サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

本の通販ストア OP 5%OFFクーポン ~2/29

  1. hontoトップ
  2. 本の通販
  3. Music
  4. クラシック
  5. ポール・パレー/マーキュリー・マスターズ 第2集(22CD)

「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。

  • 発売日:2022/07/05
  • レーベル:Eloquence Australia
  • カタログNo.:4843318
  • 組み枚数:22枚
  • 発売国:Australia
  • フォーマット:CD
  • 国内送料無料

CD

ポール・パレー/マーキュリー・マスターズ 第2集(22CD)【CD】 22枚組

【第1集、第2集共通トレーラー】もっと見る

ポール・パレー/マーキュリー・マスターズ 第2集(22CD)【CD】 22枚組

税込 14,960 136pt

CDをカートに入れる

ご注文後に出版社・製造元から取り寄せます。在庫切れなどにより取り寄せできない場合があります。

納期/配送の目安について

24時間

ご注文後24時間以内に出荷します。

1~3日

ご注文後1〜3日以内に出荷します。手配上の都合により出荷の遅れや出荷できない場合があります。在庫切れなどにより出荷できない場合は、その旨お知らせします。

3〜9日

ご注文後3〜9日以内に出荷します。手配上の都合により出荷の遅れや出荷できない場合があります。在庫切れなどにより出荷できない場合は、その旨お知らせします。

7~21日

ご注文後に出版社・製造元から取り寄せます。出版社・製造元での在庫切れなどにより取り寄せできない場合があります。
約3週間経過後も未入荷の際には入手不可と判断し、その旨お知らせします。

予約可

近日発売予定の商品をご予約いただけます。発売後、入荷次第出荷します。
予約商品の価格および発売日は出版社・製造元により予告なく変更される場合があります。
また、既刊商品の重版予約を行う場合がございます。その場合は在庫が入荷次第出荷します。

その他の発送可能日の出荷目安を見る

商品ご購入に際してのご注意

当商品は在庫が無い為、お取り寄せとなります。
ご注文後に出版社・製造元へ取り寄せを行い、商品が調達でき次第発送いたします。
調達が難しい場合、3週間程度でご注文は自動でキャンセルとなります。

あわせて読みたい本

この商品に興味のある人は、こんな商品にも興味があります。

前へ戻る

  • 対象はありません

次に進む

商品説明

【第1集、第2集共通トレーラー】


ポール・パレー&デトロイト響によるマーキュリー録音第2集(22CD)

フランスの名指揮者、ポール・パレーがデトロイト交響楽団を指揮した10年間の録音のうち、1958年から1962年にかけての5年間の音源を集めた22枚組。マーキュリーのプロデューサーの息子トーマス・ファインによりオリジナル音源から新たにリマスタリングされています。オリジナル・ジャケット仕様。ブックレットにはトーマス・ファインによる録音セッションについてのエッセーが掲載されています(欧文)。
  唯一ドイツ・グラモフォンに録音が行われたラヴェルのピアノ協奏曲はモニク・アースとの共演で、パリで収録。ほかにパレーの音源を使用したロック・オペラも収録。


 パレーとデトロイト交響楽団


3度の解散を経験したオーケストラ
1887年に創設されたデトロイト響は、ニューヨーク・フィル(1842)、セントルイス響(1880)、ボストン響(1881)に続く長い歴史があります。しかし財政難や運営問題から、1910年、1942年、1949年の3度も解散に追い込まれていました。デトロイトは20世紀初頭から自動車産業で経済的には栄えていましたが、工業都市でのオーケストラ運営には厳しいものがあったようです。

J.B.フォード・ジュニアがフォード・プランで救済(フォード自動車とは無関係)
1951年の3度目の再結成に際しては、ジョン・B・フォード・ジュニア(フォード自動車とは無関係のケミカル系企業の経営者)が資金調達で大きな役割を果たす「フォード・プラン」を打ち出し、以後30年間ディレクターを務めてデトロイト響を支援。

NBC響コンマス、ミシャコフと契約
1951年、財政基盤を得たデトロイト響は、まずNBC響コンサートマスターのミッシャ・ミシャコフと交渉し、NBC響での任期が終わる1年後の着任を前提に契約し、オーディションなど楽団側の準備を完了。

パレー、ペルレア、サーバタから音楽監督を選考
続いて音楽監督を選ぶための演奏会をおこなうことになり、3人に絞った候補者の客演が1951年10月から開始。まずパレーが11月中旬まで指揮、続いてルーマニアのイオネル・ペルレア[1900-1970]が招かれ、1952年2月にイタリアのヴィクトル・デ・サーバタ[1892-1967]が指揮というスケジュールでした。
  しかしパレーが最初から高評価で、すぐに音楽顧問的な仕事まで任されてその段階で事実上決まってしまいます。1952年1月には正式に3年間契約が発表され、以後、再契約を繰り返していきます。運営陣の判断は正解で、パレーは楽団の力量を数年のうちに大幅に引き上げ、メジャー・オーケストラに匹敵する演奏能力を獲得させることになります。

デトロイト響の再出発
音楽監督就任に際してパレーは弦楽器奏者の増員を要求し、楽員総数は92名から105名に増加させていますが、これは本拠地ホールのデッドな音響への対応も意図したものでしょう。
  また、パレーは聴衆の幅を広げられるよう、最初のシーズンで実に100人の作曲家の作品をとりあげており、さらに関心を深めてもらえるよう、演奏会プログラム冊子には、楽員のリストと、各楽員がどこに座っているかの図を掲載し、具体的な解説もおこなうなどさまざまな工夫を凝らしています。

会場はフリーメイソンの巨大建築
当初のコンサート会場は、1949年の解散時と同じメソニック・テンプル。フリーメイソン組織によって建設され、1926年に開場したネオ・ゴシック様式の巨大な建築物で、シアターも大型です。
  そのためチケット料金も映画館並みの60セントと低額に抑えられていたとはいえ、毎回5,000席埋めるのは大変だったと思われますが、それがうまくいってスケール・メリットに繋がれば、楽団人気の上昇にも直結することになります。


マーキュリーと契約
パレーの演奏会は各所から注目を集め、初登場から10か月後の1952年8月、パレーはニューヨークでマーキュリー・レーベルと3年間の専属契約を結び、以後、1962年まで契約延長を繰り返すことになります。


最初の録音会場
契約から半年後、1953年2月におこなわれた最初のマーキュリー録音であるベートーヴェン7番とフランクのセッションは、本拠地のメソニック・テンプルで組まれましたが、多目的巨大ホールのデッドな響きのため、以後は録音には使われていません(トスカニーニばりの見事な演奏ですが)。


録音会場をオーケストラ・ホールに変更
同じ月にマーキュリーが選んだ別の会場は、14年前までデトロイト響の本拠地だった音響の良い音楽専門ホールのオーケストラ・ホール(1919年開場、2,014席)です。

オーケストラ・ホールの借主
このホールは1919年から1939年まで20年間に渡ってデトロイト響の本拠地でしたが、楽団の財政難により、席数が2.5倍で経済効果が高いと目されたメソニック・テンプルに移ってしまったため、その後の20年間はビッグ・バンド・ジャズとゴスペル・コーラスの一大拠点となっていました。

パラダイス・シアター
デトロイト響撤退の2年後、1941年に「パラダイス・シアター」としての運営が開始され、主にビッグ・バンド・ジャズのためのホールとして、ビッグ・バンド人気が下火になる1951年まで10年間に渡って使用されています。

