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敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画

敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画 みんなのレビュー

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みんなのレビュー3件

みんなの評価4.4

評価内訳

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  • 星 1 (0件)
3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本

読み応え十分

2015/12/31 22:29

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:いち映画ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る

敗者とは第二次世界大戦で敗戦国となった日本の事です。
ここでいう「身ぶり」とは
この私の言葉に置き換えるなら敗戦という事実を、どう感じて、
どう気持ちを整理してどのように乗り越えたかといえるかと思います。

この本で取り上げられている映画は映画史に刻まれている映画もあれば
全く忘れ去られた映画、または我々が知らなかった映画もあります。
それらの作品を通していって歴史の裏舞台を読み解いている本なのです。
映画批評は散々、読んできましたが、久しぶりに読み応えのある本でした

まず取り扱われているは黒沢や小津の代表作の数々です。

『虎の尾を踏む男達』本文より
「ラストシーン、酔っぱらて寝てしまったエノケンが目を覚ますと、義経の小袖がかけられ印籠が置かれている。夕暮れの高原には誰もいない。小手をかざして遠くを見やるエノケンは何かに気がついてはたと膝を打ち、とび六法でー一度は転んだりしもしながらー画面手前、左下のオフに去っていく。非戦闘者である民衆は戦闘者である支配階級とつかのまの危機的な時間を共有した。しかし、その問いと問題はすれ違ったまま、両者は天と土地に別れる。…」(P34~P35)と、言った具合です。

『晩春』
この映画では、父一人を残して結婚するかどうか迷う娘の映画。
著者は、この映画では、女性が家族という絆の中で抵抗していくが家族と言う絆にからみ捉えられていく様であると分析します。

『麦秋』
この映画は迷いを捨てて結婚をする女性の物語。
原節子という同じ女優が新しく変化した時代、己の決断で歩んでいくととる。
誤解を恐れずに、まとめるなら戦前の女性像から
戦後の女性像が映し出されていると解析するのです。
その叙述は一シーン、一動作まで言及されているので本文で確かめてほしい。

『生きる』『七人の侍』『生き物の記録』
上記の黒澤の代表作に共通するものは「もの言わぬ女性達」という視点です。
それが戦後の女性像を浮かび上がらせている、という分析です。
以前から「黒沢は女が描けない」と言われてた。それを逆手に取った分析。
こと細かく描写して解き明かしていく手法は推理小説の謎解きに満ちている。

現在では全く忘れ去られている、ある映画に着目する。それが「二等兵物語」。伴淳三郎とアチャコの主演の喜劇調の軍隊生活の映画。
軍隊を舞台に喜劇を作る、ということ自体が当時には、ありえなかった企画。
添え物のような映画が、この映画なのです。
ところが「二等兵物語」は注目を集め、大ヒットし何作もの続編が作れるくらいに人気が出る。そんな映画となりました。
この映画に著者は、何を見たのだろうか。

それは、この映画を見ることによって敗者の存在を刷新できたからです。

この本の最終章には一本の映画を論じた章がありました。
付録「彼らを滅ぼせ」(1943)
ビハインド・ライジング・サン」の良い日本人
アメリカ映画です。そして、この映画は決して日本では公開されないと著者は、言っています。こんな映画をを探し当てたところはすごいと思わざるを得ませんでした。

映画の「菊と刀」とも称しています。
アメリカの手のうちにある日本人とも読めるのです。

とにかく興味深く、面白く読ませていただきました。

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紙の本

咀嚼するには堅いが、味のある文章で綴られたポスト占領期のテマティスム日本映画批評。

2015/02/12 12:08

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る

「身ぶり」という、それ自体は曖昧な多義性を持つものを、意識的、無意識的を問わず、ある時代に固有の精神や経験を具現するものと読むことで、講和条約発効前後に発表された日本映画を分析したもの。テマティスム批評の流れを汲む映画批評である。

採りあげる作品は、黒澤明の『虎の尾を踏む男達』、『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』、小津安二郎の『晩春』と『麦秋』、谷口千吉の『赤線地帯』、松竹映画『二等兵物語』シリーズ初期作品、成瀬巳喜男の『なつかしの顔』と『浮雲』他(付録として米映画一本を含む)である。

映画批評にもいろいろなスタイルがあるが、役者や監督という人間が表現しようとした意図の成就如何に着目するのではなく、画面上に映し出される映像を何かを意味するものの集合としてとらえることで、そこに意味されているものを読みとっていこうとするのが、テマティスム映画批評というものである。そういう目で見られたとき、美しい映画女優は単なるオブジェに等しく、黒澤、小津といった世界的監督さえも特権的な力を持たない。名作の名をほしいままにする小津、黒澤、成瀬の作品と『二等兵物語』が並ぶのは単に同じ時代を共にしたという理由だけではない。

そうはいっても、著者の批評が冴えるのは、やはり、小津の二作における原節子の仕種、身ぶりを論じた第二章「絆とそのうつろい」、さらには成瀬を論じた第六章「女が身をそむけるとき」においてだろう。黒澤の諸作その他も、時代固有のメンタリティをよく抽出しているとは思うものの、読みとられた「身ぶり」が傍役のものであったりするところに不満が残る。『二等兵物語』を「敗軍の兵を許す」という身体性の表出と見る分析にも教えられるところは多いが、「身ぶり」という観点では、伴淳、アチャコのそれは、原節子のそれに遠く及ばない。

