紙の本
社会にはびこる「論理」への異議申し立て
2022/01/27 09:03
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
表題作の「少女を埋める」など文学界掲載作品に、書き下ろしも加えた単行本。
「少女を~」は、作家の私小説とおぼしき物語。地方の因習や家父長制、母子密着など、社会(共同体)の論理が、個人の幸せ(私にとっての「正論」)より上にあることの異議申し立てを、過去といまを行き来しつつ表明している作品であると読み取った。
好き嫌いはあると思うが、共感できる。
この作品が発表された後、ネット上で議論になっていたのを知っていたので、ほかの作品も、そうした経緯を踏まえて読めば、著者が書きたかったことが伝わってくる気がした。
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2021年2月、7年ぶりに声を聞く母からの電話で父の危篤を知らされた小説家の「わたし」は、最期を看取るために、コロナ禍下の鳥取に帰省する。なぜ、わたしの家族は解体したのだろうか?――長年のわだかまりを抱えながら母を支えて父を弔う日々を通じて、わたしは母と父のあいだに確実にあった愛情に初めて気づく。しかし、故郷には長くは留まれない。そう、ここは「りこうに生まれてしまった」少女にとっては、複雑で難しい、因習的な不文律に縛られた土地だ。異端分子として、何度地中に埋められようとしても、理屈と正論を命綱になんとかして穴から這い上がり続けた少女は東京に逃れ、そこで小説家になったのだ――。
「文學界」掲載時から話題を呼んだ自伝的小説「少女を埋める」と、発表後の激動の日々を描いた続篇「キメラ」、書き下ろし「夏の終わり」の3篇を収録。
近しい人間の死を経験したことのあるすべての読者の心にそっと語りかけると同時に、「出ていけ、もしくは従え」と迫る理不尽な共同体に抗う「少女」たちに切実に寄り添う、希望の小説。
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コロナ禍の中で父を見送る娘の心情は、身につまされるものがあり、このことに限っては故郷に帰ってよかったのだと思えるが、いまだ家父長制が色濃く残り、女は「従うか出ていけ」という不文律がまかり通っている場所に、長くとどまることがどれほどのストレスになるかは想像に難くない。埋められないように、必死で抗う姿には共感も多いと思われる。だが、その後の批評をめぐる騒動に、果たしてどれほどの共感が得られるだろうか。個々の家族や、特定の地域の事情がわからないので、なんとも言えないが、そもそも著者が最初にひっかかったのは、小説に書かれていないことを、あたかもあらすじのように記述され、その上で論評されるという理不尽と、それによって故郷の母が受けるだろう故なき仕打ちを心配してのことだったと承知する。とは言え、作品には、母の実際行ったことの数々が書かれているのである。自分が書いたことに関する母への誹謗中傷はかまわないが、書いていないことを取り沙汰されるのは許せない、ということなのだろうか。その辺りが、よくわからないのも事実である。何となくもやもやとすっきりしない一冊になってしまったのは、いささか残念である。
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田舎に実家がある身としては、件の騒動については作者の気持ちが痛いほど伝わるようで、Twitterで眺めてたあの夏に、作者批判を繰り返す書評家側の人の書き込みを見て、私には絶対にわからない理論で生きてる人たちなのだなぁと感じたことを思い出す。
純文学とか文壇とか書評とかめんどくせぇな。私は読書は娯楽でしかないやという思いを強くした。
ところで『明らかに嘘とわかる事象(P137)』ってなんだろう?名前のことかな?冬子と作者が赤と青の線で重なって立体映像みたいで変な感じがした。
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「カルテット」や『私の男』について
今の自分の救いになるような言葉で表現されていた。
どうしても集団の中で自分の役割を考えて、犠牲にしてしまう瞬間がある。
確かに生きづらい部分はあるけど、それでも自分の心の平穏のために自分くらい自分でかわいがってあげてもいいんじゃないかと思えた。