黒人教会「私たちの祈りの教会」
パラダイス・シアター撤退の2年後、1953年には、黒人教会「私たちの祈りの教会」を主宰するジェームズ・L・ロフトン牧師がオーケストラ・ホールと契約。最大500人編成のゴスペル合唱団のコンサートを開催するなどして話題となりますが、ロフトン牧師と音楽担当責任者の衝突により1958年にオーケストラ・ホールを離れています。
  ホールは翌1959年中には閉鎖され、1960年代終わりには取り壊しの話も出ていますが、1970年に再建が決まり、680万ドルの費用と19年という時間をかけて1989年にデトロイト響の本拠地となっています。

マーキュリーの録音とマリア像
マーキュリーのオーケストラ・ホールでの録音は、1953年2月から1959年4月までおこなわれているので、ほぼ「私たちの祈りの教会」が拠点としていた時期と重なります。セッションの写真にマリア像や雲の書割のようなものが写っているのはそのためです。
  途中、1956年10月にはフォード・オーディトリアムが開場して本拠地となっていましたが、響きが抑えられた多目的大ホールの為、マーキュリー・スタッフの苦労も多く、オーケストラ・ホールでの録音も、建物が閉鎖されるまではおこなわれていました。


新本拠地フォード・オーディトリアム
1956年10月、新たなホール、ヘンリー&エドセル・フォード・オーディトリアム(2,920席、以下、フォード・オーディトリアムと略)が開場。もともとフォード自動車主催の講演やイベントのために設計された多目的大ホールのため、響きが少なめですが、建設の途中でエレノア・フォード未亡人(故エドセル・フォードの妻)がデトロイト響の本拠地として使用することを思いついて決定。建設費570万ドルのうち100万ドルを自動車会社のフォード社が負担し、150万ドルをディーラー各社が負担。開場翌年の1957年には10万ドルの費用をかけて、4,156本のパイプを持つオルガンも設置という大盤振る舞いです。
  マーキュリーは1956年10月から1959年1月までフォード・オーディトリアムで録音をおこなっていますが、その間、1958年3月と1959年4月にはオーケストラ・ホールも使用しています。


キャス工業高校オーディトリアム
手間のかかるフォード・オーディトリアムでの録音を諦めて、オーケストラ・ホールでの録音だけに絞ろうとしていたマーキュリーを待ち受けていたのは、「私たちの祈りの教会」の撤退に伴うオーケストラ・ホールの閉鎖でした。
  しかし、キャス工業高校のオーディトリアムも音響が良く録音にも使えることがわかったため、1959年11月から1962年3月の最後のセッションまでの2年4か月間は同オーディトリアムだけを録音セッションに使用しています。
  1922年に393万ドルをかけて完成したキャス工業高校の校舎は、上から見るとBの字型で、2つの中庭には、片方にオーディトリアム、片方に運動場とプールが設置。オーディトリアムは構造的に校舎と切り離されています。


デトロイト響音楽監督を退任
1961年、75歳を迎え、フリーランスになりたかったパレーは1962年にデトロイト響の音楽監督を退任すると発表しますが、嘆願書が何百も寄せられたため、1963年1月までデトロイトに留まることに変更。退任時には毎年4週間連続の客演を要請され名誉指揮者の称号も授与されます。しかし1968年に運営幹部と対立し、パレーは以後の客演を拒否。その幹部が退任した1975年に7年ぶりにデトロイトを訪れ、翌1976年、90歳の時にも客演していますがそれが最後でした。




 収録情報

CD1
メンデルスゾーン:
●「夏の夜の夢」より

●交響曲第5番「宗教改革」

録音:1958年3月
CD2
●フローラン・シュミット:「サロメの悲劇」 Op.50
●R.シュトラウス:「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」
●ラロ:バレエ音楽「ナムーナ」第1組曲


録音:1958年3月
CD3
●ベルリオーズ:「ローマの謝肉祭」
●ラロ:「イスの王様」序曲
●ビゼー:序曲「祖国」
●ベルリオーズ:序曲「海賊」


録音:1958年3月
CD4
シューマン:
●交響曲第1番「春」
●「マンフレッド」序曲


録音:1958年3月
CD5
1. ロッシーニ:「ウィリアム・テル」序曲
2. サン=サーンス:死の舞踏
3. ウェーバー:舞踏への勧誘
、4. リスト:メフィスト・ワルツ第1番


録音:1958年3月(1,2)、1959年1月(3,4)
CD6
●シベリウス:交響曲第2番


録音:1959年1月
CD7
ベートーヴェン:
●交響曲第2番
●交響曲第1番


録音:1959年1月
CD8
●ベルリオーズ:ハンガリー行進曲
●グノー:操り人形の葬送行進曲
●サン=サーンス:英雄的行進曲 変ホ長調
●ルージェ・ド・リール:ラ・マルセイエーズ
●シャブリエ:楽しい行進曲
●サン=サーンス:フランス軍隊行進曲
●ベルリオーズ:トロイ人の行進曲
●マイアベーア:戴冠式行進曲


録音:1959年4月
CD9
シャブリエ:
●「スペイン」
● 田園組曲

●ポーランドの踊り
●「グウェンドリーヌ」序曲
●奴隷の踊り


録音:1960年11月
CD10
1.ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
2.ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
3.ラヴェル:クープランの墓
4.ドビュッシー:小組曲


録音:1955年12月(1)、1959年4月(2-4)
CD11
オッフェンバック:
●「美しきエレーヌ」序曲
●「地獄のオルフェ」序曲
●「ホフマン物語」組曲

オーベール:
●「青銅の馬」序曲
●「フラ・ディアヴォロ」序曲
●「ポルティチの唖娘」序曲


録音:1959年4月
CD12
ワーグナー:
●「さまよえるオランダ人」序曲
●「マイスタージンガー」組曲
●ヴォータンの告別と魔の炎の音楽
●「リエンツィ」序曲


録音:1960年2月
CD13 「フランスの序曲集」
●エロール:「ザンパ」序曲
●オーベール:「王冠のダイアモンド」序曲
●トマ:「ミニョン」序曲
●トマ:「レーモン」序曲
●ボイエルデュー:「白衣の婦人」序曲
●アダン:「われ、もし王者なりせば」序曲


録音:1960年11月
CD14
●ベルリオーズ:幻想交響曲


録音:1959年11月
CD15
●ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」


録音:1960年2月
CD16
スッペ:
●「美しきガラテア」序曲
●「スペードの女王」序曲
●「軽騎兵」序曲
●「詩人と農夫」序曲
●「ウィーンの朝、昼、晩」序曲
●「ボッカチオ」序曲


録音:1959年11月
CD17
1.ドビュッシー:夜想曲

2.ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲

 ウェイン国立大学女声グリー・クラブ(1)
録音:1961年3月
CD18
●フランク:交響曲ニ短調


録音:1959年11月
CD19
●ラヴェル:スペイン狂詩曲

●ラヴェル:道化師の朝の歌
●ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
●ラヴェル:ラ・ヴァルス
●イベール:交響組曲「寄港地」


録音:1962年3月
CD20 「バレエ - フランス・オペラ・ハイライツ」
1. グノー:「ファウスト」バレエ音楽

2. サン=サーンス:バッカナール
3. ビゼー:ジプシーの踊り
4. ベルリオーズ:王の狩りと嵐
5. マスネ:序曲「フェードル」
6. トマ:ガヴォット


録音:1962年3月(1,3-6)、1961年3月(2)
CD21
●ザ・ネイキッド・カルメン

 作曲・編曲・プロデュース:ジョン・コリリアーノ&デイヴィッド・A:ヘス
 ビゼーの歌劇「カルメン」より(パレー&デトロイト響による「カルメン」組曲の音声を使用)

