紙の本
後からじわじわ来る一冊
2022/03/22 15:36
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臨床心理の分野で活躍する信田さよ子さんと、教育学が専門で沖縄の少女たちの聞き取りを続ける上間陽子さんのトークイベントをベースにした、対話集。
人の話を「聞く」ことを仕事にしている二人だが、そのスタイルも、専門分野も、聞く相手も異なる。さらに著書などから、ベテランで理路整然としたイメージのある信田さんと、ほんわかとしていて研究者としては独自路線の上間さんがどんな会話をするのだろうかと、興味を持った。
「言葉を失ったあとで」というタイトルにも惹かれた。
二人はある意味プロでありながら、「聞く」ことへの戸惑いや疲労、葛藤などを隠さずに語る。そして、何となく共通する問いや答えが見つかる。それこそが、「聞く」プロの二人による対話の生み出したものなのだろう。
取り立てて新しいことが書いてあるわけではないと思うが、何となく引き込まれ、読み進み、読むことで何かが解決したわけではないが、読んで良かったと思える。
そして後からじわじわ来る。
「語りだそうとするひとがいて、それを聞こうとするひとがいる場所は、やっぱり希望なのだと私は思う。」
最後に上間さんが書いている言葉が、この本を象徴的に表していると思った。
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以下引用
対談の収録が終わるたびに、あれ、こんなはずじゃなかった、なんだか話過ぎてしまったぞと思ったのだが、それは嫌な感じではなかった。
被害者の告発によってはじめて加害者が立ちあがる
日本語でいうと、毅然としている。決して相手を否定しないし、尊重するんだけれど、毅然としている。これがポイント。
彼らをひととして尊重する、だけれど譲ってはいけないところは譲らない
メタ的な認知の力があることで、なぜ目の前でこのような語られているのかというアングルをとることが可能になるのですか?
複数のポジショナリティがあると話しやすいのかな
★加害の瞬間の解離は意外と多いんじゃないか
なぜこういったことが起きたのか、言葉として落とすのは大事
私からすればすごく危ないことをその子がやろうとしているように見えるときでも、先生は主体性を絶対に奪わないやり方でアドバイスをする。本人が選んでいくということを手放させない。それが長い目で見たときに、どれだけ効くのかまざまざと勉強している
専門用語は、当事者が使いこなせないと意味ない
現象をあらわす言葉がなく、それに巻き込まれることと、現象を名づけ、今度はこれができるという準備ができるというのは違う
★★あんまり共感性を私は考えない。このひとが何を感じているかというより、このひとの言っていることで、私が何を見ることができるか。見たものをどうつなげてストーリー化できるか。そこにはどんな仕組みがあるのかを聴いている
カウンセリングは、本当に頭をフル回転させないといけない。言われたことをイマジネーションで映像化して、物語化して、仕組みを考えて、次何を言おうかなって考えている
ピアグループをもっていないので、言葉がほんとに出てこない
こんなに語りづらい子にしやがって。学校は何してくれたよって
家族のなかでも話していない。そもそも幼いことから話を聴かれていません
カウンセリングは料金を支払ってもらうので、絶えずその料金に私の援助が見合うか、査定がはいる
謝罪は、被害者が責任をとることのひとつにすぎない。誤ればいいわけではなくて、自分が何に傷ついたか、あのときどんなことが起きどんなことを夫に言われたか、そのとき子どもがどんな顔をしていたか、それらを全部認めた上であやまってほしい。それを説明できることが、加害者が責任をとること。
多くの被害者は、自分が傷ついた内容をあまり理解していない。そうすると、被害者は相手がなぜあんな言動をしたかが理解できない。自分の被害の意味がわからない
射程が小さくなるということは、明晰になるということ。世界はある程度明晰でないと
→こういう意味での「ことば」の教育がないことが、結局権力や暴力を増強することになっていることを改めて。自分の言葉をつくる、自分の感覚を言葉にすることの教育の必要性を感じる
死刑は何も解決しない
★同じ経験をしたひとの体験談。グループカウンセリンぐで���、他の参加者が経験を語るのを聴く。自分の経験が言語化されることはほとんどいっしょで、同時進行。我がごとのように聞くとはこのこと
→これはうちでもあるなぁ。
教師は、子どもの声を聴く力を失っている。子供がそこからはみ出すことをしたら、それをキャッチできない自分であることに反省的にならない
カウンセリングが聞く仕事だとはあまり思ったことない。
精神分析的な素養がある人は、言った言葉を解釈する。そのひとの無意識が、たとえば言葉でなくても、今日の服装とか、どんな部屋を選んでいるとか。そういうところに現れていると。自分の無意識に気づくのが、心理療法であるみたいな
なぜこのような抑圧のなかで生きているのか、もっと良い政治はないか?
