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「ナルホイヤ」の考え方、飲みながら話している時は、また都合のいい弁説を繰り広げて、、、と思ってたけど、例えば、田んぼの地主さんの気まぐれな時間感覚なんかもこのナルホイヤの考えに近いのかもしれないと思い直した。そして、バリバリに計画という未来予期の世界で生きてきた自分も、時に、それは特に冒険的行為に近いことをする(ドーバーを泳いだり、ユーコンを走ったり、バックパッカーの旅に出たりする)とき、感じられるなんだか予定調和のつまらなさを思うと、そろそろナルホイヤのモラルを持って生きる後半生に入ってもいいのかもしれない、と思い始めたのだった。
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冒頭のコロナ後の世界の話が非常に腹落ちした。
未来は本質的に謎で、正確に予知することは不可能にも関わらず、明日も今日と同じ自分がいると確信している。そして、その未来が正しいと信じて今目の前の現実から目を背ける。
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著者の「目標と過程」の考察と行動が興味深いです。目標達成に重きを置き過ぎると、日々は単なる過程、短いほど効率的となってしまいます。旅行で、目的地に達する事だけが目標だと全然楽しめないように、「今、ここに生きる」とは全く正反対で、決して幸せにはなりません。
著者は「地図なし登山」など行動してそれを試したりしています。「〇〇を手に入れたら」というように幸せを遠くの目標に置かないで生きることを、僕たちもそれぞれが自分の頭で考えて行動に移したいですね
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ナルホイヤという言葉の後ろにあるものに気づいた著者は、こう語ります。狩猟で旅をすれば、その時点で漂泊となる。(略)狩猟者=漂泊者は計画的到達行動と違って、計画という未来予期に生きるのではなく、獲物が現れるかどうかという偶然性に、つまり、今目の前 の現実に組み込まれて生きる者のことだ、と。なるほど、なるほど、であります。何が起きるかわからない時代に生きる我々も、少しは、ナルホイヤ的な見方も必要では、と著者の語りかけに、★4っつであります。角幡さんにこの本を書かせた、編集者の磯貝さんにも☆四つですね。
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『極夜行』以来の著者作品。
極夜の冒険の続きで、まだ北極圏へ通い詰めていた著者。今回は、そんなところに、コロナ禍という非常事態が、世界に押し寄せたから面白い。
面白いというのは、予想もしなかったことながら、著者は北極圏で、
「世界を席巻するコロナ禍から、私は完全にとりのこされていた」
のだ。ウィルスを運んでくる人も居ない、居てもとてつもないソーシャルディスタンスの果てだ(そもそも氷点下でウィルスも活動しない)。
「あなたは世界で一番安全な場所にいる」と日本に残した奥さんにも恨み節を言われる(笑)
しかし、そこで、「安全」とはなんぞや?と思索を始める、答えを探そうとすることが本書の主旨だ。
安全とは、死からの隔たり、あるいは予想しうる未来の存在か?
しかし、コロナによって死は身近なものになり、未来は混沌として先が見通せない(いまだに!)。
計画通りに物事が進むことがさも当然と思い込んでいる現代社会に、遥か極夜の地から投げかけられた問いかけが胸をえぐる。
そこで著者がたどり着くのが、極北の地に暮らす人々の思想だ。
「いくら昨日の氷の状態がよくても、そんなものは今となっては無きにひとしいので、あらためて岬の状態を確認しなければならない。」
常に、自分で考え、確かめ、柔軟にその生き方を調整してく。
アフターコロナに求められる新しい思考法のヒントがそこに垣間見える気がした。
そして、どうあがいても、どうにもならないとき ー 大自然相手だと往々にして、そういう事態になる。そうなることが日常だ — そんなとき、現地の人はこうつぶやく <ナルホイヤ>
未来のことを聞かれたら、〈ナルホイヤ〉だ。
「明日の天気はどうだ?」 「ナルホイヤ」= 分からない。
この「分からない」には、裏の意味が込められている。
〈お前は未来のことを訊きたがるが、今、未来のことを聞いても意味がない。そのような質問をするお前はアホではないか。そんなことは訊くな〉
これは、聞くこともなく流されよ、ということでもない。そんなことをしてては死んでしまう。
「自分の頭で考えろということである。決まったやり方などない、そのときの状況に応じてやり方を柔軟に考えなきゃならん」
これが、極北で生きる民のモラルだ。 This is a Way!