 ジョン・コリリアーノ(シンセサイザー)
 アニタ・ダリアン(カズー)、ザ・ネイキッド・カルメン・アンサンブル、他
録音:1969年
CD22
ラヴェル:
●ピアノ協奏曲ト長調
●左手のためのピアノ協奏曲ニ長調


 モニク・アース(ピアノ)
録音:1965年4月

 デトロイト交響楽団(CD1-20)
 フランス国立放送管弦楽団(CD22)
 ポール・パレー(指揮:CD1-20,22)

 録音場所:デトロイト(CD1-20)、ニューヨーク(CD21)、パリ(CD22)
 録音方式:ステレオ(セッション)




 目次

【パレー関連情報】
●1886 ノルマンディーに誕生
●1891 父が最初の師
●1895 ルーアン大聖堂の付属校
●1904 パリ音楽院
●1910 ローマ賞
●1914 第1次大戦で引き離された家族
●1919 指揮者に転身、コートレー・カジノ管
●1920 ラムルー管
●1928 ヴィシー歌劇場
●1928 モンテカルロ劇場
●1929 ストラスブール市立管
●1932 コロンヌ管
●1934 パリ・オペラ座
●1939 ニューヨーク万博演奏会
●1939 NBC響共同指揮者への誘い
●1940 第2次大戦
●1940 モンテカルロ劇場
●1941 フランス国立放送管
●1945 コロンヌ管
●1949 イスラエル・フィル
●1953 象牙の指揮棒
●1959 フランス国立放送フィル
●1962 フリーランス、モンテカルロ国立歌劇場

【年表】
1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979

明治 1920 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
大正 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
昭和 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 34 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54

【商品関連リンク】
●商品説明:年表シリーズ一覧




 1886 ノルマンディーに誕生

植民地貿易で発展した象牙とカジノと音楽の町ディエップ
パレーの父オーギュスト[1853-1934]は、ノルマンディーの避暑地ディエップの出身。植民地貿易で潤い、16世紀にはフランス最大の港だったディエップにはアフリカの象牙も多く集まり、象牙彫刻の一大拠点としても知られるようになります。
  一方で経済が発展したことから1822年にはカジノが建設されますが、当初からオーケストラが演奏するテラスが設けられるなど(下の画像の左下の建物の中央部分)、音楽が重視されているのはフランスらしいところです。


集客の高まりとともに施設も大規模化し、さらに音楽も盛んになって行きます。下の画像は1880年代のものですが、ネオ・ムーア様式の建築には大きなカジノと劇場も併設。後年、1902年から1914年にかけてモントゥーが何度も来訪してオペラや演奏会を指揮しており「春の祭典」を成功させてもいます。


父は象牙彫刻職人で音楽家
そうした環境で育った父は、精巧な象牙彫刻の技術を身につけ、独学でピアノも演奏。さらに軍楽隊に3年間在籍した際に、指揮や作曲の技術も習得していました。

近隣のル・トレポールに転居し成功
ほどなく父は同じノルマンディー地方の港町ル・トレポールに転居。ル・トレポールはディエップ郡に属し、海岸の断崖絶壁と海水浴場で知られています。下の画像は聖ジャック教会で、断崖絶壁の画像は年表の方に載せてあります。
  父は同地で象牙彫刻販売を始め、やがてルーアンの副司教ピカール神父の妹である母オルタンス[1862-1947]と結婚、ホテル業を営むようになります。

ル・トレポールでポール・パレー誕生
1886年5月24日、ノルマンディーのセーヌ=アンフェリユール県ディエップ郡ル・トレポールに、ポール・マリー・アドルフ・シャルル・パレーが誕生。普仏戦争から15年、第三共和政初期の世の中で、フランスはまもなく激動の20世紀を迎えることになります。


↪目次


 1891 父が最初の師

父は地元で活躍する音楽家
ホテル仕事の傍ら、父は地元の聖ジャック教会のオルガニストを務めていたほか、指揮や作曲もおこない、夏場にはその教会で、市立楽団とオルフェオンを率いて、ハイドンの「天地創造」や、ベルリオーズの「キリストの幼時」などのほか、グノー、メンデルスゾーン、サン=サーンスのオラトリオやカンタータも指揮(オルフェオンは1833年に始まったフランスの男声合唱運動の産物である合唱団)。

幼少期から父のリハーサルに参加
パレーはそうした父のリハーサルに幼少期から参加しており、1890年、4歳の時には「キリストの幼時」と「エリヤ」の中の曲で、後年の驚異的な記憶力の片鱗を見せてもいます。

小太鼓でボーヴェ市の一等賞を獲得
パレーの才能を見込んだ父は小太鼓を買い与えて指導、熱中したパレーはすぐに上達し、1891年、5歳の時にボーヴェ市の一等賞を得ています。

オルガン演奏を指導
地元で父が弾いていたオルガンは、聖ジャック教会に1890年に設置されたカヴァイエ=コルの楽器。カトリックの大聖堂や大規模な教会の多いフランスでは、オルガンも大型志向でしたが、カヴァイエ=コルの楽器は多彩な工夫でピアニスティックな弾き方でも十分な表現力を獲得できるようになっているのが特徴。パレーの上達は早く、1893年、7歳の時には教会で父の代わりを務めることも多くなります。


パレーの兄オーギュストと妹マリー
パレー3兄弟は、父オーギュストから楽器演奏や作曲など音楽に関する多くのことを学んで音楽家となっています。
  3歳年長の兄、オーギュスト・アドルフ・シャルル・パレー[1883-1950]は、ルーアン大聖堂のオルガニストで音楽教授でもあり、ミュルーズ市立劇場のほか、ヴィシー、カルカッソンヌ、リヨン、ナントの劇場のオーケストラでも活動。
  3歳年少の妹、マリー・オルタンス・オーギュスタ・パレー[1889-1923]はピアニストになりましたが、33歳で死去しています。


↪目次



 1895 ルーアン大聖堂の付属校

盛りだくさんな教育
1895年、カトリックのパレーは、兄のオーギュストの学ぶルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に入学。この学校は聖歌隊が教育機関を兼ねたもので、パレーは聖歌隊で歌う一方で、オルガン、ピアノ、チェロ、ティンパニ、対位法、和声、理論、ルネサンス音楽、グレゴリオ聖歌を学ぶため、アドルフ・ブルドン[1850-1928]とジュール・アエリング[1869-1926]らに師事。
  10歳の時には、ルーアン大聖堂で行われたアドルフ・ブルドン指揮ルーアン芸術劇場管弦楽団と合唱団によるベートーヴェンのミサ曲ニ長調の演奏会で、ティンパニを担当していました。

オルガンへの愛着、マルセル・デュプレとの親交
同級生には、のちに著名なオルガニストになるマルセル・デュプレ[1886-1971]がおり、2人で長大なヴィドールやヴィエルヌの作品を演奏したほか、フランクやレーガー、ブルックナーのオルガン楽譜を分析したりしていました。また、パレーはバッハのオルガン曲が好きで、16歳までに多くの作品を暗譜していたのだとか。

作曲
14歳の時に「マニフィカト」を作曲したほか、17歳で合唱とオルガンのためのオッフェルトリウム「正しき者の口は知恵を語り」、ピアノ曲「スケルツォとタランテラ」、歌曲「月への言葉」などを作曲していました。


↪目次


 1904 パリ音楽院

きっかけはオルガニストとの交流
1903年の夏、パレーはヴァカンスでル・トレポールを訪れていたオルガン奏者で作曲家のアンリ・ダリエの知己を得て交流。パレーの才能を高く評価したダリエは、パリ音楽院入学資格の取得を支援し、1904年、パリ音楽院に無事入学。在学中にマルセル・デリリ[1893-1990]と恋愛関係になります。

