけではなく、社会で果たす役割、置かれた状況、地位、自己と他者に対する期待を反映する。これらはすべてが私たちの社会では男女によって異なっている。このために、人間は男性と女性という明確に異なる二つのタイプに分かれているという幻想が生まれるらしい。
なるほど・・な事例があったから引用↓
男女の話し言葉の違いについては多くの文献があるが、よく調べれば、その違いは性別ではなく地位の違いであることが多い。 地位の高い人は、男女ともに男性的な話し方をする (相手と目を合わさない、相手の発言を遮る)。一方で、地位の低い人は、男女ともに女性的な話し方をする(理由なく微笑む)。学生たちは男性も女性もいるが私に電子メールを送って くる際には、「ジョエル教授」と冒頭に書き、礼儀正しく用件を述べ、「ありがとうございます」とか「敬具」とかで結ぶ。彼らに対する私の返信はたいてい手短で事務的だ。でも、私が 学長に電子メールを書くときには、私も自分にメールを書いてくる学生たちと同じく礼儀正しくなる。 ーーーーー
状況への対応をジェンダーの違いと誤解することも多々起こるんだなと思った。
同じ状況で男女が異なる行動を取るのも、それは男女が生物学的または心理学的に異なるというよりは、男女どちらかのジェンダーに属するから。自分や他者から女性あるいは男性として期待されることで、私たちはそうした期待を意識するというより、無意識に行動様式を自分の「ジェンダー」に合わせる。←納得過ぎた。
社会心理学の研究によれば、いったんジェンダーの固定観念が心の中に根を下ろすと、それ を変えるのはきわめて難しいらしい。私たちは固定観念に一致することは「やっぱり!」と思う一方で、一致しないことは無視するか、例外と考えるか、状況のせいにするか、その人の個性だと思うんだって。 女の子がままごと好きだと「やっぱり女の子だね〜!」って言われて、めちゃくちゃお調子者な女の子が特性だって言われてる状況に居合わせたことあるし、自分も無意識にそういう価値観で接しちゃってることもあると思うから気をつけたい。
あと印象的だったのが以下の引用↓
女の赤ちゃんが泣くと、男の赤ちゃんより周囲に対応してもらえることが多い。だが、男の 赤ちゃんは泣いても無視され、年齢が上がると叱られることすらある。「男の子でしょ」「男の子は泣かないものよ」「赤ちゃん/女の子みたいに泣かないの」などと諭されるのだ。他方で、 女の赤ちゃんが怒ると、男の赤ちゃんより無視されたり、叱られたりすることが多い。「いい子になさい」「女の子らしくするのよ」と言われるのだ。エリオットが引用した研究では、もう少し年齢が上がった二、三歳児で、性差が見られ始めるという。女児は男児より言葉や表情で感情を表現するが、怒りは例外で、怒りをより頻繁に表現するのは男児だ。第4章で説明したように、こうした男女差が赤ちゃんのときに異なる扱いを受けた結果であるかどうかは断言できないが、そうとしか思えない節もある。ーーーーー
これは普段生きていてめちゃくちゃ感じる性差だけど、こんな風に幼少期から社会的に培われるものなんだよな〜と少し悲しくなった。泣きたい子どもは誰でも大人に安心させてもらっていいはずだし、被害にあった時に弱い立場の人が”怒れない””自分が悪いと思ってしまう”の現象はこんなところから始まっちゃうんだろうなと思うから、自分の中でだけは頑張ってジェンダーの枠組みを取り去っていきたいなあ....
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相当強硬な「ジェンダーフリー」教育推進派。ここまで強硬なのは最近珍しいよな。それにしてもなぜ女性ライターの人々は生年とか書いてくれないのだろうか。けっこう重要な情報だと思うのだが。
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著者らは、いわゆる「男脳」「女脳」はない、いや、より正確には、それぞれの指標で、平均値を取ると男性に特徴的な形質、女性に特徴的な形質の差異を見つけることができるけれども、ある一人の人間が「一貫して全ての特徴を有した男性」であるなどということは非常にまれである、というデータに気が付きました。つまり、個々人の脳はモザイク状になっているというのです。
これは、機械学習において、「特徴量ベクトル」を選ぶのに似ていて、ある人の個々の性質を0-1の数値で表した数字の列ひとまとまりがその人のFingerprintになるということを考えると、よくイメージできます。
男脳女脳は、各研究者が、「男が能力的に優位である」という一般常識に合致するようなデータのみを選択したバイアスのかかったデータであり、メタ解析を用いると、それらの性差は見られない、あるいはシチュエーションによる限定的な効果であるとみなされる場合がある、という選択バイアスの問題としてクリアカットに指摘されています。非常に面白いです。
ところで、わたしはこの前半のデータ部分を読み終わって★5をつけるつもりでしたが、後半フェミニズム的な、実例を交えたパートに入って雲行きの怪しさを感じ、評価を下げました。
筆者の前半の主張によれば、性器が男性女性、あるいは間性であったとしても、またその結果として見た目が男性女性的であったとしても、そこから脳が男性的か女性的かの判断は出来ないし、すべきではないと、解釈されるはずです。また、その結果として、男性は暴力的でセックスについて考えていて主張的であるべき、女性はおしとやかで謙虚であるべき、あるのだろうといった固定概念を持つことはすべきではないと主張します。それは個々の人々には適用できません。しかし、著者は夜道で女性とすれ違う際にプレッシャーを与えないようにゲイ・アイコンである歌を歌うようになった男子学生のエピソードを肯定的に紹介しています。この女子学生からすれば、向かってきたのが、男の見た目をしていたからといって、それを野獣だと決めつける根拠はないはずです。したがって、その観点にたてば、実際に痴漢さえしなければ、男子学生は夜道で女性とすれ違うときも堂々としていればよろしいということになります。この実例の教訓めいたパートは、前半のサイエンス的な主張を弱めるだけでなく、本書で紹介されている数々の論文は男女の脳の差がないことをいうために恣意的に選ばれたバイアスのかかった参考文献なのではという疑念を抱かせることにも繋がり、良くないのではないでしょうか(前半は素晴らしい内容でそんなことはないのですが)。
しかし、女性が夜道を歩いていて、男性とすれ違うときは怖いものです。当然引き起こるべき警戒心であると思われます。これを否定されるのでしょうか??いや、むしろこのような例が示すことは、ある状況においては「ジェンダーバイアス」が女性にとって身を守るための道具として機能しているということではないのか、そして、人間がバイアスを持つ事の副作用として、社会的な地位の差を生むことに繋がっているのではないかと思えます。
このよ��な議論をクリアにするには、バイアスを数字で評価するよりない(統計学にはバイアスという式の定義があります)ような気もしますが、わたし自身はまだ答えを探し中です。
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図書館 https://ksucat2.kyoto-su.ac.jp/webopac/BB01016502
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本来ジェンダーに基づかない差異(例えば立場や役割)を、ジェンダーに紐づけることで誤解が広まるし、その人らしさは男性らしさ/女性らしさへ収斂させられる。
男性/女性にバイナリーに分けることは、その本質を見落とすということ。
(身長が高いor低い、筋肉量が多いor少ない、権力を握っているor従属的な立場にある)
男性的な特徴と女性的な特徴のモザイクで人は存在する。→「男らしさ」「女らしさ」にも同様のことが言え、男性に多い特徴のみで構成される男性は稀で、かつ環境や年齢により絶えず変化しうる。
ジェンダーバイナリーという二分法によって私たち全員が傷ついているのだから、ジェンダーという枠組みを排除するべきだ。
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SDGs|目標5 ジェンダー平等を実現しよう|
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