投稿元:
レビューを見る
【戦後日本人の盲点を補う最良の歴史書】戦後世界を規定した第二次世界大戦。「連合国=善玉」「枢軸国=悪玉」という二分法では理解できない戦争の真実に迫る。
投稿元:
レビューを見る
ヒトラーを叙述の中心とした、第二次世界大戦の概説書。
前半はヒトラーの伝記的な叙述で、いかにヒトラーの思想形成がなされたか、そしてナチスが政権の座に就く社会背景はいかようなものであったかが説明される。
後半は特に列強間の外交史に力を置いている。その背景である、各国指導者が当時国際社会をどう分析していたか、そしてどのような戦略を立てていたかも、極力紹介するようにしているため、各国の思惑や駆け引き等は分かりやすい。
一方で戦史には殆ど紙幅は割いていない。
時系列に沿って平易な言葉で書かれているため、大変読みやすい。一方で、史料の引用はあるものの出典はなかったり、様々な学説の紹介などはしていなかったりで著者の考察もあまり深入りはしていない。完全に一般向けの本で学術的な読み物ではない。
第二次世界大戦前から終戦までのヨーロッパ国際政治の動きの流れを追うにはなかなかまとまっていて良い本であるように思う。
ただ、あくまで入門編を意識したであろう本なので、「そうだったのか!」と目から鱗が落ちるような記述はあまりない。
投稿元:
レビューを見る
P116〜117
イギリスの平和主義的風潮
1930年代、ヒトラー、ムッソリーニの台頭に対して、国内の左派右派の対立に終始したフランスは無力であった。
さらに、挙国一致内閣が成立し、国内の経済対策には機敏な対応を見せたイギリスでさえ、ドイツに対して何ら力強い対応を取れなかった。
その原因はイギリス国民の平和主義的ムードである。
イギリス国民は第一次世界大戦の惨禍に懲りて、また次の戦争に怯えて、平和の維持をあらゆることに優先させた。
そこに無邪気取り入ったのが野党の労働党である。
理想主義的な平和主義を高くかかげ、国際連盟による集団安全保障と軍縮の実現とをイギリス外交の目標として主張した。
→ナチスドイツの本質を考えれば、軍備の増強こそが必要であった。
→しかし、軍備の縮小を訴えた労働党が保守党地盤選挙区の補欠選挙で大勝
→保守党はドイツと対抗するのではなく、軍備で一定の諒解に達することを求め、1935年6月、ドイツと海軍協定を結んだ。
P143
ソ連外相リトヴィノフの言葉
ファシスト政権であってもソ連が工業化するまでは友好関係を保ち、国家を守る。
→しかし1934年、ドイツはポーランド侵攻。不可侵条約を結び、ソ連の不安が高まる。
P191
1937年11月5日 ホスバッハ覚書
→ドイツの政策目標は生存圏の獲得
1938年3月11日
→オーストリアへ無血進駐
→次の目標はチェコスロバキア
→9月、ヨーロッパは戦争目前
→9月15日チェンバレンはベルヒテスガーデンへ
チェコスロバキアの説得を約束
→9月22日チェンバレンはゴーデスベルクへ
チェコスロバキアの合意をポケットに
しかし、ヒトラーは撥ね付ける!