アンリ・ダリエ[1849-1934]
オルガン奏者、作曲家、教師。パリ音楽院でフランク、バザンらに師事。1879年にパリの聖ユスタシュ教会オルガン首席奏者。1905年にフォーレの後任としてマドレーヌ教会オルガン奏者。1908年からパリ音楽院で和声を指導。


パリ音楽院入学
1904年年、パレーはパリ音楽院に入学。6年間の在学中、グザヴィエ・ルルー、ジョルジュ・コサード、シャルル・ルヌヴー、ポール・ヴィダルらに、和声、作曲、対位法を師事。

グザヴィエ・ルルー[1863-1919]
作曲家、教師。パリ音楽院でマスネ、デュボワらに師事。1885年にローマ大賞受賞。1896年からパリ音楽院で和声を指導。


ジョルジュ・コサード[1873-1936]
作曲家、教師。パリ音楽院でデュボワ、トードゥらに師事。1905年からパリ音楽院で対位法、1921年からフーガを指導。


シャルル・ルヌヴー[1840-1910]
作曲家、教師。パリ音楽院でトマらに師事。1865年にローマ賞2位、1866年にローマ大賞受賞。1880年からパリ音楽院で和声法と作曲を指導。1894年にギローの後任として作曲の教授に就任。


ポール・ヴィダル[1863-1931]
作曲家、指揮者、教師。パリ音楽院でフランク、マスネらに師事。1883年にローマ大賞受賞。パリ・オペラ座などで指揮。1910年からパリ音楽院で理論、作曲、伴奏を指導。


パリ音楽院卒業
入学から6年後の1910年、パレーは和声で一等賞、対位法で二等賞を得て卒業しています。


↪目次


 1910 ローマ賞

わけありの2位
1910年7月、ローマ賞コンクールに応募し、カンタータ「アシとガラテー」によってローマ賞2位を獲得。サン=サーンス、フォーレ、ヴィドールら音楽部門の審査員たちはパレーを選び1位だったものの、アカデミーの他ジャンルから審査結果を覆され、最終的にノエル・ギャロン[1891-1966]が1位となっています。


2度目の挑戦で優勝
翌1911年7月、パレーは再びローマ賞にチャレンジし、今度はカンタータ「ヤニッツァ」によってローマ大賞を受賞しています。審査員はサン=サーンス、フォーレ、ヴィドール、ピエルネほかでした。


幸せなローマ留学
大賞受賞者はローマのヴィラ・メディチに留学というコンクールで、パレーはここで作曲家として大きな飛躍を遂げています。
  ローマには、リリ・ブーランジェ、ノエル・ギャロン、クロード・デルヴァンクールらが留学しており、パレーは彼らと親しく交流し、作曲、演奏に明け暮れる日々を過ごします。
  アンプレシオン、ロマンティックな反射、戦場、ピアノと管弦楽のためのヴィラネル、オラトリオ「ジャンヌ・ダルク」、声と管弦楽のための「シャンソン・ヴィオレット」、声とピアノのための「奇妙な夜」、声とピアノのための「ヴィオール」、声、オーボエとオルガンのための「あなたに」などを作曲。恋人のマルセル・デリリも同行していたので、留学兼新婚旅行のような幸せなものでした。
  しかし1914年8月、フランスがドイツに宣戦布告したため、パレーはパリに急いで帰還することになります。


↪目次


 1914 第1次大戦~引き離された家族

留学先から急遽帰国
1914年8月、ローマから急いで帰国したパレーは、間もなくドイツがフランスに宣戦布告したためフランス陸軍兵士として出征することを余儀なくされます。

西部戦線で戦闘ののち俘虜に
パレーはベルギーの前線、いわゆる西部戦線に送られ、本部と前線を行き来する伝令兵として軍務につきます。第1次大戦時の伝令兵は死傷率が非常に高く危険な任務でしたが、パレーはドイツ軍砲兵による砲撃はいつも同じ間隔であることに気付き、間を縫うようにして無傷で任務をこなしていました。しかし2か月後、部隊の降伏により俘虜としてダルムシュタットに移送されることになり、同地の俘虜収容所で、1918年3月までの3年半を過ごしています。
  同じ頃、モントゥーはフランス陸軍第35歩兵連隊に配属され、西部戦線で塹壕生活を送っていましたが、2年後にはディアギレフが北米ツアーに同行させるため、前線任務の解除をフランスの戦時局に要請し、除隊させていました。前線から輸送トラックの待ち合わせ場所までは50キロ近くもありましたが、モントゥーは重い兵装に加えてヴァイオリン・ケースと楽譜の束を抱えながら徒歩で移動したのだとか、
  ちなみにドイツ国籍のミュンシュはドイツ陸軍第51砲兵隊に所属し、西部戦線でフランス軍と戦っていました。

ドイツ軍への協力は拒否
パレーはダルムシュタットでドイツ軍音楽家との共同作業を求められますが拒否したため、自由に使える楽器はなく、日曜日の礼拝用にハルモニウムを演奏するだけでした。
  そのため作曲は楽器無しでおこない、弦楽四重奏曲もそうして書かれたということです。

長女の誕生
1915年2月には、恋人のマルセル・デリリが女児を出産しており、名前をパレーの「ポール(Paul)」と同じ発音の「ポール(Paule)」としています。これは、娘と恋人の名を同時に呼びかけられるというネーミングです。

衰弱した状態で帰還
そして1918年4月、パレーは爪がすべてはがれるほど衰弱し肺も悪くして帰還。3歳になった娘と対面し、12月にマルセルと結婚しています(同じ頃、ミュンシュは戦争が終わるとフランス国籍を取得し、数年フランスで活動したのち1932年までドイツでヴァイオリン奏者として活動)。


↪目次


 1919 コートレー・カジノ

南仏ピレネーで指揮者に転身
1919年の夏、パレーはコートレーのカジノでオーケストラの指揮者として採用されます。コートレーは、南仏ピレネーの標高940メートルのところにあり、19世紀にはヴィクトル・ユーゴーやハインリヒ・ハイネ、ジョルジュ・サンドなども訪れた温泉保養地。

指揮者としての資質が高評価
パレーは19世紀生まれの多くの指揮者と同じく、指揮の本格的な勉強はしていませんでしたが、ここで多くの経験を積み、その適性と能力の高さを認められています。驚異的な記憶力と耳の良さも役に立ったようです。

ラムルー管の楽員との出会い
オーケストラの楽員は、他の温泉保養地と同じく、公演ごとに演奏報酬が得られるということで、ヴァカンスを兼ねたラムルー管弦楽団やコロンヌ管弦楽団、パドルー管弦楽団、パリ・オペラ座管弦楽団などのメンバーが100人ほど集まっていました。
  ここでの経験が、翌年のラムルー管演奏会への出演に繋がることになります。


↪目次


 1920 ラムルー管弦楽団

ワグネリアンのつくったオーケストラ
1881年、熱烈なワグネリアンのシャルル・ラムルー[1834-1899]がパリで創設した「新音楽協会(ソシエテ・デ・ヌーヴォー・コンセール)」は同時代の音楽を紹介することを主目的としたオーケストラ。まずワーグナーに熱心に取り組み、演奏会形式全曲上演も含めた演奏で有名になり、続いてフランス音楽、ロシア音楽でも名を馳せています。
  1893年にロシア公演、1896年にイギリス公演もおこなって名声も高まったところで、1897年、ラムルーはオーケストラを娘婿の指揮者カミーユ・シュヴィヤール[1859-1923]に譲っています。