成瀬の二作。著者はニュース映画を見る女たちが、多くの観衆が見入る画面に映し出される兵士の行軍や引き揚げ船の映像から目を背けるという一種異様な「身ぶり」に目をとめる。戦中のニュース映画には出征兵士が映っており、銃後の家族がこぞって映画館に押し寄せたという。しかし、実は画中の人物の殆どは戦死の運命下にあった。1941年の映画でそれが予見されていたと筆者は読み解く。『浮雲』の場合。高峰秀子演じるヒロインは、敗戦後、復興しようとする日本に背を向け続ける。季節は変わるはずであるのに、高峰秀子は常に寒そうな身ぶりをしている。敗戦後掌を返すように、したたかに戦後社会を生きることのできなかった人々の心性がそこに露出している。

『晩春』における原節子の正座が「日本的なもの」の絆のきつさが強まるときに現われるという指摘はなるほどとうなづかされる。また、あの有名な「壷」のシーンに関連して、原節子の頭部が画面上から消えるカットが何度もあり、それは父親の結婚相手について言及されるときに起こる、という。普段は椅子に座り、畳の上では足を崩す快活な原が、家族のしがらみのなかで、次第次第に手も足も出なく(正座)なり、彼女らしさ(頭部)を喪失してゆく様を身ぶりに見出す、この読解は注目に値する。

『麦秋』について著者はこう言い切る。<『麦秋』において空を見上げる身振りは死者を召喚する機能を持つ>と。死んだ二男を想起する場面で人々は常に上を振り仰ぐ。戦地から帰らぬ家族を待つ人々にとってほぼ確定している死を口に出せない分、身ぶりの果たす役割は大きかったであろう。咀嚼するには堅いが、味のある文章で綴られた映画批評である。

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2015/02/12 11:55

投稿元:ブクログ

「身ぶり」という、それ自体は曖昧な多義性を持つものを、意識的、無意識的を問わず、ある時代に固有の精神や経験を具現するものと読むことで、講和条約発効前後に発表された日本映画を分析したもの。テマティスム批評の流れを汲む映画批評である。

採りあげる作品は、黒澤明の『虎の尾を踏む男達』、『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』、小津安二郎の『晩春』と『麦秋』、谷口千吉の『赤線地帯』、松竹映画『二等兵物語』シリーズ初期作品、成瀬巳喜男の『なつかしの顔』と『浮雲』他(付録として米映画一本を含む)である。

映画批評にもいろいろなスタイルがあるが、役者や監督という人間が表現しようとした意図の成就如何に着目するのではなく、画面上に映し出される映像を何かを意味するものの集合としてとらえることで、そこに意味されているものを読みとっていこうとするのが、テマティスム映画批評というものである。そういう目で見られたとき、美しい映画女優は単なるオブジェに等しく、黒澤、小津といった世界的監督さえも特権的な力を持たない。名作の名をほしいままにする小津、黒澤、成瀬の作品と『二等兵物語』が並ぶのは単に同じ時代を共にしたという理由だけではない。

そうはいっても、著者の批評が冴えるのは、やはり、小津の二作における原節子の仕種、身ぶりを論じた第二章「絆とそのうつろい」、さらには成瀬を論じた第六章「女が身をそむけるとき」においてだろう。黒澤の諸作その他も、時代固有のメンタリティをよく抽出しているとは思うものの、読みとられた「身ぶり」が傍役のものであったりするところに不満が残る。『二等兵物語』を「敗軍の兵を許す」という身体性の表出と見る分析にも教えられるところは多いが、「身ぶり」という観点では、伴淳、アチャコのそれは、原節子のそれに遠く及ばない。

成瀬の二作。著者はニュース映画を見る女たちが、多くの観衆が見入る画面に映し出される兵士の行軍や引き揚げ船の映像から目を背けるという一種異様な「身ぶり」に目をとめる。戦中のニュース映画には出征兵士が映っており、銃後の家族がこぞって映画館に押し寄せたという。しかし、実は画中の人物の殆どは戦死の運命下にあった。1941年の映画でそれが予見されていたと筆者は読み解く。『浮雲』の場合。高峰秀子演じるヒロインは、敗戦後、復興しようとする日本に背を向け続ける。季節は変わるはずであるのに、高峰秀子は常に寒そうな身ぶりをしている。敗戦後掌を返すように、したたかに戦後社会を生きることのできなかった人々の心性がそこに露出している。

『晩春』における原節子の正座が「日本的なもの」の絆のきつさが強まるときに現われるという指摘はなるほどとうなづかされる。また、あの有名な「壷」のシーンに関連して、原節子の頭部が画面上から消えるカットが何度もあり、それは父親の結婚相手について言及されるときに起こる、という。普段は椅子に座り、畳の上では足を崩す快活な原が、家族のしがらみのなかで、次第次第に手も足も出なく(正座)なり、彼女らしさ(頭部)を喪失してゆく様を身ぶりに見出す、この読解は注目に値する。

『麦秋』��ついて著者はこう言い切る。<『麦秋』において空を見上げる身振りは死者を召喚する機能を持つ>と。死んだ二男を想起する場面で人々は常に上を振り仰ぐ。戦地から帰らぬ家族を待つ人々にとってほぼ確定している死を口に出せない分、身ぶりの果たす役割は大きかったであろう。最後に、咀嚼するには堅いが味のある独特の文体を紹介するために、もう一箇所引用しておこう。原が結婚を決意する契機となった戦地からの二男の手紙に添えられていた麦の穂にふれた部分である。

<『麦秋』とは、ほとんど誰も記憶にとどめることがないであろう一匹の犬の波打ち際の彷徨で始まり、ひとりの死者の記憶を解き放とうと決意した若い女性の毅然とした行動を描き、その記憶をぎこちなく呑み込もうとする老人たちの目の前で、死者の形見と同種の植物が海のように立ち噪(さわ)ぐ光景で終わる物語なのだ。救われるべき「無数」の記憶は残されている。>

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