- カテゴリ:一般
- 発売日:2022/03/31
- 出版社: 講談社
- サイズ:19cm/200p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-06-527682-2
読割 50
紙の本
スマートな悪 技術と暴力について
著者 戸谷 洋志 (著)
私たちの日常を浸食する「スマートなもの」がもたらす事態には、「悪」も存在しうるのではないか。システムの支配からの自由を求め「別の答え」を模索する真摯な試み。『群像』連載を...
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商品説明
私たちの日常を浸食する「スマートなもの」がもたらす事態には、「悪」も存在しうるのではないか。システムの支配からの自由を求め「別の答え」を模索する真摯な試み。『群像』連載を加筆修正し単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】
いま、あなたの周りには、いったいいくつのスマートデバイスが存在するだろうか。もしかしたら、あなたのポケットにはスマートフォンが入っているかも知れない。あるいはあなたの腕にはスマートウォッチが巻かれているかも知れない。スマートスピーカーで音楽を聴き、スマートペンでメモを取っているかもしれない。あなたの家はスマートロックに守られているかも知れない。そんなあなたはスマートシティに住んでいるかも知れない。
私たちの日常を多くのスマートなものが浸食している。私たちの生活はだんだんと、しかし確実に、全体としてスマート化し始めている。しかし、それはそうであるべきなのだろうか。そのように考えているとき、問われているのは倫理である。本書は、こうしたスマートさの倫理的な含意を考察するものである。
(中略)
もちろん、社会がスマート化することによって私たちの生活が便利になるのは事実だろう。それによって、これまで放置されてきた社会課題が解決され、人々の豊かな暮らしが実現されるのなら、それは歓迎されるべきことだ。まずこの点を強調しておこう。
あえて疑問を口にしてみよう。スマートさがそれ自体で望ましいものであるとは限らないのではないか。むしろ、スマートさによってもたらされる不都合な事態、回避されるべき事態、一言で表現するなら、「悪」もまた存在しうるのではないか。そうした悪を覆い隠し、社会全体をスマート化することは、実際にはとても危険なことなのではないか。超スマート社会は本当に人間にとって望ましい世界なのか。その世界は、本当に、人間に対して牙を剥かないのだろうか。
そうした、スマートさが抱えうるネガティブな側面について、つまり「スマートな悪」について分析することが、本書のテーマだ。
(中略)
……本書は一つの「技術の哲学」として議論されることになる。技術の哲学は二〇世紀の半ばから論じられるようになった現代思想の一つの潮流である。本書は、マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント、ギュンター・アンダース、イヴァン・イリイチなどの思想を手がかりにしながらも、これまで主題的に論じられてこなかった「スマートさ」という概念を検討することで、日本における技術の哲学の議論に新しい論点を導入したいと考えている。(「はじめに」より)
【商品解説】
目次
- はじめに
- 第1章 超スマート社会の倫理
- 第2章 「スマートさ」の定義
- 第3章 駆り立てる最適化
- 第4章 アイヒマンのロジスティクス
- 第5章 良心の最適化
- 第6章 「機械」への同調
- 第7章 満員電車の暴力性
- 第8章 システムの複数性
- 第9章 「ガジェット」としての生
著者紹介
戸谷 洋志
- 略歴
- 〈戸谷洋志〉1988年東京都生まれ。大阪大学大学院博士課程修了。博士(文学)。関西外国語大学准教授。専門は哲学、倫理学。著書に「原子力の哲学」「ハンス・ヨナス未来への責任」など。
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紙の本
スマートさという閉鎖性に気付く重要性。
2022/07/09 17:15
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゲイリーゲイリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
「スマートさ」という概念は価値中立的なものにもかかわらず、それ自体に内在的な価値があると信じて疑われていない。
そんな現状に警鐘を鳴らすと同時に、豊かな暮らしに必要なのは「スマートさ」ではない他の何かではないかと突き詰めていくのが本作である。
そもそも、「スマートさ」とは何だろうか。
著者はスマートの語源である「痛み」から「スマートさ」の本質を探っていく。
痛みは私たちの感覚を支配し、痛み以外の感覚を遮断する。
痛みは自動的に他の感覚をシャットアウトし、その時私たちはただただ痛みを受け取るだけの存在と化す。
著者はそこに「スマートさ」との類似点を見出す。
スマートなテクノロジーとは、私たち自身が望むであろう事柄を先回りし、達成したり提案してくれたりする。
つまり私たち自らが思索し選択するといった必要性を排除するのだ。
その時私たちは、痛みに支配されている時同様ただただ受動的な存在へとなってしまう。
そうした受動的な存在へとなってしまった人間は、思考することを破棄する。
思考することを破棄した人間は、共同体が変わり道徳的なルールが変わったとしても自動的にその新たなルールへと順応し、良心を最適化してしまう。
著者は良心が最適化してしまった身近な例として満員電車を挙げている。
都市が求める効率的なシステムの歯車として良心を最適化されてしまった結果、他者を圧迫しようと足を踏もうと車内で押し潰そうと文句を言わない。
にもかかわらず、システムを停止させるような人身事故に対しては怒りを爆発させるといった異常な事態が当たり前と化している。
最適化を市場の原理とした現代社会では、ハンナ・アーレントが提唱した「悪の陳腐さ」を量産し強化する土台が確固たるものになりつつある。
しかしそうした現状であっても解決策は存在すると著者は述べる。
今ある閉鎖性とは異なる新たな閉鎖性へと回路を開くこと。
それこそが、「これさえあれば、何もいらない」といった一体化、均一化、たった一つの絶対的な閉鎖性による完結からの脱却となる。
「スマートさ」という唯一性に支配されるのではなく、異なる複数のシステムを結ぶこと。
二つのものを同化させるのではなく、結ばれるもの同士がその差異性を保ったまま結合することこそが、豊かな暮らしへとなるのではないかという著者の結論には一筋の希望が見える。