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商品説明
福岡藩西学問所甘棠館の祭酒(館長)であった亀井昭陽。1798年に大火で学舎が焼失し廃校になり、平士の身分となりながらも、父南冥の学業を継ぎ明治初期まで続く亀井塾を守り育てた、その情熱と波乱の日々を紹介する。【「TRC MARC」の商品解説】
福岡藩の儒学者であり、父南冥の学業を継ぎ、
亀門学を大成した昭陽の教育に懸ける情熱と波乱の日々
1798年、福岡藩西学問所甘棠館は大火により学舎が焼失、廃校となる。祭酒(館長)であった亀井昭陽(1773-1836)は平士の身分となりながらも、父南冥の学業を継いで『論語語由述志』、『家学小言』他膨大な著述を残し、明治初期まで続く亀井塾を守り育てた。その生涯と学問。【商品解説】
目次
- はしがき
- 文献引用について
- Ⅰ 亀井昭陽の生涯 略年表風に
- 一・一─昭陽と亀井の五亀について
- 一・二─昭陽年譜考
- Ⅱ 昭陽の人柄と学問
- 二・一─南冥との違いとその人柄
- 二・二─学問観
- Ⅲ 著作をめぐって
- 三・一─原典資料文献から
著者紹介
河村 敬一
- 略歴
- 〈河村敬一〉福岡県福岡市生まれ。高校、大学、看護学校で教育に携わる。著書に「亀井南冥小伝」など。
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立場を弁えた人のありがたさ。
2023/05/05 08:31
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投稿者:浦辺 登 - この投稿者のレビュー一覧を見る
福岡市中央区地行の浄満寺門前には、「亀井南冥 昭陽両先生墓所」と刻まれた大きな石柱が立っている。福岡市中心部を東西に走る幹線道路の明治通りに寺は面している。それだけに、多くの方に認知されて良いはずだが、さほど市民の関心を集めているとは言えない。「あの国宝金印の解説をした亀井南冥」と付け加えると、合点がいくようだ。しかし、昭陽となると郷土史に踏み込んだ方でなければご存じで無いのが悲しい。本書は、その亀井昭陽を中心に、亀井塾の生成について述べられている。しかしながら、その前に、亀井昭陽(一七七三~一八三六)という人は亀井南冥(一七四三~一八一四)の嫡子であることを述べておきたい。
まず、四部構成140ページ弱の本書は手に取りやすい。しかしながら、その内容と言えば、荻生徂徠の古文辞学なることを知らなければ読み解けない。だいたい、「こぶんじがく」と読むのか、「こもんじがく」と読むのかすら判じがたい評者にとって、亀井昭陽の存在は遠い。ところが、二部の「昭陽の人柄と学問」以降は、亀井南冥を祖とする亀井の学問の基本的な物事の考え、教育方針が浮かび上がる。豊後日田・咸宜園の廣瀬淡窓による人物、学業の紹介は、とてもありがたかった。それはそのまま、本書の最終に登場する「男装の女医」として著名な高場乱の生き様を彷彿させるものだからだ。人には夫々、個性があり、その個性に応じて社会を形成する集合体の一人であるべきとの考えが、「なるほど!」と腑に落ちる。更に、「下々の苦しみを自らの苦しみとして世話する心」は、自由民権運動団体・玄洋社の思想にも重なってくる。やはり、玄洋社のルーツは亀井塾にあるのだと確信できる。高場乱が昭陽の嗣子である亀井暘洲を介して、亀井塾の考えを継承していたのだった。そう考えると、昭陽が不遇の日々を耐え忍び、亀井の学問を次につないだ功績は大きい。
第四部に「亀井塾に連なる人々」として亀井の門人である七名が紹介されている。先述の高場乱もその一人だが、この七名の他、評者の希望としては阪牧周太朗(高場乱の従兄弟)、権藤延陵(廣瀬淡窓の執刀医)、白水常人(福澤諭吉の師)も加えて欲しかった。しかし、本書にも述べられているように、亀門こと亀井塾の門人帳が完備されているわけではない。門人たちの活躍とその系譜を次作に期待したい。