紙の本
少年時代
2023/01/18 10:28
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kotep - この投稿者のレビュー一覧を見る
児童養護施設で暮らす少年も普通に過ごす少年も少年であることには変わりないとつくづく思いました。淀川のような大きな川ではないですが、地元の小さい川や池で亀やザリガニ等を釣って遊んでいたことを思い出しました。懐かしい光景が勝手に頭に思い浮かびました。ほのぼのした作品で少し心が癒されました。
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野間文芸新人賞受賞作。
表題作のほか「膨張」を収録。
文体に個性があって、
文章の連なりが詩的でした。
『ここはとても速い川』は
子供の話し言葉で綴られています。
話し言葉というより、
子供の頭の中を書き起こしたと
いった方がいいかもしれません。
子供の思考ですから脈略がなく、
なかなか読みづらいのですが、
それがかえってリアリティを感じさせます。
子供ながらに
自分が置かれている状況を受け入れ、
生きている姿がとても健気です。
生きていくにはどんなものであれ、
いったんは運命を受けとめるしかないのですね。
『膨張』は、
塾の講師を生業とする
アドレスホッパーの女性が主人公です。
起伏の乏しいストーリー展開で、
とくに大きな出来事が
語られるわけではありません。
それでも世の中の生き辛さのようなものが、
しみじみと伝わってくる作品でした。
いずれにせよ
世の中ままならないことばかり。
でも生まれてしまったからには、
生きていくしかないのですね。
たとえ浮き草のようにでも。
べそかきアルルカンの詩的日常
http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2
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だめだ、私はこういう感じは苦手だ…。
最初の1行目で思ってしまった。
文章が脈絡ないように綴られ、文法とかつながりとか無視して、気持ちのままに流れてゆく感じ。段落もなく、文字がびっしり。
文学としては優れているのかもしれないけど、読みにくくて…。私の感覚が古いのだろうと思い、理解するための集中力が続かなかったのも悔しさはあるけれど、こういうタイプの小説は苦手だな…。
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井戸川作品2冊目。
文章のリズム感、グルーブに浸る。
人が記憶の隙間に落っことしてしまっているような、ディテールを丁寧に掬い上げる作風はとても好き。
これはいい。
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文章が独特で馴染みづらかった。作者が詩人とあとで知って納得。慣れるまでつまらなく感じ、終盤やっと慣れて途端にすごくおもしろく感じた。丁寧に読まないと、お話の流れこそとても速い川のようなので、足を掬われてしまう。時間の説明がなく、区切りのわからない散文を読んでる感覚になるのかなと。
大人びた少年の感情の抑制と放出。園長に胸の内を話すシーンは泣いてしまった。
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ポリタスで石井千湖さんが本書を紹介した時、初めて著者の名前を知った直後『この世の喜びよ』が芥川賞を受賞したタイミングで読んでみることに。
一見すると薄い文庫本だし少年が主人公とのことなので、サクッと読めるかと思いきや予想外の展開で侮れない。水の流れに足を取られないよう足元を確かめながらゆっくり読ませる作品だった。
大阪弁の文章が美しい。
