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平野啓一郎の『100分de名著 金閣寺』以来のヒット(個人的には)
2022/04/30 15:59
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投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
本テキストを何回も読んで、番組も何回か観直して、非常に腑に落ちました。素晴らしい企画と内容と判りやすさでした。特に、(世人も含めて)「誰も他人から、その人が死ぬことを引き受けてやることはできない」(65頁)という一文に刮目させられた。アーレントやヨナスの問題提起を説明した第4回も非常に明快で有益でした。
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「存在」の問い自体を刷新した20世紀最大の哲学書
2022/04/30 15:37
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投稿者:kapa - この投稿者のレビュー一覧を見る
私はいわゆる「デカンショ」世代ではないが、学生時代一応「哲学」の講義にも顔を出し、また、何冊かの哲学書も読んだ。しかし、当時ハイデガー『存在と時間』は、題名こそ知っていたが、ついぞ読むこともなく内容も知ることはなかった。それをNHK-Eテレ「100分de名著」が取り上げたのである(2022年4月放送分)。「ファスト映画」ではないが、2時間足らずで三大難解哲学書(カント『純粋理性批判』ヘーゲル『精神現象学』)の一つを解読してくれるという。
解説は若手哲学者戸谷洋志氏。氏は今何故この本なのかを説明している。まずこの本は西洋哲学の難題「存在の意味」について「哲学史全体をひっくり返すような議論」を展開し、「その後の哲学の潮流を決定的に方向づけた」「20世紀最大の哲学書」である、また自国第一主義の抬頭やコロナ禍という危機の時代に、既存の価値観が揺らぎ分断と対立が先鋭化している今だからこそ読まれるべき「名著」だという。
現代人にとって「人はなぜ不安になるのか、自分らしい生き方とは何か、なぜ人は世間の目を気にするのか」という「人生を考えるうえで重要なヒント」が説得力をもって論じられている。著者の解説を要約すれば、『存在と時間』は日常世界で周りの人がやっていることに従って「非本来的」に存在している人間が、どのようにして自分らしい人生である「本来性」を取り戻し選べるかを追求し描き出した壮大な物語である。難解な哲学用語(例えば「現存在」、「頽落」、「先駆」、「投企」など)も出てくるが、現在の日常生活に引き直し(例えば「いじめ」とか「SNS上での誹謗中傷」など)、晦渋な表現ではなく、かみ砕くように説明してくれるので、わかりやすくストンと理解できる。
自分なりに整理すれば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではだめで、「良心の呼び声」にしたがってみんなに同調しないで生きていく、自分自身らしくあろう、と決意し、責任のある主体として「他者への責任」を引き受け、他者と共に生きることをと自覚することである。
しかしハイデガーと言えば、ヒトラーの賛美者でありナチス加担者として批判されてもいる。ハイデガーの思想には、ナチス・ヒトラーが付け入る隙があったのだろうか。ハイデガーの弟子のひとりハンス・ヨナスによる批判と氏の解説から、「隙」は「決意性」にあるようだ。ハイデガーによれば、「良心の呼び声」にしたがって「決意」するにしても、その「良心」が何であるかは何も教えてくれないのである。ということは、自分がどんな「決断」したとしても、それを止めるものはないということになる。つまり間違った選択をしたり、暴走したりしても「良心」はそうした自分を制止してくれないのである。
「ハイデガーはヒトラーの…決起と意志のうちに、歓迎されるべき何かをみたのだ。…とにかく決定すること、すなわち総統と党が決定することを毅然とした決意性それ自体の原理と同一視したのである」(ヨナス)。そしてこの「歓迎されるべき何か」とは、悪名高いハイデガーのフライブルク大学総長就任演説にでてくる「民族共同体」だったのである。
第三帝国下ドイツ人はどの集団に属するにせよ、ほとんどがヒトラーという汚点に穢されている。科学・芸術分野でのナチス協力者を扱った研究書も多い。美術・建築・音楽、そして物理学までもが協力者の仲間入りをしていた。政治とは縁遠いとおもわれる哲学の分野での協力者研究に『ヒトラーと哲学者』(イヴォンヌ・シェラット白水社2015)がある。かつて読んだものだが、ハイデガーの思想を少しは理解したので、再読してみたい。
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驚異のわかりやすさ
2022/04/24 00:04
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投稿者:hachiroeto - この投稿者のレビュー一覧を見る
わかりやすいばかりがすべてじゃないが、それにしてもこの本のわかりやすさは只事じゃない。あの超難解な『存在と時間』のコアを鮮やかに取り出し、返す刀でハイデガーのナチス加担を斬る。番組もとても良いです。
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「ハイデガー『存在と時間』」戸谷洋志著、NHK出版、2022.04.01
115p ¥600 C9410 (2022.05.28読了)(2022.03.27購入)
【目次】
【はじめに】無責任さに抗うために
第1回 「存在」とは何か?