特権的な場所にいる男性
アルコール依存症は、近代的自己の限界をいちはやく露呈した人。がんばれば先があるとか、自分で自分の意志をコントロールすれば成長できるとか、そういう神話が崩れ去った
なぜ、みんなそんなに信田さんに語ろうとするんですか?ーたぶん聞いてもらったことがなかったんですよ。安心して語れる場というとかっこいいですが
彼女たちは話さない。あまりに話さないので、聴き取りを終わってほしいのかなと思って早めに切り上げようとしても、今度はなんか終わってほしくなさそうな感じで。それで夜になって。メールを送ると、今日はとっても楽しかったです、みたいな返信がくる。語り慣れていないひとたちなんだなぁと。だから、最近は沈黙に強くなることを意識している。焦って喋らないで、ぽわーんとのんびりしてる。私がリラックスしている顔をつくるのが、とても大事。こちらがのんびり言葉を待ってたら、話してくれる
傾聴、共感と言うけれど、傾聴は意味があるけれど、共感は意味がないと思う。向こうが値踏みして、話した時点で合格点をもらっている。そのあとの反応もけっこう査定されている。いまでもありますよ。自分が査定されている感じ。当事者のお眼鏡にかなっているかどうかは大きい
値踏みされているのは、私だけではなく調査全体。本当に敏感で。
お金の高い安いはあまりモチベーションにならない。
専門家の偉いが、お金によって水平化する。
無料って怖くてできないですよ。ボランティア相談
貧困研究界隈では、研究者が話をきいてあげること自体がエンパワメントだみたいな言説がある。とんでもない搾取の構造
当事者にお話を聴いてデータを収集して、それで終わり。それは奪っていると思います、当事者の言葉を
いい時間で楽しく、おいしいものを食べて、お金ももらて、自分ってすごいなぁって思ってもらいたい
身体はこわい。だから言葉優先で、言葉で仕事するって思う。
侵されることに敏感な子
★自分の身体の快楽を他人がコントロールするんじゃなく、自分でしていくんだよっていうメッセージ。それは本人にとってみれば冷たい行為にも思えるだろうし、もっと侵入してほしいというのがあるとは思う。でも、何よりも侵入したら暴力は発生する。、、、それで去っていく人もいる。冷��いって。自分の身体、外界、もしくは他者の身体との境界が絶えず曖昧で、だからこそ信頼するひとに入ってきてもらいたいし、ときには触ってほしい、みたいな。放出してるのがちょっとわかったりする。私は絶対に拒否する。冷たいかもしれないけれど。自分の要求は拒否されたと思うときもあるだろうけど、そういうときどうしていいか私にはわからない。
★医療では決して救い上げられないような人を対象にしているという自信がある
殴られている女性が全員DV被害者ではない。それがDVなんだと、つまり当事者性の有無
だから、こちらとしては周辺の話を聴いていたら、性暴力がぽっとでてくる。たぶんこれまで語られていない方がいっぱいいる。本人も「あれ、話しちゃった」みたいな反応
★「私は性被害、性暴力を受けました」といって、カウンセリングに来る人はほとんどいない
2年くらい来ていて、今日でカウンセリングは終わりですというときに、最後に話す人もいる
メンバーの話がきっかけで、想起というか、忘れていたどこか異空間に合った記憶が、さっとフラッシュバックする
★★→いまその記憶を思い出してもちゃんと支援してくれる専門家や仲間がいる、大丈夫だと思ったときに、フラシュバックする。
長期的な生虐待を受けた人は、夢を見ても大丈夫っていう状況まできているから、夢にそれがでてくる
★★自分の身に起きたことがわかってから、ほんとうの苦しみがやってくると思う。でも、それを信じる人ができたから、話を聴いてくれる人がいるから、その苦しみが起きる
★すこし安全なところにきたから、なんとかその記憶と生きていける道はないかと思い、想い出す
夢に出ても大丈夫って。夢に出ることで、ちょっと変な言い方かもしれませんが、回復していくんだと。
解離というより、セルフコントロールできる領域をつくって、自己の感覚を戻している。
過食がアディクションとすれば、セルフコントロールの感覚をアディクションは回復させる
自助グループって語りのフォーマットを手に入れる場所。言葉を消すために生きてきた、飲んできた。そんな彼らが、毎日いろんな語りを聞いているうちに、自分の経験が少しずつ言葉になってくる。彼らのトラウマも、それを言葉に出している人によって、すこしずつ、容器、コンテナができていく
話し方のフォーマットを手に入れて、自分の経験を言葉に、文脈にしていく。その過程で、他者がそれを聴いて助けられていることを知る。
個人カウンセリングでは、フォーマットを用意しないかというと、実はする。私は言葉を禁じる
こういうふうに言いなさないではなく、使用するワードを禁じる。