ラムルー管弦楽団に改名し組織形態も変更
新会長で首席指揮者のシュヴィヤールは楽団名を「新音楽協会」から「ラムルー管弦楽団」と改名し、組織形態も「協会」方式としています。これは演奏会を自己資金で開催し、利益を基金に積み上げ、年度末に楽員に分配するというシビアな運営方法です。

戦争の影響
第1次大戦中は徴兵によって楽員が大幅に減ったため、同じく「協会」方式で運営されているコロンヌ管弦楽団と合併し「コロンヌ=ラムルー管弦楽団」として活動。シュヴィヤールとピエルネが交互に指揮していましたが、戦後に元に戻しています。
  ラムルー管は元通りになりましたが、会長のシュヴィヤールはラムルー管の首席指揮者のほかに、パリ・オペラ座の音楽監督も兼務、パリ音楽院でも教授職を務めていたことから多忙をきわめ、追加の指揮者を探す必要に迫られています。


そうした状況の中、公演を支えていた指揮者のひとりで、ドビュッシーの協力者でもあったアンドレ・カプレ[1878-1925]が体調を崩して指揮できなくなり、シュヴィヤールからパレーに電話がかかってきます。カプレはドイツ軍の毒ガス攻撃によって胸膜炎となっていました。
  パレーのデビュー、8日で副指揮者
そして前年の1919年にコートレーのカジノ楽団でパレーの指揮に感銘を受けていた楽員のおかげで、パレーはラムルー管に登場することになります。
  初日は1920年2月29日。パレーは、ワーグナー、ベルリオーズ、シャブリエ、デュパルク、ドビュッシーから成るプログラムでパリのサル・ガヴォー(1,000席)でデビューして成功を収め、8日後には楽員全会一致で副指揮者に選出されています。


戦後の厳しい社会環境下でのレパートリー形成
第1次大戦後のフランスでは、ドイツ軍の破壊した工場や農場、鉱山、鉄道などの深刻な被害のほか、18歳から27歳までの男性の27%、約140万人が殺されたため経済への打撃が大きく(移民200万人で労働力を補う計画が実施)、さらに戦時中から進行していたインフレにより、オーケストラへの補助金が実質的に減少していました。
  そのため、リハーサルを減らして公演数を増やす必要があり、パレーは副指揮者として多くの公演を指揮するかたわら、シュヴィヤールから実務的な指導も受けてレパートリーを拡大。
  ラムルー管はドビュッシーやラヴェル、ダンディなどの初演を作曲家立ち合いで数多くおこなってきた実績を筆頭に、フランス、ドイツ、ロシアの音楽などによってレパートリーを構築しています。
  パレーの得意とする曲目の多くがそれらと重なっているのは、驚異的な記憶力で現場経験を取り込むパレーの能力の賜物でもあり、そしてまたパレーの指揮者としての基礎がこのラムルー管時代にで固められたとも考えられます。

8か月で首席指揮者、3年で会長
実際、パレーの進境は著しく、デビューから8か月後には首席指揮者(監督)となり、3年後の1923年6月には、シュヴィヤールの死によりラムルー管の会長に就任しています。
  パレーはハイフェッツやメニューインを招く一方で、イベール「寄港地」の初演などもおこなうなど多彩なレパートリーを取り上げ、1922年にパレーはイダ・ルビンシテイン(ディアギレフのロシア・バレエ団から独立した人物)の委嘱により、バレエ音楽「不安なアルテミス」の音楽を作曲してもいました。

狂騒の20年代
背景には戦後環境が数年のうちには「狂騒の20年代」と言われるほどの活況を呈する消費状況になったことがあり、パリのオーケストラ業界でも、以下のような団体がしのぎを削っていました。

  ■パリ音楽院管弦楽団(1828年設立)ゴーベール、ビゴー、他
  ■パドルー管弦楽団(1861年設立)ルネ=バトン、ヴォルフ、インゲルブレシュト、他
  ■コロンヌ管弦楽団(1873年設立)ピエルネ、他
  ■ラムルー管弦楽団(1881年設立)パレー、シュヴィヤール、他
  ■グラン・コンセール・サンフォニーク(1921年設立)クーセヴィツキー
  ■ストララム管弦楽団(1925年設立)ストララム、ビゴー、他
  ■プーレ管弦楽団(1926年設立)プーレ、他
  ■パリ交響楽団(1928年設立)モントゥー、ビゴー、フレスティエ、他

以上のほかにも、パリ・オペラ座管弦楽団、オペラ=コミーク座管弦楽団もオーケストラ演奏会をおこなっており、また、シャンゼリゼ劇場などではスウェーデン・バレエ団やロシア・バレエ団がインゲルブレシュト、デゾルミエール、ゴルシュマンらの指揮でストラヴィンスキーなどのバレエを上演、さらに外来オケや他都市オケのパリ公演もあったりで、まさに世界最高レベルの賑わいを見せていたのが当時のパリのオーケストラ業界だったのです。

パレーと楽団運営陣の対立
こうした過度の競争環境で、しかも補助金も頼れないという状況では、楽団運営陣の基本方針も集客優先となるのは致し方のないところでもありますが、パレーの方は譲歩することなく、初演曲や無名曲、初めて招聘するアーティストも多いままだったため、運営委員会はパレーとの契約を延長しませんでした。
  そしてパレーはヴィシー歌劇場とモンテカルロ劇場という共にカジノの劇場からのオファーを受け、新たな職場での活動を開始することになります。


↪目次


 1928 ヴィシー歌劇場

皇帝の「ル・カジノ」
ヴィシーの温泉が気に入っていたナポレオン3世は、浴場しかなかったヴィシーに大規模な娯楽施設をつくるよう要請。皇帝の命を受けて1863年に建設が開始され、1865年7月に開場したのがヴィシーのカジノです。
  このカジノには、当初から約1,000席の劇場が備えられており、オーケストラの演奏もおこなうことが可能でした。


隣にオペラハウスを建設
しかしヴィシーの人気の過熱によって劇場来訪者が増えて手狭となったため、1901年、カジノの正面右隣に新たな劇場の建設を開始、1903年にヴィシー歌劇場として開場しています。座席数は1,483席で、パリ・オペラ座に次ぐ規模のオペラハウスでした。


カジノも増改築して「グラン・カジノ」へ
その際、カジノ本体の方も増改築がおこなわれ、名称も「Le Casino」から「Grand Casino」に変更されています。
  以後、ヴィシーでは、オペラや声楽大作は歌劇場で、オーケストラ・コンサートや室内楽コンサートはカジノの劇場で演奏されるようになります。


パレーの音楽監督就任
1928年、パレーはヴィシー歌劇場の音楽監督に就任しており、1933年までの夏場、オペラと声楽大作、オーケストラ演奏会を指揮しています。両者で演奏するオーケストラの名称は「ヴィシー・グラン・カジノ管弦楽団」となっており、戦後はランパルなども所属していました。


↪目次


 1928 モンテカルロ劇場

パリ・オペラ座の建築家による豪華な劇場
1879年1月25日、モンテカルロ劇場が開場。カジノに併設されたこの劇場は、モナコ公国のシャルル3世によって建設されたもので、設計はパリ・オペラ座と同じシャルル・ガルニエが担当。