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イヌイットの人々と暮らしを共にし、極地探検を続ける著者の思索。
現地の人々のものの考え方、探検、狩猟に対する考察は、全く異なる文化の中にある私たちに新鮮なものとして映る。
同時に蒙が開かれる思いを抱く。
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この本は角幡唯介さんのラジオ収録を聞きに行った際に買ったもので、本の発売日でもありサインを書いていただきました。狩りの思考法というタイトルのとおり、角幡さんの冒険に狩猟という要素が含まれるようになった理由や、それを含めることで新たに見えてきたことなどが書かれています。イヌイットの人たちとの生活を通して見えてきた彼らの達観した考え方と現代人のそれとの違いが様々書かれていて興味深いです。
角幡さんは冒険を行うにあたって、生命の危機を減らすために旅先の情報を調べたりして計画するわけですが、そのような計画を行っている以上はたどりつけない境地があることに気づき、できるだけ計画せず、旅先でGPSを使わず、ついには地図も持たずということに挑戦し始めるようになりました。例えば日本に帰ってきたときに上る日高山脈では地図を持たずに登山することで実際にその山稜や道の見え方が違って見えることに気が付いたといいます。地図があるとどうしても決まった道が浮かび上がってきますが、それがない場合は自分で考えた道を進むようになる、そのような感覚のようです。これによって角幡さんは「漂白」するような旅が可能になったと語っています。明確な目的地を決めた、到達至上主義的な旅からようやく脱出できたということでもあります。
現代人は何かがわからないという状態に対して耐え難くなっていて、ネットで調べればどんなことでもわかる、わからないといけない、わからないと座りが悪いそんな状況にあります。それは知ることによって「大丈夫だ」と思えるようになることによって未来に進んでいくことができるからだと考えられます。逆にいうと「大丈夫だ」という思いを持てない場合には先に進むことをためらってしまうということでもあります。
角幡さんが狩猟を含めた旅を行う舞台となるグリーンランドでは、死が傍らにあることがひとつ特徴であると挙げています。大きな動物を殺めることによって食糧を得ることができ、また仕留めたあとの動物は隠ぺいされず、生活のここかしこに存在している。その動物は間違いなく人間によって殺されたものであるという事実を否応なしに突き付けられるのです。死んだ動物の目はそのように語りかけてくる、と言います。
イヌイットは「ナルホイヤ」という言葉をよく使います。これは「わからない」という意味に近く、適当に答えがわからないという文字通りの意味のほかに、先のことを考えても仕方がないときに今に没入して状況を打開したり、先がわからないことを過剰に不安視することを避けるための生きる知恵ともいえるもののようです。
「アンマカ」という言葉もよく使い、これは「たぶん」の意に近いといいます。
さて角幡さん自身はこの狩猟という行為にどのような感情をもつのでしょうか。かつて極夜の旅で食糧が完全に尽きかけたとき、犬のウヤミリックを殺して食べようと考えたことがあったのは有名話です。狩猟という行為を介して動物に対して何も感じることはないのかというとそんなことはなく、初めてジャコウウシをしとめたときに感じた負い目は忘れられないといいます。おそらく周りにいった子牛がう��たえる様子に心がざわつくこともあったでしょう。この負い目、落ち着かなさの深淵は一体何なのでしょうか。もしかしたらそれは動物の側から自分に対する生きるということの意味を問いかけるものなのではないかと感じたといいます。日常の生活で食卓に牛肉が並んだときに現代人はそのような思いを抱くことがほとんどないのは、自らの手で牛を殺めているわけではないからです。命を感じるというのはそういうことなのです。
角幡さんが今目指すのはグリーンランドで狩猟をしながら旅を続け、その土地の特性をよく知っていつ、どこにどんな動物がいてという情報を得て効率のよい旅が可能になるようにすることです。ただ最短距離で事前に準備した食糧だけをもってゴールに向かう近代的拡張の考え方に基づく旅をするということにはもう興味がありません。その心がけをきくとき、私たちは現代人が生の意味を見失い、不安を恐れ、死から目を背け、不確定性の高い未来から逃げ続けてしまっていることを否が応にも知ることとなります。果たして私たち現代人は不確定性の高い未来を生き抜く心を持つことができるのでしょうか。そのためにはどんなことが必要なのでしょうか。狩りの思考法を読むとき、そんなことを考えずにはいられませんでした。
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安全志向
現代日本社会では自由や人権よりも価値の高い概念
明日生きている自分 過去の実績からの「未来予測」
シオラパルク 世界最北の村
イヌイット 自殺率が高い民族 人口10万人あたり575人 日本20人前後
アザラシやセイウチ、鯨やシロクマ 狩られ解体される食にまつわる死
生がなだらかに続いたその先にあるものが死
現代社会は死を不浄なものとして隠蔽