★愛情とか、だって親だからと。絶対×。自分の体験にもっともそぐう言葉は何かを考える。それこそ言葉は政治。既成の家族概念に回収されるしかない言葉が使用しない
★自助グループは、メジャーへのある種の対抗文化。だから、自助グループの言葉はカウンセリングでは、カウンターカルチャー
★既成の言葉では言い表せない言葉で言い表せるようにしないといけない
禁じ手。ひとつは近代家族のなかで前提にされている役割により自己の固有の体験を語らせないこと。もうひとつは、意志をもってなんでも遂行できる自分とか、すべてコントロール可能な近代的自己
→これがなくなると、「比喩」が出てくる
そのような言葉によって当事者の体験は聴き取られなくなる。ある種の当事者性を抑圧する言葉になる
おおくくりの言葉を使うと、個人の体験が凡庸になる
抽象的な言葉を禁じる。愛着とか、意志とか。
カウンセリングに来る人は、抽象的に語らないといけないと思っている。けっこうがんばってくるんですよ。でも「私はこういう経験をしてきました。だから成育歴の過程で満足な愛着関係を得られなかった、だから」、、、。って。
→少しずつ話すことを具体的になってきて、実は自分の経験したものを語りたいように語ればいいんじゃないかということがわかってくる
私はカウンセリングでは抽象的な言葉は極力使わない
男性は自己啓発的なビジネスでいきていて、勘違いが多い。一般化する。
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読もう、読もう、と思いながらもなかなか読めずにいましたが、ようやく読めました。
印象に残ったことをここでは2つだけ書きます。
選択不能性について。
ものすごく少ない選択肢の中からしか選べない状況にある人がいるということを、私はどれだけ理解して「自己選択」「自己決定」の言葉を使ってきただろうかと、自分の理解の浅さを感じました。
性暴力、DV加害をどのように見ていくかについて。
頷くばかりで納得しかない感覚でした。
怖さや危うさを改めて感じました。
カウンセリングから、社会調査から、多くの方の声を聴いてこられたお2人の言葉には、とても説得力がありました。
加害者の被害者性を取り扱うことのリスクについて知ることができたのもよかったです。
上間さんの本はまだ読んだことがなかったので、「読んでみよう!」と思いました。
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深く 深く 考えさせられてしまった
「今」この瞬間にも 起きている
「アディクション」「DV」の実態に
そのまま向き合ってこられた
お二人の 言葉の数々に
考えさせられてしまうことしきりである
もうずいぶん前のことになるけれども
DARCを運営されている方と
知り合いになったことがあり
一度「ミーティング」を覗いてみませんか
とお誘いを受けたことがあった
その時にも ものすごい衝撃を
受けましたが
語りだそうとするひとがいて、
それを聞こうとするひとがいる場所は、
やはり希望なのだと思う
と「おわりに」の中で
上間陽子さんが綴っておられますが
つくづく そうだなぁ
と思う
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2022.3.12 市立図書館
人の話を聞き取ることが仕事の幹になっているお二人のトークイベントをベースとした対談集。
2020年秋のオンラインイベント(初顔合わせ)をきっかけに東京と沖縄を結ぶ4回の対談を経て、最後は2021年5月に筑摩書房で対面しての対談がまとめられており、立場やスタイルの違いはありながら息のあった対話をつうじて、それぞれが自分の考えを掘り下げながら進むべき方向をともにさぐるスタイル。阿吽の呼吸で通じ合ってしまう専門用語周辺はちょっとついていくのが大変だったが、読んでいて学ぶことやピンとくることがたくさんあった。カウンセリングや社会調査(聞き書き)の現場に興味がある人が読めば気軽に入門しそれぞれのスタンスを知ることができるし、各章末に読書案内として上間さんと信田さんがそれぞれ2冊ずつおすすめの本をあげているので、ここから芋づる式に勉強していけるのもいい。
「聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない」「聞く耳を持たなかった。だから聞き逃してきた声がたくさんある」と「海をあげる」でも語っていた上間さんの葛藤、抽象的な術語や流行の表現でわかったつもりになることを戒め言葉を使って実態に迫ろうという信田さんの手法、それにこれまであまり語られることのなかった信田さんの来し方の経験などいろいろ興味深かった。
それにしても、暴力や支配はもちろん精神科業界の構造とかどんな問題を話しても最後にいきつくところは男女の不平等というか分断なのだなあ…女や子ども、弱い立場にしわ寄せが行く構造を変えていくにはまだまだ時間もエネルギーもかかりそう。