→いよいよヨーロッパは再び戦争か
→9月29日、ミュンヘン会談
英チェンバレン、仏ダラディエ、独ヒトラー、伊ムッソリーニ
→ヒトラーの意を入れたムッソリーニ案を英仏は飲み、チェコスロバキアに有無を言わさず押し付け
P222
1939年4月〜8月
英仏独ソおよびその侵略対象国がそれぞれの思惑で同盟を模索。
英仏とソの対独同盟はまとまらず、1939年8月、ついに独ソ不可侵条約が締結される。
P234
1939年9月1日
ついにドイツがポーランドに侵攻
同9月3日
英仏がドイツに戦線布告
しかし、実質的な戦争は行われず、ポーランド占領後、ドイツは西部戦線への進軍を図るが軍備が整わず延期
→その間はフランスはマジノ線による徹底防御策を取り、戦闘は行われず。
ドイツはその間、1940年4月9日にデンマーク、ノルウェーに進軍し、イギリスの海相チャーチルの進言で英仏も応戦したが、ドイツの制空権を前に撤退。
1940年5月10日
ついにドイツはオランダ、ベルギーにB軍が進軍。
一方でA軍はルクセンブルク経由で侵入。ドーバー海峡まで駆け抜け、英仏軍を二分。
三日月型鎌苅作戦。
1940年7月
近衛内閣成立。
ドイツの快進撃を前に、再び日独伊三国同盟同盟に傾倒。
しかし、ドイツは早晩イギリスが屈服すると考え、��り気ではなかった。
しかしイギリスの徹底抗戦、アメリカとイギリスの連携強化をうけ、ドイツも日本の参戦を望む。
→1940年9月27日、日独伊三国同盟締結
1941年6月22日、ユーゴスラヴィアのクーデター処理などにより5週間遅れで、ドイツはソ連に侵攻。バルバロッサ作戦。
→緒戦の快進撃もやがて地理的、量的条件から停滞し、1941年12月8日、攻撃を停止。
同じく12月8日、日本は真珠湾攻撃でアメリカと開戦。
1945年5月8日、ドイツのヨードル将軍が降伏文書に署名
→1945年7月17日 ポツダム会談
→17日間に渡ったこの会談の途中7月26日にイギリスは総選挙で労働党が大勝し、チャーチルからアトリーへ首相交代。
投稿元:
レビューを見る
第二次世界大戦前夜、ヒトラーを中心に繰り広げられた外交バトルが、破局へとなだれ込んでいくプロセスをこれほど鮮やかに活写した書物を知らない。息つく間もなく一気に読み通せる。独、伊、英、仏、ソ、米、日各国の内政との絡み合いにも周到な目配せをしながら、それぞれの指導者達がどんな状況認識の下に、何を考え、いかなる戦略に基づいて行動していたのか、枢軸国対連合国、ファシズム対民主主義といった単純な構図では見えてこないダイナミズムを見事に描き切った名著である。
とりわけスリリング(という形容はいささか不謹慎ではあるが)なのは、ヒトラーとスターリンがいずれは激突する運命にあることを共に自覚しながら、二正面作戦の回避に腐心し、潜在的に敵対国にも同盟国にもなり得る各国を巻き込み、欧州のみならず地球規模で虚々実々の駆け引きを展開するところだ。まさに「敵の敵は味方なり」「昨日の友は今日の敵」を地で行くものだが、それが世界大戦の世界大戦たるゆえんでもあるだろう。
またヒトラーが英仏との全面戦争を必ずしも望んでいなかったという常識を覆す見方が提示されている。ヒトラーの戦争計画が案外杜撰であり、英仏の中途半端な宥和政策がヒットラーの機会主義的な行動を助長したとするテイラーの『 第二次世界大戦の起源 (講談社学術文庫) 』に近い立場をとっているようだ。ただチェンバレンの態度が煮え切らなかった背景には、少なくともミュンヘン会談の時点では、平和を謳歌する英国民が戦争を望まなかったという事情があることも著者は見逃さない。いずれにしてもヒトラーという特異な個性のみが大戦の元凶であるという単純な見方の再考を迫るものである。
それにしても、ヒトラー率いるナチスドイツと昭和の大日本帝国は往々ファシズムという言葉で括られるが、両者がいかに異質であるかを改めて感じる。ただ当時の第一級の知識人ですらヒトラーの本質を理解するのは今日考えるほど簡単なことではなかった、という野田氏の指摘は歴史家として公平な態度だろう。もっとも、野田氏が日中戦争を侵略という一語であまりに単純化して捉えている点は少々気になるが、欧州をメインにした書物であり、日中戦争の意味を論じるのが目的でもないので多くは問うまい。