第2回 「不安」からの逃避
第3回 「本来性」を取り戻す
第4回 「存在と時間」を超えて
☆関連図書(既読)
「ヒューマニズムについて」ハイデガー著・桑木務訳、角川文庫、1958.07.05
「ハンナ・アーレント『全体主義の起原』」仲正昌樹著、NHK出版、2017.09.01
「ハンナ・アーレント」矢野久美子著、中公新書、2014.03.25
(アマゾンより)
「存在」の問い自体を刷新した20世紀最大の哲学書。未来に残したその倫理的課題とは。
古代ギリシャ以来、哲学史上最も重要なテーマのひとつとされてきた「存在」。その問い方自体を刷新し、20世紀以降の哲学に決定的な影響を及ぼしたのが『存在と時間』である。
未完に終わったうえ難解なことでも有名なこの書を、専門用語は最小限に、人間一人ひとりの生き方という視点から解読していく。世間の空気に流されず、自らの良心と向き合って生きる決意をもつことで本来的な自分として生きることを提唱したハイデガー。しかしナチスを擁護したことで、後世の哲学者たちに新たな倫理学的課題を残すことになる。なかでもハイデガーの教え子だったハンナ・アーレントとハンス・ヨナスは、ハイデガーを批判的に読み、その思想を乗り越えようとした。彼らの思索も参照しつつ、排外主義や差別がはびこる現代社会に生きるわたしたちが「他者への責任」を引き受け、他者と共に生きるとはどういうことかを考える。
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番組の視聴とあわせて読むと、非常に分かりやすい。個人的にはいままで避けてきたハイデガーの『存在と時間』の内容に触れることができて良かったと思っています。
むろん、あれだけの大著をこの時間(実質75分)で解説するのは無理がある、と考えるのが自然です。エッセンスを抜き出したと行くことですが、本当にそうかどうかは、いまの僕には分からないことです。
ですから、このテキスト&番組だけで、わかった気にならない、といのは肝に銘じたい。この番組ではいつもこの視点は忘れないようにしようと心がけていますが、今回は特に、だと思います。
なお第4回では、弟子のアーレントやヨナスが戦後、ハイデガーをどう批判したかが解説されていて、非常に面白いです。
『ハイデガーのこどもたち』という言い方のあるのを初めて知りましたが、ハイデガーから多大な影響を受けながら、それを批判的に乗り越えていこうとする議論は、ある意味、理想的な教育のあり方のようにも思えます。
そして、僕はやっぱり、アーレントが好きなんだと思いました。
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難解といわれる「存在と時間」のエッセンスを取り出し解説している。
人は、自分では意識していなくても、周りの人の意見、空気に影響される。自分の考えだと思っているものも実は他人の影響を受けたものである。ハイデガーは、そうではなく、真に自分自身で考えることが必要と説く。そのためには、今やってくるかもしれない自分の死を意識して生きることが重要だとする。死を他人が引き受けることはできず、死を意識すれば、自ずと自分自身で主体的に考えることができる。
興味深いのは、そんなハイデガーが、後年、ナチスを支持したこと。これは、あの時代の空気に影響され、流されたことに他ならないともいえる。弟子のハンナアーレントや、ハンスヨナスはハイデガーを批判する。「存在と時間」は、自分自身で主体的に考えろと説くが、どう考えればよいかについては示していない。そこに全体主義に取り込まれる隙があったのかもしれない。
周りの意見や空気に影響されないように心がけることは、フェイクニュースやポピュリズムの跋扈する現代ではさらに重要になっている。「存在と時間」をわかりやすく解説した本書は、非常にタイムリーだと感じる。
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10年前に「ハイデガー拾い読み」を読んでいる。
ブクロブには、(だって、「存在」をそんなふうに定義付けする必要があるんだろうか。)と書いているが、全然覚えていない。
NHKの放送を見ながら読む。最後は、最終回の放送を待たずに読み終える。