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「ここはとても速い川」というタイトルはこの小説自体に冠されたタイトルでありながらも比喩としての世界みたいなものを表している、ということを言うのは簡単だけど、この小説に限定して言えば、そんな比喩は野暮にも思える。作中に出てくるとても速い川のシーンで起こることも同様に世界とか人生に喩えられるがそれは私たち読者が読者という立場だとか大人という状態、要は小説世界に距離をとって他人事と読んでいることが前提で、だからやはり比喩と見做すようなつまりは解釈という作業でそこに書かれたことや主人公が思ったことを収束させるのはこの小説を体験していることにはならないと思う。この小説を体験している、と読書中に思う瞬間というのは、たとえば自分自身の幼少期(体感する世界の対処に於いてあまりにも根拠が少ない時期)に感じたおそろしさや名状し難い気分や生体反応を"思い出しそう"になる時にあった。思い出してはいないというところがつまり私がもう幼少期のままではないということで、だから私もすまいと思いながらも解釈ができてしまう(しまう、というのが個人的にはせめてもの抗いを込めて言っている)し、この距離感に私は自分自身の老いを見て、自分の昔を懐かしくなる気持ちを得た。
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全体的にやわらかな文章。けれど中身は濃く、たまに鋭く容赦なく突き刺してくる印象の一冊。
児童養護施設で暮らす小学5年生・集(しゅう)の物語『ここはとても速い川』と、特定の住所を持たず生活拠点を点々としながら生活するアドレスホッパー・あいりの物語『膨張』。
両者は全く異なる物語のようだけれど、私にとってはとても近い世界の物語のように思えた。
大人の都合で生活拠点を決められた子供たち。"普通の暮らし"が何なのか。どんな生活ならいいのか。そんなことは人それぞれの価値観だからどうでもいい。けれどそれに従うしかない子供たちの気持ちはどうなるのか。読みながらずっともやもやしてしまった。
『膨張』の、アドレスホッパーを続ける母親に付いていく息子・ウオに、こういう暮らしをどう思うか尋ねた時の返事「思って、変わる?」。その後ウオが逆に聞き返す「大人に踏みつけにされたことある?」。そしてその翌朝行方知れずになるウオ。
表題作。児童養護施設で共に暮らしていた年下の親友・ひじりが施設を離れ実父の元に帰ることに。集とひじりの会話が印象的。
「二人(ひじりとひじりの実父)でいると、僕がここを盛り上げな、と思ってまう」
「夕ご飯の時、今かって上田先生とか朝日先生が喋りまくってるんでもないやんか。大人と話なんか合うわけないねん」
「ほんで、目の前にいてくれてる親は自分の子なんて、眺めてるだけでもう楽しいんやろ」
ひじりとウオ。環境も事情も異なるけれど、大人に振り回されていてどこか諦めているように思えてならない二人。そんな二人に感情が揺さぶられ、もやもやが止まらない。
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ささいな今と少年の無力さを含んだ日常をつらつらと大阪弁で流していく文章は、私の激推し本『乳と卵』(川上未映子さん)に通じるところがあるはずで、雰囲気的にもこの本めちゃくちゃ好き!ってなりそうな予感がしてたのに、そうはならなかった…。
なぜなのか、自分でもよくわからない。。
読点が、読むときのリズムで打っているのか、修飾する言葉はまだ先にあるのに文を切るべきじゃないところで打たれてるのが気になった。
読んでて混乱するほどに!
薄い本なのに読むのにめちゃめちゃ時間かかった…。
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ひりひりと皮膚に疼く痛み。文章は読み進めるにつれて肌に張り付き、読み過ぎると瘡蓋のように剥がれていく。収録された二編はどちらも感情と情景が重なり合うも、淡々と描かれ、劇的なドラマも起こらない。しかし、日常の悲劇は静かに積み重なり、疼痛を心と身体に残す。感触のある身体的な文章/声。
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タイトル作品は全編関西弁で読みづらい
少年たちの友情に惹き付けられた
詩人の小説第一作品という【膨張】
『…集まる若さは噴水だ、小さくても見応えがある。歳を取ると川になってしまう。』
同性を愛してる塾講師の主人公が学生たちとの他愛ない会話でからの描写にガツンとやられたよ。
