紙の本
関係項を変えてみて
2023/02/01 03:57
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投稿者:帛門臣昂 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私も実は喫茶店で他の客の会話が耳に入ってくる時は主人公と同じ気持ちになっているかもしれない。薄い膜をスゥッと張る感じ。主人公の置かれた複雑な境遇は、関係項を変えみると、日本に住む日本人の私たちと同じもの、同根のものなのかもしれない。
個人的には描写のポイントがかなり好みでした。
電子書籍
日本の留学生
2023/01/15 21:25
3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分は、知人や友人に、日本へ、ヨーロッパやアフリカから留学してきていた人たちを、たくさん知っていましたので、彼らと比較しながら詠みました。留学生の、感覚で記された私小説なんでしょうか……。
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芥川賞候補とも、葛が怪物化しているとも知らず。心の落ち着きどころ探し小説?
家が燃えちゃうんじゃと心配に。
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書籍出版前なので、群像2022年11月号で読む。
イランからアメリカに移住してきた男の息子は、いま日本に留学している。
休みに父親が暮らす南部の町に帰省してきた息子が、南部の開墾地で暮らす父親との生活で交わす会話と、感じたことを通じて、複雑な環境を描いている。
これは作者の個人的な記憶による私小説的作品のようだ。
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父はペルシャ語(イラン)から英語(アメリカ)へ、子は英語(アメリカ)から日本語(日本)へ。ひとつの国と言語で生きていくことは、実家を取り巻く葛に似て、その土地での不条理に強く絡めとられてしまう。子がアメリカサウスカロライナ帰省中に、実家の葛の蔓を焼き払う作業を一過性の効果しかないと知りつつ終えると、親子もまた住む土地と母語に絡めとられないそれぞれの暮らしがしばらく継続する見通しが立つように思われました。
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言語がテーマ。
前作の異邦人も少し続いている。
葛がなんとも言えない圧迫感、切迫感をもたらしている。
二か国語の間で生きる。そのうちの一つは英語。
なんと味わい深いのだろう。
お父さんの昔話がとりわけ。
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アメリカの葛のはびこるイメージがみっしりとしていてしんどかった。中近東の遠さが何となく想像がつかなくて。
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イラン人の父親を持つラッセル。米国で生まれ日本で勉強している。ラッセルは父親が生活する米国サウスカロライナに渡り、そこで自分のアイデンティティと向き合うことになる。サウスカロライナの実家の周りには葛が自生し、庭や家を包み込もうとする。日本の家屋にも葛の蔓が壁を伝うが、ラッセルの実家では毎年焼き払わないと家が葛に侵食されてしまう。キリギリスは英語でkatydidなのに、葛は英語でもkudzuで通じる。日米の両方で生きるラッセルは、物の違いと同一性を感じたのだろう。そして自分のルーツに思いをはせる。私はこの作品を正しく読み解けたか分からない。表面をなぞっただけかもしれない。何かしら感じるものはあった。
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これは何とも、想像以上に繊細な話だと感じさせられて、共に日本生まれの日本人である、両親に育てられた私には、その気持ちを推し量ることが、きっと出来ないであろうと痛感させられ、今回、フィクションとはいえ、こうしたケースも世界にはあるのだろうと窺い知ることが出来て、良かったと思う。
本書の主人公「ラッセル・シーラージ」は、アメリカ生まれのアメリカ育ちで、彼が二歳の時、母親が、ペルシャ語を話す現在の父親と結婚したものの、七歳の時に母親が出て行ってしまい、それ以来、育ての父親と二人で暮らしてきたが、その後、日本の大学へ留学し、それから十年経過した現在、就職活動すべき時期にも関わらず、彼は生まれ故郷に帰ってくる。
こうして見ると、単に生まれ故郷が懐かしくなって、帰ってきたのだろうと思われるかもしれないが、ここにはとても一言では語り尽くせないような複雑さがあり、それは何故かというと、彼自身が、『故郷へ帰ること』という言葉の意味を考えれば考える程、分からなくなっていることにあると、私は思う。
彼はアメリカで生まれたのだから、本来、故郷へ帰ることといえば、アメリカへ帰ることだと思うのだが、そうではないと彼は言っている。これは何故か?