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7年ぶりに聞く母の声。
自宅療養中の父の容態が悪化したと言う。
コロナ禍のため、すぐに帰省することができず
リモート面会で父と話す。
父親が体調を崩してからの二十年、幸せだったという母。
娘は驚いて声を飲み込む。
P 46〈病気という敵と一緒に闘っていて、関係が変わったとか〉
娘の問いかけに母は〈そう、その通りだ〉と大きくうなずいた。
母は、子供に暴力をふるうこともあった。
P93
〈高三の時、母方の祖母の前で殴られ、祖母が慌てて止めに入った〉
そう記憶しているが
母は「記憶は、その人によって違う」という。
母親と娘の間には齟齬がある。
『キメラ』
『夏の終わり』は
作者から投げられたブラックな何かを受け止めすぎて疲れた。
いろいろなことがあったのは承知で読み始めたが
何も知らず、真っ白な気持ちで自伝的小説集として
読んだ方が断然おもしろかったと思う。
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中編小説とその書評に端を発した論争、その後の顛末。
表題作が自伝と言ってもいい私小説で、ジェンダー問題や母娘間の愛憎、父親への素朴な愛と喪失感を言葉を抑えようとしながらも溢れ出させている。記憶への考察も面白い。
だが2つ目の「キメラ」による書評家との噛み合わない論争は読む方も疲れた。誰が読んでも書評家の読み違いが明らかで、テスト問題なら確実にアウト。でも責任は書評家ではなく、掲載した朝日新聞にあると思う。
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自伝的小説。そして、この作品について書評の件でトラブルがあった事が書かれていました。家族の事は家族にしか理解出来ない部分があると思っています。問題になった箇所はインパクトがある言葉で印象に残っていました。ですが、解釈の違いで読み手側がこうも感じ方が変わるのか、と驚いた一冊でもありました。
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この著者の本は初めてだったが、「少女を埋める」はいっきに読み終えた。
そして「キメラ」。
今は何でも検索できるので、朝日新聞で書評した当事者がすぐに特定できてしまうのだが、その手ごわさにビックリ。
「少女を・・・」を読んだ直後と言うこともあり、完全に桜庭一樹さんの味方的位置から読んではいるのだが、朝日新聞・そして評論家、ほんっとめんどくさいね~。
そもそも評論した人の「読み違い」が原因でしょ?と思っていたが、そこに着地するのがラストの「夏の終わり」って、ほんとにどんだけめんどくさいんだ!
これを読みつつ思ったのが、現在毎日新聞日曜版で連載中の、山田詠美さんの「私の言霊漂流記」。
作家としての評価は盤石なのに、過去に言われたことをそこまで恨みに思ってるのか~。
と内容そのものより、そのことに気を取られてしまう。
黒人と付き合う女性を昭和のオトコ(主に)たちはそんなふうに解釈するのか、と勉強にはなったけど。
さらに思ったのは、このところシリーズで読んでいる「〇〇員××日記」。
高齢者となった著者が、現在の職業についてリアルに語っているところがとても面白いのだが、かつて
「上司や客、親会社の担当者からひどいこと言われた、された」
うらみを晴らしてるだけ?と読める著書もある。
似たような境遇にありながら、現在の仕事から得られるものをきっちり書いている人もいて、そっちは読後感爽やかなのだが。
結局これは書く人の人間性の問題なのか・・・と、今は思っている。
結局、その人にとって忘れることのできない恨みを文章にして人に読ませ、かつ嫌な気分にさせない、ってホントに難しいことなんだ、というふうに思い至った。
私自身ここまで生きて来て@高齢者です 死んでも許せない!と思ことはいくつかあるのだが、だからと言ってこれを衆人が読める環境で書き記すことはあえりえん!(きっぱり)。
どっちにしても書く力量はないけどね チャンチャン。