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アディクションの世界では知らない人がいない信田氏と沖縄の少女が置かれた実態を赤裸々に書かれた上間氏の対談本。ともに性と暴力について取り組んでいる二人の対話で盛り上がらない訳がないエキサイティングな対話集である。取り組む立場は違えど、ともに「言葉」を大事に取り組む二人の底での認識は共通する。対話集なので言葉は平易だが、行間に流れる言葉は深い。何回か出てくるが、「コロナが明らかにしたのは、日本の感染症対策の脆弱さもだけど、性差別、性被害の問題ですね」と、出るべくして出た本であり、性と暴力だけでなく、性差別も考えるヒントが満載であった。
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簡単に感想を書ける類の本ではないけれど敢えて言うならば…青山ブックセンターでのイベント申込み一瞬出遅れた自分を許せぬ!が、岸政彦さんを加えた三人のzoom配信見られただけでもヨシとせねば。お互いに敬意を持ちつつ聴き合う態度に圧倒されたし惚れ惚れしました。
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なかなかに感想を書き留めておくのが困難な本だ。私の知識不足、勉強不足を含めて(二人の著書を先に読んでおくべきだった)。でも、対談集なので読みやすいし、しんどい部分もあるんだけど、スカッとすることも書かれていた。
臨床心理士という仕事、DV、アルコール依存症、性虐待、上間さんが調査している沖縄の若い女性たちの話…。表面上のことしか知らなかった、というよりも、こう考えるべきだろう、という一方通行の視点しかもっていなかったことに気付かされた。学んだことがたくさんありすぎた。
「加害当事者の正当化以外の声が、なぜこの国では聞こえてこないのか?」(P52)「ひとは差異でもって、リスクとか不快の話をする」(P94)「自分の記憶を信じてくれるひとがいるというときに、安心できるひとができたときに、辛い体験がフラッシュバックする」(P234)
あと、信田さんがカウンセリングのときに「言葉を禁じる」という話のくだりがすごかった。ひとつ取り上げるなら「自己肯定感という言葉は使わない。自分で自分を肯定するとか、自分で自分を好きになるとか、それは無理じゃないでしょうか」(P253)。当たり前のように使っている便利な言葉を使うことで見えなくなっていることって、ほんとにたくさんあるな、と思った。そこを自分の言葉にしていかないと、自分とは(他者とも)向き合えない。
「いまでも、メジャーなメディアではDVの話題はあまり出ない。出るとしたらどうやって被害者を逃がすか。性暴力もそう。被告の悲惨さは言っても、加害については言わない。加害がなきゃ被害は起きないのに、加害は見えないままだった」(P327)
知らないことを知る。考える。
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DV、虐待、性被害についてや、加害又は被害を「聴く」「治療する」ことについて、考えさせられる対談だった。近接領域で働いているのでお二人の話にそうですよね〜と深くうなずきたくなる場面も結構あった。加害者って映画の世界みたいに綺麗に変わらないですよね。被害者の気持ちを真に理解できる人も少ないんだろう。
もちろん知識や経験の不足を痛感することも多々あった。海外ではDV加害者が裁判所命令でDV加害者のためのプログラムを受講を義務付けられると知って驚いた。
信田さんの面接で愛着障害だとか自己肯定感が……とかいう言葉を禁じているという話もなるほどと思った。その人の中で物語として完結してしまっていたらそれをそのまま受け止めたくなるけど、あえて事実を語らせることで直面化させるというか。そのまま真似するのは難しくても、そういう表現が出てきたら言い換えてもらうとか応用して取り入れたいなと思った。
上間さんの社会調査の話もすごいなと思った。学生時代に社会学の授業をとったとき、社会調査って結局なにやってるのか謎だなと思ってたけどイメージがつかめた。すごい行動力と熱意がないとできないなぁと。
選択肢の少なさの話も心に残った。同じ選択でも、3つから選んでいる人と15から選んでいる人がいる。どのような選択肢の中からそれを選んだのか。その背景にまで想像力を巡らせて他人の話を聴かないとなぁと思う。
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知らなかったことばかりだった。
少し言葉が難しいところはあったが、困難な状況にある女性たちに寄り添う二人には、敬意しか無い。