ミニ国家の中劇場
南仏とイタリアに挟まれたモナコ公国は面積約2㎢、人口約3万人のミニ国家。そのためモンテカルロ劇場は座席数524の中ホール仕様で、建設当初は演劇や演奏会、オペレッタでの使用を想定。
  しかし1892年、ロシア皇帝の推薦で演出家ラウル・ガンズブール[1860-1955]がモンテカルロ劇場総監督に就任するとオペラの需要が増加。1897年に舞台部分や天井などの改装に取り掛かり7年越しでオペラ対応を完了しています。ガンズブールは1951年まで実に59年間に渡って監督業務と演出を担当していました(ユダヤ人なのでドイツ占領期の1年間はスイスに避難)。

初演オペラは45曲
ガンズブールの評判もあり、モンテカルロ劇場にはカルーソーやシャリャーピン、メルバなども出演しいていたため、初演オペラも数多く、プッチーニ「つばめ」、マスネ「ドン・キショット」「テレーズ」「ノートルダムの曲芸師」、ビゼー「ドン・プロコピオ」、フォーレ「ペネロペ」、ラヴェル「子供と魔法」など45曲もの初演がおこなわれています。

バレエも強力
1911年、ディアギレフの「ロシア・バレエ団」がモンテカルロ劇場を本拠地としたことで、以後、バレエの強力な伝統が継承されることになります。ディアギレフはモナコのアルベール1世から支援を受けていました。

オーケストラ黎明期
1856年12月14日、モナコのカジノ「メゾン・ド・ジュー」で、15人ほどの楽団によって最初の演奏会をおこなったのが、モンテカルロ劇場のオーケストラの始まりでした。といってもそのカジノはシャルル3世が、ヴィラ・ベルヴュー内にモナコ初のカジノとして開場させたもので、場所はモンテカルロ地区に隣接するラ・コンダミーヌ地区でした。
  1862年、カジノはモンテカルロ地区に移転しますが、この時もまだロシア・ホテルの中で営業するという体裁で手狭な状態であり、楽団にも名前はありません。

オーケストラの名前の変遷
1863年、カジノとホテル・リゾートを運営する団体「SBM(Société des Bains ded Mer et du cercle des étrangers à Monaco)」が設立され、大規模なカジノが新たに建設。楽団に名前が付いたのもこの時で、運営団体名から一部をとって「Orchestre du nouveau cercle des étrangers」としています。日本語にすると「外国人サークル新管弦楽団」といったところでしょうか。


1866年、カジノ施設の大掛かりな改築と共に、演奏会・ホールが追加。これによりオーケストラの規模の拡大が始まり、パリから来た音楽家などによって楽員が増え、1870年代には70名規模になっています。


1879年、カジノの裏側(海側)に隣接してモンテカルロ劇場が開場した段階で、オーケストラの名前は「モンテカルロ劇場管弦楽団」となりその後79年間継続。


1958年には「モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団」と改名して22年間継続。そして1980年には「モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団」と改名し、現在43年目を迎えています(2002年から1,000席の新ホール、「オーディトリアム・レーニエⅢ」が演奏会本拠地)。

前音楽監督の死去によりパレーが就任
1928年2月、モンテカルロ劇場で1889年から39年に渡って音楽監督を務めていたレオン・イェアン[1853-1928]が死去したためパレーが招かれます。
  パレーはここで根気よくオーケストラを指導しますが、就任の翌年には世界大恐慌が始まり、主に富裕層によって成り立っていたモナコにも影響が波及することになります。
  また、1932年10月からは週1公演のモンテカルロと、週2公演のコロンヌ管と兼務になり、毎週パリとモンテカルロを往復する事態になったため、1年3か月後の1934年1月、ちょうど6年目が終了するタイミングで、パレーはモンテカルロを去っています。


↪目次


 1929 ストラスブール市立管弦楽団

オペラのオーケストラ
1929年、パレーはストラスブール市立管弦楽団(現ストラスブール・フィル)の音楽監督に就任。ストラスブール市立管弦楽団は、ストラスブール市が運営する「ストラスブール市立歌劇場」のオーケストラで、年に数回おこなわれるオーケストラ演奏会の際に「ストラスブール市立管弦楽団」の名前を使用していました。

専用オケ設立までの経緯
ストラスブール市立歌劇場が開場したのは1821年ですが、ストラスブール市による建設は1804年から実に17年もかかっており、市の出費総額は当初の見積もり30万フランに対して7倍以上に膨れ上がった約215万フランまで拡大。市は費用捻出のために市有地や市の財産などを処分してもいました。
  そのため、専用オーケストラの設立は遅れ、1855年に元治安判事のジャン=ギヨーム=ルイ・アプフェルが歌劇場のために全財産53,000フランを遺贈した段階でようやく結成されています。

ストラスブール市立歌劇場音楽監督バスティード
オペラの方では、1919年から1938年にかけてポール・バスティード[1879-1962]が19年間に渡って音楽監督として在任。このパレーより7歳年長で経験豊富なオペラ指揮者のキャリアは、パレーとはストラスブールで約10年間一緒で、戦争が始まるとマルセイユに移ったのも同じでした。以下、簡単に略歴を記しておきます。
  バスティードはエクサンプロヴァンス大学とパリ音楽院(和声で一等賞)で学んだのち、1898年から翌年までマルセイユ歌劇場で合唱指揮者を務め、以後、ハーグ、カイロ、ヴィシーなどで経験を積み、1919年にストラスブール歌劇場の音楽監督に就任して1938年まで指揮。その間、1932年から1936年まではパリのオペラ=コミーク座の音楽監督を兼務。ドイツに占領されると自由地域に移り、1941年から1945年まで、マルセイユ市立歌劇場の音楽監督を務め、1945年から1948年にかけては、ストラスブール市立劇場に復帰。以後、フリーランスとなり、1948年から1952年までオペラ・コミーク座の音楽指導を引き受けたほか、パリ・オペラ座にも客演し、最晩年はヴィシーのカジノ劇場に再び出演していました。

ミュンシュの指揮の師匠、バスティード
ちなみにバスティードはミュンシュの指揮の師匠で、1930年代初頭に多くの助言を与えています。ミュンシュのもうひとりの指揮の師匠はセンドレイ[1884-1976]で、この2人に教えを受けながら、ミュンシュは1932年11月、奥さん(ネスレ創業者の孫)の雇ったストララム管弦楽団を指揮してパリ・デビューしていました。



↪目次


 1932 コロンヌ管弦楽団

1932年、コロンヌ管弦楽団首席指揮者に就任。世界大恐慌下での運営は厳しく、パリ交響楽団などはマイナス影響が長引いた上にモントゥーが去ったこともあって1938年に解散に追い込まれるような状況でした。
  1939年にはそこに追い打ちをかけるかのように、フランス政府による大規模な徴兵が始まってどの劇場もオーケストラも楽員数が大幅に減り、コロンヌ管弦楽団とラムルー管弦楽団は、第一次世界大戦のときと同じように合同組織「コロンヌ=ラムルー管弦楽団」として戦時下を過ごすことを決定。パレーと友人のウジェーヌ・ビゴー[1888-1965]の共同体制となります。


↪目次


 1934 パリ・オペラ座

1934年、パリ・オペラ座の支配人ジャック・ルシェにより首席指揮者に任命。ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」、「マイスタージンガー」、「ラインの黄金」、「ジークフリート」、サン=サーンス「サムソンとデリラ」、R=コルサコフ「金鶏」、デュカス「アリアーヌと青髭」、ベルリオーズ「ファウストの劫罰」など指揮したほか、オーケストラ演奏会では、ドビュッシー生誕100周年記念演奏会やオール・ワーグナー演奏会、ベートーヴェン9番、ハイフェッツとの共演もおこなったりしています。