難しい哲学の要旨を判り易くかみ砕いてもらったので、有難い。
最後は、ナチ党員になったというハイデカーの限界とそれを克服していった弟子達の話。
ロシアのウクライナへの侵略、ミャンマーの軍人支配。
いつまでも人類は愚かなままだ。どうしたらよいのだろう。
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もっとも、人間はどんなときでも同じように存在しているわけではありません。何もかも絶好調だと考えているときの自分と、機嫌が悪いときの自分は、まるで別人のように考えるでしょう。しかし、だからといって「私」は別の存在になるわけではありません。たとえて言えば、それは水があるときに凍り、あるときには液体になり、あるときは蒸発して気体になることにも似ています。つまり、人間の存在には多様な現れ方、「様態」があるのです。
人間がどのように自分を理解しているのかを探る、ということは、こうした現存在の様々な様態を分析する、ということを必要とします。しかし、人間の様態はあまりにも多様すぎるので、一つ一つ調べていくわけにもいきません。それに対してハイデガーは、現存材の存在様態を、大きく二つに分類しています。
現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身のあり方を[二つの]可能性によって、自己を理解しているのである。
すなわち、現存在による自己理解の一つのタイプは、自分を「自己自身」として理解しているということであり、もう一つのタイプは、そうではないものとして理解している、ということです。前者は自分をその固有な自分らしさに従って理解するということであり、後者は、世間で言われている尺度に従って、「みんな」が当たり前だと思っているものに従って、自分を理解するということを意味します。
ハイデガーは前者を、自分本来のあり方から自分を理解しているという意味で「本来性」と呼び、それに対して、自分自身ではないものから自分を理解している場合を「非本来性」と呼んでいます。ただし、どんなときでも本来的であったり、非本来的であったりする人間はいません。人間は、今はそのどちらか一方であったとしても、次の瞬間には他方に変わってしまうかもしれません。この、別様でもあり得る、ということを、ハイデガーは「可能性」と呼んでいます。
さて、どちらがイメージしやすいでしょうか。多くの人は、本来性、つまり自分らしさに従って自分を理解している、と思っているかもしれません。しかし、ハイデガーの考えは反対です。彼によれば、人間はほとんどの場合に非本来的に生きているのです。
それでは、そもそもなぜ、現存在は世人に飲み込まれてしまうのでしょうか。この問いに対するハイデガーの答えは、極めてシンプルです。世人に同調してさえいれば「安心」できるからです。
世人は、充実した真性の「人生」を育み、送っていると思い込んでいるために、現存在のうちにある安らぎをもたらす。そのことですべては「順調に進んでいる」のであり、この安らぎのうちですべての[可能性の]門戸が開かれていると、現存在に思わせるのである。
「みんなもこうしている」という規範に従っていれば、人並みに充実した人生を送っている、自分の生き方は間違っていない、すべては順調に進んでいる、と自分に言い聞かせることができます。
ただし、このようにして得られた安心感にも、憂いは付きまといます。「みんな」に同調することでしか安らぎを得られないため、むしろ躍起になって「みんな」と同じように生きようとする。現存在は、世間の動向に生き方を大きく左右され、世間から大きく外れないよう、つねに努力しなければならないのです。
現存在が頽落する最大の理由は、空気を読んで他者に同調することを止め、自分ひとりの力で人生を切り拓いていこうとすれば、たちまち「不安」に襲われ、いわばその闇のなかに取り残されてしまうからです。
地図も道標もなく、誰かに「それでいいんだよ」と背中を押してもらえるわけでもない。そんななかで自分自身と向き合い、すべて自分で考えながら決断し、生きていかなければならない。これは人間にとって、たまらなく不安な状態です。それに耐えられないから、現存在は自分と向き合うことを避け、自ら世人に飲み込まれていくことになります。