この本を読んでいる頃、新聞の沖縄の記事で、上間さんと本で言及されている研究者の打越正行さんが話されていて、私的に本を補完してくれた。
基地を沖縄に押しつけている現状が、弱い立場にある女性たちを追いつめている。
現状を容認している本土のわたしたちも沖縄の女性たちの加害者なのではないか。
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「愛着障害」や、イメージが一人歩きしている言葉をちゃんと否定してくれていて良かった。言葉は当事者を救うものでなきゃ。
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「被害を訴えなければ加害は生まれない」のだとつくづく思う。新たな視点を幾つも得た。まるで自分が悪くない、自分は被害者であると語る加害者に対面きたとき自分はどのように感じるだろうかと考えてしまう。手元に置いて何度でも読まなければ理解出来ないだろう内容だった。
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「言葉を失ったあとで」というタイトルだが、中には言葉を失うほどの壮絶な経験をした人々の言葉をなんとか引き出してケアに繋げようとするそれぞれの現場について語られていた。
DVや虐待、性被害などは身体の傷だけでなく、心の傷も深く苦しい。それを語れるのは言葉でしかなく、言葉にならないからこそ辛いのだと思う。
信田さんがカウンセリングにおいて「抽象的な言葉を禁ずる」と語っていたのがとても印象的だった。「愛着障害」などと言ってしまえばそれできれいにまとまって終わってしまう。しかし、その言葉を禁じることによって、具体的に残るのは「比喩」だという話は、「自分の言葉で語ること」とはどういうことか、あるいは「世界は言葉でできている」ということを改めて強く認識させられるものだった。
上間さんのあとがきでは、亡くしてしまった子のことを思い出し、「問う先をなくした言葉は、私のなかでぐるぐる回る。あの子の話を、私は結局聞き取ることができなかった。…その子の現場を正確に聞きとり、その子をエンパワメントできるような言葉を紡げないことに、私はいつもいらだっていた。」という。
そして「語りだそうとするひとがいて、それを聞こうとするひとがいる場所は、やっぱり希望なのだと私は思う。」と書いて終えている。
この本を読むと、日本の性犯罪やDVに対する問題の多さに愕然するものの、まずは「聞こうとすること」から始めなければならないのだと思う。被害者や加害者の声に耳を傾け続ける2人の紡ぐ言葉を今後も受け取っていきたいと思わせてくれる1冊だった。
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似た分野で活躍している2人の対話は、私にとっては話が飛びまくりで理解ができなかったり、もうちょっと踏み込んで話してくれないとわからない!と思ったりする箇所が大量にあった。
自分はこの分野の文脈をまだよく知らない、知識不足だなということを痛感した。
虐待やDVのこと、社会で女性はどのような立場にあるのかということ、もっと知りたい。
そう思ってる私にとっては、この本はいい導入になった。読書案内もついているから、この本をとっかかりに理解を深めていけそう。
「聞く」ことで誰かの力になる。そんな仕事ができるようになりたい。せっかくこの仕事を選んだのだから。
そして、このテーマは私が嫌いな警察回りと自分をつなぐルートになる気もしている。
そしてそれは、もっと自分を消さないとできないことだというのも分かってる。「いい記事を書きたい」みたいな目的で近づいてくる奴に、誰が自分のプライベートな話をしたがるだろうか。
でも、だからといって他にどんなアプローチでそれは可能になるのだろう?上間陽子だって、「いい研究をしたい」から最初始めたのではないのかな?
女の子たちの話をきいて、「この話は研究のいい素材になりそうだ」とか思わないのかな?
聞くことの暴力性を気にしてたら一歩も踏み出せないけどやっぱり引っかかってしまう。
上間さんにきいてみたいし、私も自分の中で腑に落ちる答えを出したい。
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対談相手、「裸足で逃げる」の人とわかってドキッとした。詳しい内容は覚えてないけどとにかく衝撃的な本だったから……。自分は心理系の仕事をしてないので「ふーん、そうなの?」と思うところもあったけど……もっと時間のある時に読みたかった。フラッシュバックは回復の兆しという話が良かった。自分は本当に恵まれた人生を生きてるけど、環境次第で人生って本当に大きく変わるしそこから巻き返していくことの大変さって凄まじいなって思う。