↪目次


 1939 ニューヨーク万博演奏会

1939年7月、ニューヨーク・フィル。ニューヨーク万国博覧会とフランス高等弁務団の後援により巨大なルイゾーン・スタジアムでフランス音楽演奏会を開催。ドビュッシー:夜想曲、ラヴェル:ラ・ヴァルス、フォーレ:パヴァーヌ、シャブリエ:気まぐれなブーレ、ベルリオーズ:ファウストの劫罰から。これがアメリカ・デビューとなります。


↪目次


 1939 NBC交響楽団共同指揮者への誘い

1939年7月、ニューヨーク・フィルの公演を成功させたパレーのもとに、NBC交響楽団の共同指揮者(トスカニーニと)に就任して欲しいという要請がありますが、フランスが政情不安だったため、辞退して帰国しています。
  NBC交響楽団は1937年に設立されたばかりのオーケストラ。当初、トレーニングのためにロジンスキーが雇われていましたが、思わしくなかったためモントゥーも参加してなんとかオーケストラとして仕上げることに成功、無事にトスカニーニを迎えていましたが、トスカニーニが世界的な客演活動で多忙なことと、すでに辞任騒ぎなどもあったため、運営側がパレーに目を付けたものと思われます。


↪目次


 1940 第2次大戦

コロンヌ管弦楽団首席指揮者を抗議の辞任
1940年、フランス当局は、コロンヌ管弦楽団の創始者エドゥアール・コロンヌ[1838-1910]がユダヤ人だったことから楽団名称を「パレー管弦楽団」に変更するよう要求しますが、パレーは拒否し、さらにユダヤ人楽員の「名簿」が要求されたため、パレーはこれも拒否して抗議のため首席指揮者を辞任しています。
  楽団は31年間指揮者だったガブリエル・ピエルネ[1863-1937]の名をとって「ピエルネ管弦楽団」に改名されています。
  同じ頃、母校のパリ音楽院ではラボー院長のもとユダヤ人「名簿」が粛々と作成されており、パリ音楽院管弦楽団も危機に瀕していました(1938年から1946年までミュンシュが首席指揮者)。

ドイツ占領地域からモナコ、自由地域(フランス国)へ
辞任したパレーは恋人がユダヤ人だったこともあり、北のドイツ占領地域を離れてモナコ公国に移住、以後、モナコと南の「フランス国」で活動することになります。下の画像の色の薄い部分が占領地域で、濃い部分が「フランス国」の自由地域、その右隣がモナコ公国です。
  「自由地域」とはいっても、占領軍がいない分、フランス警察と国家憲兵隊による監視は厳しく、言葉が通じるだけに、ドイツとイタリアの「占領地」よりもかえって不自由だったとされるのがヴィシー政府管轄地域の都市部でもあり、ユダヤ人のクララ・ハスキルも1942年9月に警察に連行され危ないところでした(支援者のおかげで釈放されスイスに脱出)。


↪目次


 1940 モンテカルロ劇場

反ユダヤ主義を避けて移住
1940年、反ユダヤ主義への抗議によりコロンヌ管の首席指揮者を辞任したパレーは、古巣でもあるモンテカルロ劇場のあるモナコ公国に移住します。背景には、恋人ヨランド・ファルク[1901-1985]がユダヤ人という事情もあります。
  以後、フランス解放が進むまでパレーはモナコを拠点に、マルセイユなど南仏エリア「フランス国」地域での活動も継続します。

解雇ユダヤ人楽員にも貢献
モンテカルロ劇場では1940年から1942年までオペラの舞台上演はおこなわれませんでしたが、演奏会形式での上演や、オーケストラ・コンサートは実施されていたため、フランス政府により解雇されたユダヤ人楽員たちを集めて起用することも可能でした。

再婚
1942年8月、フランス国籍のパレーとヨランドは南仏に出向いて再婚。その後37年間行動を共にすることになるヨランドは、ドイツ領時代のアルザスに生まれ育ちフランス語のほかにアルザス語とドイツ語、英語も堪能。このドイツ語がドイツ占領下のフランスでの情報収集に有効だったほか、1948年に建国されるイスラエルでも役立つことになります(当時のイスラエルではドイツ語とイディッシュ語が主要な言語だったので)。

イタリアが占領
1942年11月、隣接するイタリアがモナコ公国に侵攻してファシスト政治局を設立し、1943年9月にバドリオ内閣が連合国に降伏するまで10か月間に渡ってモナコ公国を占領。

ドイツが占領
1943年9月、イタリア降伏後はドイツがモナコ公国を占領。1年間続きますが、ドイツは戦前からモナコ公国で「経済制裁」への対策として租税回避やマネーロンダリングをおこなっていたためモナコ公国は特別扱いとなっていました。
  しかしユダヤ人迫害はおこなわれ、モナコ政府が偽の書類を手配はしたものの、モナコのユダヤ人のうち90人が強制収容所に送られています(81人殺害)。モンテカルロ劇場総監督のガンズブールはユダヤ人だったため辞任させられてスイスに避難、その間、パレーとモンテカルロ・バレエ団監督のマルセル・サブロンが劇場を仕切っています。

弦楽交響曲が誕生
1944年、パレーは第1次大戦中にダルムシュタットの俘虜収容所で作曲した弦楽四重奏曲を、弦楽オーケストラ用に編曲した「弦楽交響曲」として演奏。


↪目次


 1941 フランス国立放送管

郵政大臣のつくったオーケストラ
フランス国立管弦楽団は、1934年に熱心な音楽愛好家で郵政大臣のミストレルの政令によって設立。改名歴は以下の通り。

1934 国立管弦楽団
1945 フランス国立放送管(RTF)
1964 フランス国立放送管(ORTF)
1975 フランス国立管

徴兵で楽員半減 → 戦争で疎開 → 爆撃で楽団解散
国立管弦楽団ということで最初から楽員は80名、兼業も禁止と決められるなど境遇は恵まれていましたが、1939年、設立5年目にして政府の大規模徴兵によって楽員が半減、さらに戦争も始まったため、1939年10月からフランス中西部のレンヌに拠点を移して活動。しかし、ドイツ軍による爆撃のため1940年6月には解散。


マルセイユで再結成してパレーが指揮
9か月後の1941年3月、国立管弦楽団は、フランス国(自由地域)の南仏マルセイユで政府によって再結成され、モナコを拠点にマルセイユでも活動していたパレーが指揮を任されることになります。

抗議の辞任と解雇ユダヤ人楽員の雇用
しかし4か月後の1941年7月には、フランス政府がユダヤ人楽員を解雇することを決めたため、パレーは抗議のために自身も辞める道を選びます。解雇された楽員にはクララ・ハスキルの妹ジャンヌ(第1ヴァイオリン奏者)もいました
 パレーはモンテカルロ劇場のオーケストラで解雇されたユダヤ人楽員を雇用し、演奏会やオペラ上演を実施。

数多く客演
1945年、オケはフランス国立放送管(RTF管)と改名。パレーは戦後しばらくはあまり客演していませんが、1958年のインゲルブレシュトの退任あたりから機会が増え、1963年の放送ビルの完成後は特に多くなっています。ちなみに1964年6月27日以降、フランス国立放送は日本語では同じですが元の名前はRTFからORTFに変更されています。

フランス国立放送再編によりパレーの客演停止
1974年、フランス国立放送はラジオ・フランスへと組織改編するために再編・人員削減を開始。フランス国立放送管も対象となり年配の楽員を解雇。1975年には楽団運営陣も刷新され、パレーは呼ばれなくなり、音楽監督のチェリビダッケも数か月で辞任。