現存在が世人のうちに、配慮的に気遣った「世界」の元に没頭していることによって、現存在は<本来的な自己でありうること>としての自分自身から、いわば逃走していることが明らかになる。
不安から目を背けるために、人間は、世人が提供してくれる安易な答えにすがりついてしまいます。頽落するということは、本来の自分、自分らしく生きるチャンスを自ら手放し、そこから「逃走」することでしかありません。要するに、現存在が非本来的になるのは、本来の自分から逃げるためなのです。
現存在につきまとう「不安」の正体を、ハイデガーは「恐怖」と対比して説明しています。
ハイデガーによれば、恐怖には明確な対象があります。たとえば「雷が怖い」というのは、一つの恐怖です。ここには「雷」という対象があります。雷鳴が聞こえ、雷が自分に迫っているから恐怖を感じるのであり、、被雷しないよう建物のなかに逃げ込んだり、あるいは雷が止んでくれたりすれば、対象の消失と共に恐怖は解消されます。
しかし、私たちが不安を感じるとき、そこに明確な対象や理由はありません。「何もかもうまくいってる気がするけれど、何となく不安」「なにが不安なのかよくわからないけれど、たまらなく不安」ということが、不安の本質なのです。
しかし、だからといって、不安から目を背けて頽落することが、現存在にとっていつも心地よいかと言えば、そうではありません。
たとえば、学校に行くのが辛くて登校できなくなってしまった学生がいるとします。世間では「学生は学校に通うものだ」ということが当たり前だとみなされています。もしこの学生がそうした世間の声に迎合していたら、「学生は学校に通うのが当たり前なのに、自分は学校に通えなていない、だから自分は人間失格だ」と自分を責めるかもしれません。しかし、学校に行けば、それはそれでとても辛いのです。このときこの学生はどちらを選んでも苦しみに苛まれることになります。学校には行きたくない、しかし、学校に行かなければ、世間から人間失格のように扱われる、それはそれで辛い、というわけです。
もちろん、辛いのなら学校なんか行かなければいいのです。世間の目など無視すればよいのです。このときこの学生は、世間に同調することでかえって自分の首を絞めていることになります。しかし、そんな世間の意見なんか捨ててしまえばいいのに、それが簡単にできないというところに、問題���ややこしさがあります。
なぜなら、「学生は学校に行くのが当たり前」という常識を捨ててしまったら、現存在は何を頼りに物事の正しさを捉えればよいのか、わからなくなってしまうからです。そのとき現存在は不安に陥り、自分自身と向かい合わなければならなくなります。その苦しさは、ある意味では、「学生は学校に行くのが当たり前だ」という規範がもたらす苦しみを上回りさえするのです。
世間から提供される「当たり前」の確かさは、人間を苦しめることもあります。しかし、その苦しみから逃れるために、「当たり前」から離れようとすると、何も確かなものがない、という不安が立ち現れます。そして、非本来的な現存在は、何も確かなものがない苦しみに苛まれるくらいなら、確かなものにしがみついてその結果苦しいほうがまだましだ、と思うのです。
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竹田青嗣『ハイデガー入門』をさらに嚙み砕いて飲み込みやすくした、という感じ。ハイデガーの「先駆」のアイデアは、『7つの習慣』の第2の習慣「終わりを思い描くことから始める」に似ているということに気が付いた。「決意性」の説明はアドラー心理学っぽい。ハイデガーの思想はビジネス書の読者との親和性が高いのかも?「非本来性」の「世間で言われている尺度に従って……自分を理解する」(p.34)という説明にはセカオワのHabitを想起した。
個人的には、ハイデガーを乗り越えた戦後の哲学者として紹介されているアーレントやハンス・ヨナスの思想に、より強く惹かれる(『ハイデガー入門』で紹介されていたレヴィナスにしてもそうだ)。