勿論、母親との辛い思い出もあるのだろうが、おそらく、それ以上に彼を苦しめているのは、現在の父親と同じ空間を共有することの出来ない孤独感であり、本来、故郷というのは、決して一人ぼっちではない家族の温かさや、家族で無くても、何らかの素晴らしい思い出を感じさせられるからこそ、帰りたくなるものではないかと思い、だとしたら、それが無いから、『故郷へ帰ること』の意味が分からないのだろうと。
しかし、だからといって、育ての父親は決して、ラッセルに冷たく当たったりはせず、寧ろ、母親が出て行った後には、「俺ときみの関係は一切変わっていない」と言っており、これは父と子が、たとえ血縁で繋がっていなくても、これまで通り、変わらぬ愛情を示すということであるが、それでもお互いの空間が共有されていない点に、ラッセルは真の愛情が果たしてあるのかと、父親に疑問を持っているのであり、ここにお互いの、もしかしたら一生落ち合うことのない、価値観のすれ違いといった、止めどのない不安が生じているのかもしれない。
父親はアメリカで暮らしているが、故郷はあくまでイランであり、それは普段の暮らしの中で、ペルシャ語の音楽を流して歌っている姿を、ラッセルもよく見ており、それが、彼の全く理解できない言語の流れる未知の世界への入り口となって、その父親の故郷へ憧れの気持ちを抱かせるが、父親がそれをラッセルに望んでいるのかというと、それはまた別で、寧ろ、望んでいない気持ちが強く、そこには、アメリカとイランの不仲な関係だけではなく、あくまでも、父親自身の故郷に対するスタンスの問題であって、イランにまた帰りたいというよりは、「俺の故郷は頭の中にある。それだけでいい」ということになるが、かといって、ラッセルの母国での暮らしに物凄く愛着があるようにも感じられない。そこに、ラッセルとの共有できる空間が存在しないのである。
たとえば、父親の英語は、周りの母国の人と比べて、言葉選びが少し違っていたり、独特の訛りが出てしまい、それは他人と話すときに、より強くぎこちなさが現れてしまう、父親自身の性格の問題もあるが、決して言葉が通じないわけではないから、父親自身は他人に対して何の蟠りも感じないのだが(これに不親切な態度を取る自惚れた人もいる)、これを横で聞いているラッセルにしてみたら、まるで、父親を侮辱されているように感じてしまうが、ラッセル自身は当たり前に英語を話すことが出来る。そんな点にも共有できない悲しさ、やるせなさに加えて、父親に対する微妙な疎外感には、ラッセルの母国への印象も悪くなる一方で、彼の言葉のひとつである、『母語はむしろ檻のように感じられた』という気持ちにさせられたのも、母親はいなくなり、父親はイランへの揺るぎない思いがあるから、アメリカへの思い入れが薄いように感じられる、そんな両親の故郷への在り方が、ラッセルを孤独な思いにさせているのではないのか。そう考えると、この物語は親子の在り方を教えてくれるようでもあるが。
そして、その結果、彼は彼だけの居心地の良い空間を探さなければならなかったのだが、それは日本に行ったことで果たせたようにも思えず、未だにはっきりと分からない、そんないつ終わるか知れぬ不安を抱えながらも、生きていかなければならない、この繊細な思いの行き所は、果たしてどこにあるのだろうか?
