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告白 2(中公文庫)

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2014/10/14 04:36

投稿元:ブクログ

アウグスティヌス(山田晶訳)『告白Ⅱ』中公文庫,2014年
 第7巻から第10巻を収める。第7巻では、マニ教を疑い、カトリックに傾いていた31歳のときを回想している。基本的にアウグスティヌスはプロティノスなど新プラトン主義を介して「神」を理解していくのであるが、眼で見えるものしか信じなかった彼は神を自然全体と考えたりする。しかし、自然全体を作ったのも神であり、結局、「神」というのは「どこにいる」という場所ももたず、どこにでもいて、かつ、ここには少なく、あちらには多いということもないという考えにいたる。(数学的にいえば「神」は「無限」である。カントールによれば、無限に無限を加算すると「濃度」が変わってくるのだが)。また、神が人として生まれたイエスについても、すこしづつ認識していく。
 第8巻は32歳の「回心」を語っている。シンプリキアヌスから、元老院議員の師であったウィクトリヌスの回心の話をきき、また、ポンティキアヌスからエジプトの修道者アントニウスの生涯(孤独で祈りに生きた)をきき、アウグスティヌスもキリスト者になろうとするが、いままでの習慣から決断することができない。女性にまつわるいろいろな煩悩も襲ってきて、アウグスティヌスは友と暮らしていた家のイチジクの木の下で泣きだした。そのとき、隣の家から「とれ、よめ」という子供の声が聞こえ、それを神の命令だと思った彼はパウロの書簡をとり、「主イエス・キリストを着よ、肉欲をみたすことに心を向けるな」という一節を読んで回心をし、洗礼志願者になることを決めた。劇的な話ではあるが、面白いのはアウグスティヌスも「やりたいけど、できない」自分にさんざん悩んだということだ。仏教でも習慣の力を指摘しているが、人間なかなか決心ができないもんだなと思う。
 第9巻は修辞学の教師を引退し、息子や友人とともに洗礼をうけ、神に仕えるためにアフリカに帰ることになったことを書いている。しかし、息子は17歳で死に、母モニカもアウグスティヌスの洗礼を見届けて死ぬ。故郷に葬る必要はないが、祭壇では思い出してくれという遺言であった。モニカの墓は15世紀までローマのオスティアの港にあったらしい。山田によれば、第9巻は最高のキリスト教文学のひとつに数えられるそうである。死を前にした母との対話や母のための祈りなど、心が温まるものだと思う。
 第10巻は、ヒッポ(カルタゴ付近)の司教になったアウグスティヌスが自分が現在どういう者であるかを神に告白する。現在を告白するときにアウグスティヌスは「記憶」について考察をしている。かれによれば、感覚が運んできた心象(Imago)も、数学や弁論術などの知的概念も、すべては記憶のなかにあり、さらには未来の希望も「記憶」の場にある。つまり、記憶は時間をつらぬいて存在する自己そのものである。これは言ってみれば、データもプログラムも演算結果も記憶装置にあるということである。ノイマン型コンピュータだ。面白いのは、アウグスティヌスは明らかに「無意識」に気づいていることだ。回心の場面でも自分が「自分」ではない感じに悩んだし、記憶の考察では「忘れたものを覚えている」という不思議な現象を考察している。物をなくした場合、差し出された物が忘��た物ではないことは分かるのに、その物じだいは思いだせない。人の名前などでもそうだ。結局、アウグスティヌスは「人間のうちにある人間の霊にすら知られていない何かが人間のうちにある」(第5章)とし、この「記憶」の奥底におりたところで神と出会うのだということになる。「自分の内側からふれてくる他者」に気づいているのである。こういう話は現代の言語獲得論でも生得概念があるんじゃないかという話になったり、進化倫理学の理論(たとえば人類文化共通で蛇が嫌いとか)とも重複するところがあると思う。フロイトの無意識はおどろおどろしい抑圧の世界だが、アウグスティヌスの無意識には神の場もあり、この点でオールド・ワイズマンなどの元型を指摘したユングの無意識に似ているのかもしれない。フロイトはユングを「現代の預言者になろうとしている」と批判したが。つづいて、アウグスティヌスは感覚の誘惑を分析し、現にいろいろな誘惑にふりまわされていることを告白する。目が醒めているときは誘惑されなくても夢で誘惑に屈し、「肉の流れ」(夢精)がおこることも告白している。なんとも正直な人である。ちなみに仏教でも「夢精は対象を認識しているのか」とか議論がある。基本的にはこうした誘惑に対して、神とイエスの助力を請うている。また、アウグスティヌスは「みる」という言葉が見ないものにも使用され(「いかに堅いかみよ」等)、視覚の欲望が感覚の欲望を代表することをいっている。いわゆるメタファーである。cogito(考える)という言葉も、cogo(集める)の強意だとしていて、「考える」とは記憶の場でいろいろな記憶の断片を「集める」ことだとしている。最近は「認知言語学」など、「認知」を冠する学問が多いが、これは英語ではcognitive 〜である。コギトの派生語だ。
 現代でも「もてたい」とか、いろんな煩悩を告白した本はあるけど、キリスト教の聖職者など、禁欲の極致を生きるような人の告白はやはり迫力があるなと思う。

2014/06/14 23:37

投稿元:ブクログ

アウグスティヌス(山田昌訳)『告白』中公文庫。古典的名著の歴史的名訳待望の文庫収録。安易な外部の物語に依存する心性からの超越を克明に記録する偽りのない徹底的な自己内対話は、読み手の心を捉えてはなさない。解説「『告白』山田昌訳をもつということ」(松崎一平)も秀逸。手元に置きたい三分冊。

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