↪目次


 1945 コロンヌ管弦楽団

1930年にコロンヌ管弦楽団首席指揮者に就任していたパレーは、8年後の1940年、反ユダヤ主義政策で楽団名の改名を強いられ、ユダヤ人楽員の「名簿」まで求められたことから抗議のため辞任していました。
  それから4年が過ぎた1944年にパリが解放された際、ドイツ当局によって「ピエルネ管弦楽団」と改名させられていた楽団は「コロンヌ管弦楽団」に名前を戻し、ラムルー管弦楽団との合併状態も解除。
  1945年にはパレーが首席指揮者に復帰して活動を本格的に再開しています。


↪目次


 1949 イスラエル・フィル

音楽監督就任要請をいったん拒否
イスラエル・フィルは1936年にフーベルマンが結成したパレスチナ管弦楽団が発展したもので、改名は1948年のイギリス委任統治の終了によるイスラエル建国を機におこなわれています。
  パレーが客演した際には、まだ歴史が浅いオーケストラでしたが、運営陣はパレーを気に入り音楽監督への就任を要請。
  パレーの回答は、管楽器セクションの水準が十分ではなく、また、弦楽器奏者は優秀だが人数が足りないと指摘する否定的なものでした。

音楽監督就任
そこで運営陣は問題点を解決すると約束し、弦楽器セクションについての増員が承諾され、管楽器奏者7人についても、パレーがフランスの第一線で活躍する一流の奏者を選んで入団させるという方針が決定し、1949年10月に音楽監督に就任しています。
  パレーは実際にランパルにまで声を掛けていますが、フランスから当時のイスラエルへの移住では環境条件も厳しかったようで、なんとか6人は集めるものの当初想定したレヴェルではありませんでした。

北米ツアーをめぐり剛腕ヒューロックが介入
さらに、1951年1月から3月にかけてイスラエル・フィルが30都市60公演に及ぶ北米ツアーを実施するにあたっては、興行をとりしきるソロモン・イスライレヴィチ・ヒューロックが主要都市での公演はクーセヴィツキーと弟子のバーンスタインが指揮するように主張したため事態が混乱します。
  ロシア帝国生まれのユダヤ人であるヒューロックはロシア系ユダヤ人アーティストの興行を中心に名を馳せており、ロシア帝国生まれのユダヤ人クーセヴィツキーとロシア帝国からのユダヤ人移民を両親に持つバーンスタインは彼にとって譲れない人選。

ソ連反ユダヤ・キャンペーンと同時進行していた「赤狩り」が次第に反ユダヤ主義に変質
背景には政治的な要因も窺えます。当時のソ連政府は、自国からの移民が多いパレスチナ(イスラエル)に対して大規模な支援を続けていたにも関わらず、1948年の建国に際してイスラエルがアメリカ側についてしまったため、ソ連は一転して反ユダヤ・キャンペーンを開始していました。
  また、ほぼ同時進行していたアメリカの「赤狩り」キャンペーンも反ユダヤ主義に繋がりかねない傾向があったため、政治的にも興行的にも、「ユダヤ」、「ロシア」というキーワードが「共産主義」に結びつかないようなイメージ作りが求められていたという事情があります。

ツアー主催はイスラエル・フィルを支援する米ユダヤ系ファンド
ヒューロックは5年後にはオイストラフをめぐって大手のコロンビア・アーティスツと争奪戦を繰り広げるほどの強気の人物でもあったので(負けましたが)、これはパレーには不運なめぐり合わせでした。
  しかもツアーを主催するアメリカのユダヤ系基金「アメリカン・ファンド・フォー・イスラエル・インスティテュート」は、1942年からパレスチナ管弦楽団(イスラエル・フィル)を支援していたため楽団運営陣は逆らうことができません。

パレー、傷心のうちに辞任
運営陣は、パレーの言う「主要都市を含む40公演」という希望には添えないとして地方都市35公演を提案しますが、パレーは落胆して1950年5月4日に音楽監督を辞任してしまいます(1週間前に兄のオーギュストが亡くなったショックも大きかったと思います)。戦時中、反ユダヤ主義に抵抗し救済もしたパレーが、政治的な事情があるとはいえ、ユダヤ人のインプレサリオのヒューロックから酷い目に遭うという皮肉な話でもあります。


クーセヴィツキーの出した条件、そして死
ヒューロックに名指しされたクーセヴィツキー[1874-1951]は、前年の1949年8月にボストン響の音楽監督を健康問題で辞任して時間的に余裕があり(後任はミュンシュ)、イスラエルのワイツマン大統領とは親交もあったことから1950年のイスラエル・フィルへの客演は無報酬でおこない、しかも、ヘブライ大学には自身の膨大な楽譜ライブラリーを寄贈する約束もしていました(クーセヴィツキーはかつて楽譜出版社を経営)。
  クーセヴィツキーは北米ツアーを引き受ける前提として、パレーがツアーに行かないのであればという条件を出してパレーに配慮もしています(クーセヴィツキーとパレーは1920年代にパリで競い合っていた間柄でもあり、1945年にはパレーはクーセヴィツキーに招かれてボストン響に数週間客演してもいました)。
  ちなみに76歳のクーセヴィツキーは、イスラエル・フィル北米ツアー終盤の1951年3月上旬に具合が悪くなって入院しており、1週間ほどで退院はできたものの、ツアーの無理が祟っていたのか、5月に再び入院し6月4日に脳出血で亡くなっています。


パレーのイスラエル・フィルへの客演は長期継続
辞任したにも関わらず、パレーは運営陣の立場にも理解を示し、翌1951年5月から6月にかけて早くも客演。オーケストラ楽員との関係も良好で、以後、何度もイスラエルを訪れており、28年後の1979年10月に亡くなるまでに計360公演以上指揮しており、1980年7月にはデッカにイスラエル・フィルとチャイコフスキー:白鳥の湖とくるみ割り人形の組曲を録音する予定もありました。


↪目次


 1953 象牙の指揮棒

パレーの第2次大戦中の勇気ある行動を称賛
1953年、パレーは、全米キリスト教徒・ユダヤ人会議のデトロイト円卓会議から象牙の指揮棒を授与されます。これはパレーが戦時中におこなっていたユダヤ人楽員追放に関わる抗議行動や、ユダヤ人楽員を救済したことを讃えるもので、象牙の指揮棒は、ラフマニノフが1898年にロンドンで使用したものということです。


会場はフリーメイソンの巨大建築
式典が開催された会場は、当時のデトロイト響の本拠地メソニック・テンプル。ネオ・ゴシック様式の建築物で、名前の通りフリーメイソン組織によって1920年に建設されています。
  興味深いのは、メソニック・テンプルと近い時期に、フリーメイソンの傍系組織「シュライン(古代アラビア神秘神殿騎士団)」に関連し、演奏会でも使用されたりするネオ・ムーア様式の巨大な建築物がアメリカでいくつも建設されていることです。そしてそれらは中東趣味に彩られたものであることも共通しています。以下は特に有名なものです。


シリア・モスク(ピッツバーグ)
パレーもときおり指揮していたピッツバーグ交響楽団の本拠地であるピッツバーグのシリア・モスク(1911年建設、3,850席)。その名前と、アラビア文字まで使用した中東風の装飾で有名ですが、イスラム教とも中東とも関係はありません。


メディナ・テンプル(シカゴ)
シカゴ響の録音や演奏会で知られるメディナ・テンプル(1912年

特典・視聴・HMVユーザーレビュー

特典・視聴・HMVユーザーレビューを見る

  • リンク先はHMVのサイトとなります。

※ 一部の商品はHMVより販売業務の委託を受けています。

×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。