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本書の著者・井戸川射子さんは、高校国語教師→詩創作開始→中原中也賞→小説デビュー→本作で野間新人文芸賞→『この世の喜びよ』で2022下半期芥川賞候補(1/19発表予定)と、異色の経歴をお持ちのようです。
本書は2編の短編集で、井戸川さん初読でした。
○表題作「ここはとても速い川」
児童養護施設に暮らす子どもたちの日常を、主人公の小学生の視点で綴った物語
○小説デビュー作「膨張」
定住する特定の家を持たず、居住先を転々とするアドレスホッパーの人々の物語
2編の共通点として、主体としての子ども・大人の違いはあれど、社会の中での生きにくさを扱っている点が挙げられるかなぁ‥。
とりわけ子どもの場合は、分からないこと、嫌なこと、怖いこと、悲しいこと等を上手く言葉にできません。その分、大人をよく観察していて、下手な同情や子どもの心を探ろうとする態度や質問に対しては、ごまかし、避け、距離を置くのですね。
2編とも、お涙ちょうだい的な悲しみの抒情に流されず、さらりとむしろ軽やかに言葉を重ねる表現力に秀でていると感じました。
ただ、表題作は、子ども目線での状況(思考の対象)が次々に変わるとともに、ほぼ改行のない関西弁の文章が続くためか、平易な言葉でありながらスルッと入ってこない印象を受けました。(※改行なしは他の一編も同様)
短編なのに長く感じる所以はこの辺にあるのか、言葉の重みか、私には熟考を要するなぁ‥。
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モツモツのアパートから集やひじりが移動させた紫色の花が、まるで集たち自信を表しているようでなんとも言えない気持ちになった。
どこから来たのかも分からない、なぜそこにあるのかも。
まるで孤児である集なようで、
また、
おばあちゃんの家に移された花も一見育ちやすい、幸せそうな環境になったようには見えたが、
おばあちゃんに掘り返されたかどうかは謎なまま。
まるで、
お父さんの元へ帰ったひじりのようだった。
なにが本当の幸せなのか考えさせらる本だった。
P48
浅いところは石で痛くて、深いところは怖いんやった。注がれてくる水が水をまたいで、川は群れでめっちゃ飲んでしまう。勢い、流れ落ちひんためには、なにかの形にしがみつかなあかん。水の帯がこうやって囲むんやなと思う、まだ大事なもんみたいに握りしめている網は何も助けへん。残りの指で傍の石をつかむけど固定もされてない、一緒にただ押し出されてしまう。
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井戸川射子さんは詩人だそうだ。
詩はまだ読んでおらず、この小説が凄いと、石井千湖さんの紹介をきいて、手に取った。
なんという繊細にして大胆な子どもらの描写。
ワンパラグラフが長いように思う。そして、あまりに息継ぎもなく、流れるように、日常の中で意識が止まらないのと全く同じように、主語、語り手である集くんの、頭の中によぎることや確信に至るか至らないかに限らず考えていることが、情景風景ほかの人との会話なども絡みながら、さらさらと、ちくちくと、織り出されていく。
パラグラフは一気に読まないとダメだし、一気に読ませる。ここに伝えたいこと、他人じゃなくても自分に言い聞かせたり残しておきたいことだから息継がず一気だ。
それで、一気に読み終われるかというと、どうにも胸が詰まり時々休まないとこちももたない。
子どもたちはきちんと自分の欲望やもしかして他人の欲望の犠牲(いわゆるハラスメント)と感じることをノートに書き留めている。
児童養護施設では一般の家庭より詳しく性に関する教育注意喚起をしている。ルールもきちんと決められていてその運用を年齢とともに各自工夫している感じがする。そんな中でもこれおかしい?感じ悪い?セクハラ?と思ってしまいようなこと、微妙な感じで、どうなん?て躊躇しながらも記録はとっていく。子どもだから判断能力ないとか、思い違い思い込みでは?とかよく大人サイド加害者サイドが言い訳して逃れてるけど子どもや子どもでなくてもされてる方はわかっている、ということをつきつけてくる。