生を除去された肉類 死を通して生を語ることができない
ナルホイヤ=わからない アンマカ=たぶん ・・・生きるためのモラル
時間と風景の単調さ 時間概念が希薄 数の概念の欠如
今目の前の場当たり的 偶発的からの可能性
=生きていることを感じさせるダイナミズム 狩猟者
冒険・探検
システムの外側のカオスへ飛び込み、試行錯誤して生命を維持させる
空間的不安は時間的不安に直結
自分自身の身体や他者 =先の読めない無秩序
狩猟=漂泊
今起きる偶然に身をさらし、それに組み込まれることで自己変容する旅
自分以外の誰かのひな型の「知識」ではなく、その場で考える「知恵」
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自分の行為を見つめて、その内面深くを考察する。
計画を立てて行動する、現代人の在り方と、ナルホイヤの思想という、今現在を生きる狩猟民族の生き方の対比がとても印象的だった。
本を書いて発表するために冒険していたが、シオラパルクに通うようになってから、本では伝わらない、それでもいいと思うようになったとの著者の心境の変化も印象的。
こんな生き方もあるのか。
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現在、僕的に最もしっくりくる冒険論を書いているのが、本書の著者、角幡唯介さんだ。計画と漂泊に対する考察、冒険行を思い立つその経緯、すべて拍手したくなるほどだ。
本多勝一さんが著書で紹介していた『アーマイ』(本多さんは音符表記で発音・アクセントも伝えようとした)と同義語の『ナルホイヤ』を通してイヌイットの思考を理解する下りは、著者の肌感覚と併せ、面白い考察だと思う。
ただ、文中にも書かれているが、原稿量が決まっているためか、一つ一つの論旨を説明するにあたり、冗長になるきらいがある。もう少し比喩を削り、文章に締まりを持たせたほうがダイレクトに著者の主張が伝わると思う。
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冒険されていない場所が段々と少なくなって、エクストリーム登山のようなものが多くなってきましたが、書籍として読むのはやはりオーソドックスな方が楽しいしワクワクします。
とはいえオーソドックスって何ぞやというと、厳しい自然に少ない装備で分け入っていき、現地で食料調達して食べるというのは非常に読んでいてワクワクします。
なので極夜を旅するという概念上の未到達地点を作り出した角幡さんは偉大です。無人の平原を犬橇で旅をしていきゴール地点を決めず、得られた食料によってどこまで行けるか本人がワクワクしながら極地を分け入っていく。うーんこれはワクワクだ!と思ったらまさかのコロナ。まさか無人の野にまで波及するとはコロナ恐るべし。
さて、そんな中、イヌイットの通常業務である狩りという行為がもたらす精神的な動き。我々肉を買っている人々と彼らの違いなどが色々書かれていて非常に興味深かったです。
よく屠畜する人々への差別をさておいて肉を恒常的に口にする事を云々される事多々ありますが、そもそも極地には植物が殆どなく、殆どすべての栄養を生物の死から取り込んでいます。死が身近にある事で自分と他者(人だけではなく)の違いが薄皮一枚にまで狭められている。これは我々にとっては異常な事ですが、本来生物としては当然の事と思えます。
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【概要】
角幡氏は北極圏を探検する冒険家で、イヌイットの人々の「ナルホイヤ(わからない)」という口癖にふれながら、現代日本人との違いを哲学するという内容。とまぁ固く書いたが、軽快なので読みやすい。
【未来予期】
そこで出てくる『未来予期』という言葉。
たとえば見知らぬ地でラーメン屋を探すとき、★の数で決めるのが常識である。
本を買うときもAmazonで評価を見る。
これが『未来予期』であり、このとき人間は、『未来予期』との差異=相対価値を味わっているだけで、良かれ悪しかれ絶対価値に触れていない。
未来予期からの脱却こそが、生命が本質的に生きる『ナルホイヤ』であろうというのが帰結。
(→「狩りで得た食料だけで北極圏を単独旅する」というぶっ飛んだ思考へ)
【会社はどうか】
一方で会社。平均寿命は30年でありながら、前提は「ゴーイングコンサーン(未来永劫続く)」である。
人工的に・合目的的に作られた組織体で、法人などと呼ばれながら、生存本能がないので放っておけば死ぬ。
したがって会社は経営者による『未来予期』が絶対である。
例えば5,000人の従業員を雇用していたとして「明日のことはナルホイヤ」では集団自殺に等しい。
組織人と経営者は本質が違う。
組織人は会社と雇用契約を結んでおり、明日も給料をもらうことが約束されている。
職業選択の自由がある。
個人における未来予期の蓋然性が高い。
経営者は違う。何一つ確証がない。明日会社が終わるかもしれないのだ。
だから確認したいのだ。週次でも月次でも、『未来予期』通りに進んでいるのか。
【幹部は】
『未来予期』に寄与する情報、そして『未来予期』との差異を経営者に提供するのが幹部の使命だ。
幹部は、部下ではなく上司(経営者)を常に観察し、どのように大局をに見通そうとしているか理解しないといけない。