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表題作の『少女を埋める』と『キメラ』は雑誌 文学界掲載時から含めて何度も読み返していますが、毎回違った側面が見えてスルメみたいです。社会の状況と密接なところもあるので、今後ITやAIの進歩とともに監視社会や遠隔のコミュニケーションがより進んでいった時に続編を読んでみたいと思いました。書き下ろしの『夏の終わり』は雑誌の入稿期限に書ききれなかった、作者の思いがつまった小品ですが、一種の清涼剤的な爽やかな読後感を与えてくれました。
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少女を埋める 自伝的随想
直木賞作家 冬子 7年ぶりの鳥取帰省、40代後半。
入院中の父親とリモート面会するが亡くなる
母の暴力 母の連れてくる疑似家族 母のいちばんの親友はおばあちゃん
血縁者とは拡大された自己:「私の男」のテーマ
母と娘の暴力を伴う愛:「ファミリーポートレイト」のテーマ
キメラ(合成獣) 朝日新聞 C氏の文芸時評
「虐めたね」母の怒りの発作=父への虐待 と解釈
小説の読み方と批評の書き方(読解の自由 解釈は不可分)
「家父長制社会」≒批評 向き合わず自分のコントロール下に
「少女」=異能者、異分子
「埋める」=郷の共同体の掟:出ていけ、もしくは従え
社会でどう作用するか までが文学
★「いじめる」(ある地域の会社の 工業用語としての)
部品いじめる=改善するために、もう一歩、部品に負荷を加える。
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初読。図書館。自伝的小説集。読了後の疲弊感がひどく、すぐには感想が書けなかった。でも読んだことに後悔はないし、今後何度も読むべき本だ。仮面をかぶってやり過ごすことは可能だが、声を上げて主張しなければ解決にたどりつけないこともたくさんある。そうして何度も張り上げた声が誰にも届かないと傷つくことももちろんある。行き止まりのような現状をそれでも叩き壊さなければともがく苦しみが、私の心を削り取る。届かない人には届かないのだろうと、気弱になってうずくまってしまった。一度では受け止めきれなかった弱い自分が嫌になる。
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【少女たちは出ていかないし、従わない】父を看取るため、作家は故郷を訪れた。因習的な土地、家父長制、メディア…共同体の理不尽に苦しみ、抗う姿を真摯に記す自伝的小説。
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学生時代文学部のゼミで教授から
「それはどこに書いてありますか?」としつこいくらい聞かれたのを思い出した。
こんな感じ…ではだめで、テキストを読み込むのが基本中の基本だと叩き込まれたなぁ。
まぁ、今はそんな読み方はしませんが。
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鳥取で橋を作る時に埋められた人柱は猿廻しだった。「朝一番にここを通った者を人柱にする」と決めた後、土地の者にはそのことをこっそり伝えて朝そこを通らないようにし、よそ者が人柱になるように根回しされていたのだ。猿廻し、絶世の美少女、そうした普通とは違うはずれ者たちが犠牲にされることで、共同体は平和を保ってきた。
だから地元では目立たないように過ごし、東京に出てきた冬子が、父の危篤の報で帰郷する。故郷では知らず知らずのうちに、周囲の心情を慮り、期待に沿うように振る舞う。世界は単純な出来事の連続をどのように選択して線で結ぶか、という解釈からできている。個人と共同体の話。
続く「キメラ」は、「少女を埋める」のテキストを曲解して朝日新聞の文芸評論欄に載せられた作者が、その評論から誤解されて母が「病人を虐待した妻」のレッテルを貼られないために奔走するエッセイ。こちらも、自由な読みと間違った解釈は違うこと、点と点を結んでどのような物語を了解するかは個人に左右されていることが語られている。朝日新聞という大きな組織を前に、和を乱さないために沈黙するか?そうして集団の前に個人が沈黙する事で保ってきた事なかれな平和が日本の常識となっているのだと思う。
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ピンとこなかった…
ただの作家の日常と
コロナ生活の記録としてしか読めず
物語として楽しめなかった。
「自伝的小説」って何?
その言葉に最後まで戸惑わされる。