道や草や川、夕焼け、建物が光を取り込む様子ととにかく敏感に違いや整いや整っていないことを繊細に言葉にする。園長先生への、ひじりのノートに関する対応を走って確かめようと、自分のこれまでの既に重い局面をたくさん経験していることについての考えも確かめようと畳み掛けるように質問が繰り出されるところ、目の端に涙がたまる。
川の流れが早くてひじり君を助けようと集君も流されてしまう。死の恐怖とか、よりも、なにか掴むもの、しがみつかないと!と思い、先生は下で捕まえるからそのまま抵抗しないで流されて、という。これが生きるということで子どもは子どもなりに、大人、先生、責任を負うものはそれなりに体得している。
そして随所に出てくる川の流れ、水の流れ、それは一筋の流れではなく、たくさんのそれぞれ個別な流れが集まりぶつかり合いできているのだと。これが世の中というもの。
自分は子どもの頃でもこの子たちみたいに世界をみれてなかった。さして不足もなくさして疑いもなく、なんかおもしろくないなとは思ったかもしれないけど、大きく足りてないものはなかったから細かいことも気にならなかった。それでも子どもの頃も今も大人になっても少し上流に行ったり下流に行ったりすれば景色がぐっと変わることに衝撃に近い感銘を受けることがある。梅田のビル群が見えるようなところに豊かな淀川がありこの子らの住む施設もあるのかと思うとその事実がまたなんともいえぬ事情となり、深い感慨となる。
おばあちゃんとの、連鎖し繰り返しくる悲しみと不幸せとその中で幸運���よかったと思えるようなことを確認するような会話。おばあちゃんはどうしようもすることができないことをすまなく感じているが、そんなに悪くないとも孫に精一杯教える。集くんは、施設のテレビで映画を見ながら、いい人悪い人を見分ける練習をするようにしているのだ。登場の仕方に注目すべきだ、と。
ママが集くんを産んだ時、男の子と知って、
よかったねえ。悲しいことは起こりにくい。こんなに血を出さんでも、自分の子どもに会えますわ。母港や母国の母の字の、一部にならんでええんやわ。、、と節をつけていっとった、とおばあちゃんが思い出すくだり。まさにこのことがフェミニズムに関わる問題そのもの。母がつく言葉の一部になりたくない。
タンスのささくれだったところを触りながら、家具に生まれ変わるのもよいかもな、馴染んでも気にもされずいて使い終わりも自分で決めないから。というくだりが圧巻である。この子らは、集くんを生きるためのちょっとした知恵(悪気のあるものや打算的なものではない)や、それ以上に否応なしの死生観を持っている。
同じ文庫本に収録されている、膨張という作品は作者、詩人の小説第一作だそうだ、ここでも繊細な詩的な言葉が連なり連なり、シーンが変わるところまで息を継げない。塾の生徒たちをみて
散在するかたまりたちがほどけていって、集まる若さは噴水だ、小さくても見応えがある。歳をとると川になってしまう。…どれも混ざり合わない、大きな水の流れ
という文章などがあり膝を打つ感じなのだ。でも、ここはとても速い川、ほどの共有感、共通感覚はない。あまりにも痛々しく現実的で読む方も避けてしまうからかも。
関西弁で、笑ったらちよっとわるいとこだけど笑ってしまうような速い川の子どもらや少しずるこくそれを気づかないふりして自分なり言い訳がましく生きてる大人たちの生き方暮らしぶりより、標準語でもっと堅苦しい言語を用いてアドレスホッパーなる部外者からは信仰宗教、カルト的に見える背景があるからだと思う。関西弁て、生粋の関西人でなくでもなんらかの共有体験がありニュアンス分かる人には最強の言語ツールであるな、とも。関西弁の方が身体感覚強い気がする。これは蛇足。
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独特な語り口の井戸川射子さんの小説は正直あまり得意では無い、けれどどこか惹かれるものがあって。
解説を読んでいてしっくり来たので引用。
「物語は「きれいな直線」で説明できないぶん、わかりやすい情緒も得られない。だが読み終えた者なら気づくはずだ。わたしたちが思い出を語るたびに失っていたものが、そっくりそのままページの上に息づいていることに。」
まさに。