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「20世紀最大の哲学書」と称えられながらも、自らのナチス関与のため、激しい批判にさらされた、難解をもって知られる名著である。戸谷氏の鮮やかな解説によって、「近しさ」をここに得た。「存在」の本質を見極めることを通して、人間がその「本来性」を回復するための筋道を考察した解説書であった。
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100分de名著シリーズは毎回楽しみにしているが、今回のハイデガーは当初買うのを迷った。だってハイデガーは読んだことがない。「難解」「大長編」etc. 避ける理由はいくらでも浮かんだ。
でも思い切って買って読んだ後、所感は180度転回した-読んでよかった、と。
編者の戸谷(とや)先生の解説が、もうこれ以上ないって言うくらい噛みくだいて平易な文章にしてくれているのが大きい。でも戸谷先生によると、ハイデガーもできるだけ哲学用語は用いず日常的なドイツ語を使って造語していたのだという。ハイデガー最重要語の1つDasein(ダーザイン)なんて、日本語訳だと“現存在”なんて非日常語が使われているが、ダーザインの直訳は“現にそこに存在する”で、英語の“be動詞+there”と比較すれば、いかに日常的な言葉なのかがわかる。つまりハイデガーって、奥に進めばそりゃ難しくなるけれど、入り口から難解だと尻込みする姿勢は間違いなんだってこと。
次に本書の内容に踏み込む。私がハイデガーのスタンスで特に共感したのは、既存の考え方をまず疑ってかかったところ。「存在」に関して哲学界で長く信じられてきた見解では、存在の実態は100%解明できていないとハイデガーは考えたらしい。
これって自分の身近な状況に移し替えて考えればわかるけれど、言うのは簡単、だけど実践するのは難しい。だって既存の発想に立てば、その答えに至る過程も周りから織り込んでもらえてジャッジが得られるから。
だがハイデガーは、その“常道”自体を全否定した地平から論考しようとしたというのだから、周りよりも自己の思索の追求に重きを置く意味で、それこそ哲学的だ。
それと私の共感ポイントはもう1つある。それはハイデガーが存在とは何たるかの解答ありきで論を進めるのではなく、あえて存在とは何かを問う「問い方」のみが突き詰められているというところだ。
現代の私たちはともすれば目先の答えをすぐに求め、その答えを現実にすぐに当てはめて物事の是非を論じようとする。だが、真実追求にとってその手法は正確さに欠ける場合が多いのではないのか?戸谷先生の文章を読み、私が漠然と日常で考えてきた、即断即決で物事に何でも白黒をつけたがる最近の傾向の矛盾や危うさに符合したように思えた。
そのように、戸谷先生のハイデガー論は一貫して、ハイデガーは過去の遺物ではなく、現代の時代背景でも光を放ち私たちにヒントを与えてくれるのだということを教えてくれる。
私が特にそれを感じたのは、ハイデガーがナチスを支持したという大いなる矛盾に関する部分だ。
周知のとおり大阪の選挙では維新の会(以下「緑派」と書きます)が圧倒的に強い。私は(赤派のように)緑派を毛嫌いはしないが、大阪の人がここまで広く緑派を支持するのに少々違和感を抱いている。
だが本書の「決意性」の部分を読み、緑派の支持者の多くが「決断力がある」と言っているのと重なった。決意性とは周りに流されない自分の本来性を取り戻すキーワードだが、ハイデガーが支持したナチスが後世から見て誤っていたように、緑派が導き出した決断自体が社会的かつ歴史的に正しいとい��保証は全くない。なのに人々は正解かどうか不確定なはずの緑派の決意性を自分自身に重ね、自己の不安定な決意性を裏書きさせようとしてしまうのではないか。これが大阪で緑派の支持が多い理由だと私は推測する。
決意性とは自己の本来性を取り戻す重要なアクションだとしても、いかに決意性のなかに公正さを担保するのか?ハイデガーの弟子たちは、その他大勢ではない信頼できる他人との関係の構築や、環境及び人権といった倫理を付加するなどで、決意性の補強を試みている。これも現代につながる面白い議論の展開だと思った。
結局、はじめから最後まで、現代社会にも通じる人間の存在のあり方を根底から再定義しようとするヴィヴィッドかつアップトゥデイトな思想で本書はあふれていた。100分de名著シリーズ中でも特に内容が濃いのではないか。