『英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった』
しかし、終盤には希望も感じさせられて、それは、母親が去ってから自宅周辺に蔓延り続ける、とてつもない生命力を持った葛の手入れを、父親がするようになったことで、日々の忙しさに追われて、現状維持することしか出来ない程度ではあるものの、その現状維持が、今のラッセルの為そうとしている気持ちや、『葛』の言語的共通点とも重なる部分もあり、もしかしたら父との繋がりも、現状維持から改善していくのかもしれない、そんな細やかながらも前向きな気持ちにさせられたのが、私には嬉しかった。
本書の作家「グレゴリー・ケズナジャット」は、英語を母語としつつも、日本語で小説を書かれているのが印象的で、その経緯は、本書に於ける自身の体験と想像力を結びつけて書かれた内容にも、説得力を感じさせるものがあり、そこには、外国で暮らす人の視点から見た、世界中のあらゆる人たちが、あらゆる場所で生きていけるように、母国の人達には、もっと想像力豊かに許容心を持って欲しいといった願いが込められているように思われたのが、とても印象深く、本書の前に書かれた、第二回京都文学賞受賞作の、「鴨川ランナー」も是非読んでみたい。
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英語圏で育って日本語の世界で生活する著者
アメリカに帰り、父親との暮らしの中で
父親と従兄弟が話すペルシャ語を不思議な感じで
聞いた子どもの頃を思い出す
英語が十分に話せなくて、いろんな対応をされる父親
そして、言葉の間で生きる自分
祖国と言語、微妙な、そして繊細な表現
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芥川賞候補作。
まず、日本語が母語ではないのに、文学的な文章を書けることがすごいと思う。日本語が母国語の私でもこんな文章書けないと思う。
「囂(かまびす)しい」とか初めて聞いた。
読み心地もすごく良かった。
母語(主人公にとっては英語)を聞いている時、行間が聞き取れてしまうがゆえに不愉快さを感じることがあるというのを、この本を読んで改めて気付いた。
外資系の会社で働いていた時に、私が英語の行間まで理解できないおかげで、傷ついたりイライラすることなく、コミュニケーションを取れていたことを思い出した。アメリカ人の同僚が、クライアントからの英語のメールにイライラしていて、私がそれを読んでみても、行間が読めないので何もイライラしなかったことがあった。逆に日本人のクライアントからの日本語のメールには、行間にある無言の圧力に私はイライラし、アメリカ人の同僚は全くイライラしていなかった。そういうことなのかな。
日本人と日本語で仕事するより、外国人と英語で仕事する方が、英語が完璧でない分不安はあるけど、ストレスが少なく気楽だなとその時思った。
それが、母語ではない言語として、距離を取れているということだったのかな。
でもこの著者は、これだけ日本語が堪能であるから、母語のように行間も読めそう。どうやって距離を守っているんだろう。
著者の作品をこの本で初めて読んだ。他の本も読んでみたい。
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情景が目に浮かんでくるような描写でとても読みやすかった。
葛の蔓が繁茂しているのをぼんやりと眺めながらその中から聞こえてくる虫の声を耳を澄ます。
やがて、多くは語らないけど優しさのある父の声が聞こえてくる。
ラッセルが2歳の時に母が今の父と結婚したが、7歳で母は出ていく。
父だけは、それまでと何も変わらず彼と暮らす。
アメリカ生まれのラッセルとは英語で喋るが、父の言語はペルシャ語だ。
父が、故郷の家族と話すときは英語を使わない。
そのことに寂しさを感じるのか、自分だけ家族ではないと思ってしまうのか…。
国が違えば、ことばも違うという当たり前のことだが、日本から離れたこともなく、身近に日本語以外を話す人がいない自分には想像できないことだった。
だが、父親が一人だけで入り込んでいたあの不思議な世界を、自分の目で見たかった。というラッセルの優しい思いが、心に沁みた。
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切実さを感じる。このグローバル化された時代にあって、確かに英語は万国共通の言葉として強みを発揮し続けているが、その英語という母国語から主人公ラッセルは抜け出すことを考える。そしてマイナーな(失礼!)ペルシャ語を学ぶことで自らのルーツに接近しようとする。言葉を学ぶこと、それによって自分が知らない、父が見ていたはずの世界へ脚を踏み入れようとすることは新しいアイデンティティを得ること、そこから未知の領域を垣間見ようとする試みとも言えるだろう。そうした自分自身の中の迷いや言いよどみが実に読みやすい日本語で書かれる
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短いのに濃厚な90ページだった。故郷、自分のルーツ、居場所。どこにいても落ち着かないフワフワした不安定な気持ちがよく分かる。葛の蔓がどんどん伸びて飲み込んでしまう。故郷って何だろうと思う。
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今日読めて良かった。今読めて良かった。
一生忘れない本にる気がする。
生家を離れた経験がある人はぜひ読んでほしい。新天地で感じる違和感、久々の帰省で感じる違和感、全部がここに入ってる。自分の今の状況にもマッチして、なんで言葉にこんなにパワーと魅力があるのかがよりわかる。