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至高の目的を設定すると、その目的に向かうがために、今現在はただの通過点になりさがる。
目の前でおこっているあるがままの事象を受け止め、向き合うことが生きる上で大切なのだ。
これは探検だけでなく、生々しい生活の中でも陥っている状況であり、とても大切な教訓だとハッとさせたれた。
もう一つ。
我々は合理性の名の下に何事にも知識を身につけてそれを落とし込むことで効率良く物事を進める傾向がある。だから、今目の前で起こっている現実を受け止めてそれに向き合うエスキモーの人々は、一見我々からみたらすごく非効率的にうつると思われる。ともすれば愚鈍に感じてしまう可能性すらある。
知識にたのまず、知恵で解決するという、思想及び姿勢の違いを理解できていない、その可能性すら考えることのできない、自分の視野の狭さに恥いるばかりである。
世界には色々な人々がいるのだなあ。
知識にたのまず知恵を絞る姿勢が根付く民族性に強く惹かれる。
我が子たちにはぜひ、語学留学もいいが、エスキモーの村に精神?留学してもらいたいくらい
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やられた。
そうきたか。
『極夜行』で角幡さんは次のように言っている。
——探検というのは要するに人間社会のシステムの外側に出る活動です。(p.41)
だから、GPSは使わずに六分儀やコンパスを使い、インターネットは極力使わない、という旅のスタイルをとっている。これは『空白の五マイル』(2002~2009)でも同様だった。
けれど、なんだか引っかかったのだ。『極夜行』にはあって、『空白の五マイル』には無いもの。
デポである。
探検の本番に先んじて拠点に物資を貯めておくことらしく、極地探検では定石とされているようだ。実際、『極夜行』では自分のデポを現地のイヌイットの若者や白熊に台無しにされた角幡さんは、英国隊が放棄したデポをあてにして旅を続けようとした(それも結局、白熊にやられているんだけど)。
でも、これってとってもシステマティックな方法じゃないの?と私にはどうにも引っかかっていたのだ(もちろん、そこを差し引いたって『極夜行』は間違いなく名作だ)。
で、この『狩りの思考法』である。
ついに、角幡さんは食糧補給においてすら、デポというシステムを脱し、狩猟に軸足を置くことにしたのである。
もうびっくり。
確かに、予兆はあった。『極夜行』でも兎や狼を仕留めて、美味しそうに食べていた。でもまさか、それを旅の要に持ってくるとは。
やっぱり、角幡さんは求道者的探検家だと深く納得した。
この本で丁寧に語られているのは、シオラパルクの人々が常々口にする「ナルホイヤ」という言葉の深い意味である。
「ナルホイヤ」は日本語に訳すと「わからない」「なんともいえん」という意味らしい。イヌイットの人々に何かをたずねても、返ってくる答えは十中八九「ナルホイヤ」なのだそうだ。
角幡さんはその背後に、狩猟民族としての彼らの深い知性とモラルを見ている。
曰く、狩猟を中心に生を営むあり方において、獲物が予期したところに本当にいるかどうかは常に未知であり、であれば下手に予定を組んで未来に縛られながら生きることは却って不合理で、常に判断をカッコに入れておく「ナルホイヤ」の思想こそが生き延びるのに最も合理的だと言うのだ。
なーるほどなー、と思った。
だから、本書の書き出しがコロナなんである。
コロナ禍は私たちが暮らす現代文明の未来予期体質に大きな穴をあけた。予定は立たず、立てたとしても陽性反応や保健所からの指示であっさり覆る。
もろい。未来予期は、実にもろかった。
ネットワークに代表される網の目のようなシステムにガチガチに固められることで「安全」に暮らせるかのような幻想を抱いていた私たちは、ウィルスひとつ満足に制御できない現代文明のもろさに、今、直面している。
一方、角幡さんは、文明ゆえのもろさの外に出てはいるが、そのことでむしろ生きものとしてのもろさに直面する世界に身をさらしている。
結局のところで、強さよりは弱さの方を、私は角幡さんの著作に見てしまう。
もしかして私が様々な探検家の書いた書物の中でも特に角幡さんの作品に惹かれるのは、そのもろさ・弱さへの感度と���う点で、どこかしら自分と通底していると感じているからなのかもしれない。おこがましいけれど、アンマカ。
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今現在あてを決めずに旅をしているが、観光地や飲食というものに飽きてしまっている。
どこに行っても同じような現代人間の生活の中で、唯一楽しいと思ったのが漁を始めとする“生の生活”だ。
日が昇れば起きて、天気が良ければ漁をして、気分次第でおやすみする。そんな暮らしがまだ残っている地域がある。
それは本当に“生活”そのもので、旅行や観光といったものには決してない素の姿だった。
自分がしたいのはそういう生の生活を見ることだなと思うようになってきた。
旅の仕方と目的を、今一度確かめたいと思う。
そんな今にピッタリの本であった。
ちょっと後半3割ほどが冗長であったが、読みやすくまとまっており良い読後感です。
まだまだわしも考えることがたくさんある。がんばろう。