いや、濃いだけでは苦い薬を飲むときのように満足感に欠けてしまう。戸谷先生がハイデガーの意思を汲んだかのように、身近な例とやさしい単語での解説に終始したという功績も、地味だけど大きい。
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ハイデガーを初めてこの本で知る。
とても参考になった。
ナチスに協力した事実は消えないけど、書いた内容をきちんと考えていきたいと思う
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ハンス・ヨナスに関する著作がある戸谷さんによるハイデガーの存在と時間の解説。こういう大作を解説することは本当に大変だったと想像するので本当にすごいな、と思う。
その意味では、ご自身の研究対象であるハンス・ヨナスやアーレントと絡めて「本来性」の回復とはどういうことかという観点から極めてわかりやすくまとめていただいていると思った。
ダス・マン=世人である我々はとかく流されて生きていて流されっぱなしなわけだけど、そこから本来性の回復と仕方としてハイデガーはナチスにその可能性をみたという話なんだと思う。アーレントやヨナスは他者や複数性を介在させることでハイデガーを受け継ぎつつ乗り越えを図るという話。
本来性の回復という議論はわかりやすいし、世人状態が良いわけでもないけれど、危険度は抜群なわけで、戦後の議論ってそれをどう回避するかという話だったんだと個人的には理解している。そこにフランクフルト学派やポストモダンの議論なんかは力点があったんだと思うけれど、そんな議論を吹っ飛ばすような形で、プーチンなんかはロシアとしての本来性の回復を目指してウクライナに侵攻しているわけで、人間のルサンチマンの根強さというか、「本来性」の回復というテーマとそこからの脱却は引き続き課題なんだ、とやれやれ感を覚えながらも改めて思わされた次第。
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テレビ視聴と並行して読んだため、非常にわかりやすくて良かった。
ハイデガーは最後は全体主義に飲まれたけれど、この存在と時間は考えさせられたし、ハンナアーレントの反論も的を得ていて、とても勉強になった。
つまりは、常に死を意識し、周りに流されず、自分が後悔しない選択や生き方を心がけながらも、小さなコミュニティを大切に生きていくことが重要だと思う。
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キーワード 責任
哲学において重要な概念「存在」について新たな問い方を提示した本
存在とはあらゆる学問の基礎
1.
「存在者」と「存在」を切り分けた本
現存在:「存在とは何か」という問いに取り組む存在者 人間と呼ばず先入観を篩い落すため
現存在を本来性(自分の尺度で説明できる)、非本来性(世間の尺度で説明できる)に分けられる
人間は自身を非本来性で評価しがちである。
2.
世人 世間の規範 我々は世人が喜ぶように喜ぶ。
我々は世人が悲しむように悲しむ。
自分の頭で考えず(空気を読んで)いると、自身の責任が無くなる。
みんなに責任があるから、誰かをいじめてしまう。ゴミを捨ててしまう。
思考停止な役人アイヒマン(ナチス ユダヤ人大量虐殺に加担)になってしまう。
Q.なぜ、世人に同調するのか?
A.世人に同調すると安心するから。しかし、一時的な安心感。ずっと世人に同調し続けなければならない。次のイジメ対象は、自分にならないか不安になる。
不安と恐怖の違い。恐怖は明確な対称がある。不安は明確な対称がない。
3.死
死の先駆 明日死ぬかもしれないと意識することで、自分自身の頭で考えた行動を取るようになる。
決意性 常に自分自身の中にある良心に耳を傾け、行動すること。
⇛これら2つを掛け合せて、自分ごととして物事を受け入れる。責任を受け入れるようになる。
脱世人
4.ハイデガーへの批判
ハイデガー「孤独こそ自己実現が成し得る」
アーレント「孤独では、全体主義へ抵抗できない。脆弱である」
「共通感覚を持った他者と繋がることが、自己実現しつつ、連帯感ももたらす。健全な人間になる。」