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教室での「キャラ」、芸人の「キャラ」、マンガ、アニメ、ライトノベルの「キャラ」、サンリオや村上隆のつくる「キャラ」、それらをすべて統一して語る、「キャラ」の統一理論。欧米のキャラと日本のキャラの違いとか、いろいろと面白い考察がある。中には、あまり、知らないキャラもいたりするが、なんとなく想像できるのでおもしろかった。
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かわいい表紙とは裏腹にかなり骨太な本。スクールカーストからサブカルチャーまでそこで用いられるキャラ/キャラクター(この2つは別個のものとして語られる、どうやらこの界隈では常識らしい)を精神医学や記号学などで細かく分析していく。……残念なことに、私の浅学ゆえ半分くらいしか頭に入らなかったが。修行を積んで再読しよう……。
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ジャケ買いした本。
「あなたって○○キャラよね~」とか人をキャラ化するということに関して前半では書かれていてとても面白かった。
○○キャラと言われると、ついついそのキャラをさらに濃く演じてしまうような気がする。
私は自分で特にそのような傾向が強い気がしている。
特に学生のころは誰でもキャラを割り振られているような感覚になる。
不良系やら、地味系やら、それもキャラで配属されているのだと思う。
なかなか文章にできるほどこの本を理解できていないが、そのように感じている。
程よい難しさで充実した読書だった。
それにしてもあまり理解できなかったのでとりあえず星3つ。
悪くはない。
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んー。読みづらい。読者の方の落ち度としては、ラカンの思想を押さえてなかったり、著者の別著を読んでなかったりすることかな。それ差し引いても概念や事例を知っている前提で話が進むので、初学者向けの本ではないだろう。
部分部分面白いとこも沢山あると思う。キャラとは同一性を伝達するものであるという主張もまぁわかる。けど部分部分読みづらいんだよなぁ。特に9章とかは素人目にもひどいと思う。「キャラ」と「キャラクター」がごちゃごちゃなんだよなぁ。これはどっちでもいいからなのかね。というか、キャラとキャラクターの関係性は正直よくわからんかったよ。別なものとして扱うのはわかったけど、その二つがどういう関係性なのかよくわからん。
というかこの問題は結構根深いな。本のタイトルは「キャラクター精神分析」、はじめに には「キャラの本質について~考察し直そうという試み」とあって、最終章の章題は「キャラクターとは何か」で、「キャラクターの定義」に挑戦しているけど、「キャラとは~」 という形でこれまであげた例をまとめているし、キャラについて語っているように見える。うん、結局なんなんだ。読者が拘りすぎなのか。この本の最終的な結論としてはキャラとはキャラクターであるが、事例としてあげられているようにキャラとキャラクターは別個に考えることもできると、そういう感じか。なんだかなぁ。せっかく他の人の定義とか引っ張ってるのに平仄合わせないと意味なくないかなぁ。
とりあえず自分の理解が追い付かなかった面もあるけど、各論まぁまぁ、総論いまいちってのが総合的な感想かなぁ。
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表紙と中身のギャップにまず驚いた。
覚書
スクールカーストやコミュニケーション偏重主義について
自分探し系と引きこもり系
お互いのキャラの輪郭を確かめるようなやりとり
キャラとはコミュニケーションモードが凝集された擬似人格
日本人は自らキャラ化することで病理を免れているのではないか
キャラ文化独特の病理性
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『承認をめぐる病』よりもテーマが一貫してるというか寄せ集めではない分話も深かった。二次創作や小説?を書く上で少しは参考になるんではなかろうか。勉強になったというか、そうなのか〜〜!という感じ。キャラクターはキャラとは違うということ、人間は常にキャラの上位に存在しているということ、勇気?みたいなものをもらえる文もたくさんある。わからなくてすーっと読んでしまって部分もあったけど、読んでよかったと思う。
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精神科医 斎藤環氏によるキャラクター論です。学校やTVの中などの現実世界とマンガ、アニメやアートなどの創作における「キャラ」を比較検討し、キャラの定義を「同一性を伝達するもの」としています。まだまだ荒削りな部分も感じられるので、多数の方によるさらなる考察が望まれます。本書の中では「キャラクター」「キャラ」を明確に分けており、その上で「キャラ」について論じているので、本当であれば「キャラ精神分析」になるのかなと思いながら読みました。
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キャラについて記述している。オタク周辺の記述が興味深いが理解できないことも多い。インパクトのある表紙は村上隆主宰のkaikaikiki。
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膨大な数のキャラが登場する作品「ガールズ&パンツァー」について再考するために読みました。
僕がこの本の中で「面白い!」と思ったことが点あります。
まず1点目に、「キャラ立ち」というのは「換喩的に際立った特徴を持つこと」だとする主張はかなり面白く感じました。
詳しく説明します。
換喩(かんゆ)とは、「表現したいことばを使うかわりに、その表現したいことばの近くにあることばを、代わりにつかうレトリック」のことです。
例えば、換喩の一つとして「白バイが追ってくる」というものがあります。
これは実際に「白バイ」に追われているわけではなくて、「白バイに乗った警官」を近い言葉の「白バイ」で例えています。
また、映画『シンゴジラ』では「霞ヶ関のはぐれもの」という表現がありますが、これは実際に「霞ヶ関」という土地で迫害されてるのではなくて、「官僚界」で肩身が狭いということを「霞ヶ関」という言葉で表しています。
また、「北朝鮮の黒電話」というのは、実際に北朝鮮にある「黒電話」を表しているのではなく、黒電話の様な形の髪型をした金正恩(キムジョンウン)のことを指します。
このように、「表現したいことばを使うかわりに、その表現したいことばの近くにあることばを、代わりにつかうレトリック」が換喩(かんゆ)です。
どういう基準をもってことばとことばが「近い」といえるのかが非常に難しいため、換喩はかなりわかりづらい概念になっています。
そして、この本によれば、「キャラ立ち」は、キャラが換喩的に考えやすい状態になっていることをいいます。
例えば「麦わら」で換喩した表現から、僕たちは『ワンピース』のルフィをすぐに思い浮かべることができます。
また、僕たちはやけにトゲトゲした髪型をみれば、それがアトムの髪型であるということがわかります。
「キャラが立つ」ことについて僕は「キャラが見た人に強い印象を抱かせること」とふんわりと考えていたため、斎藤環のこの考えは僕のふんわりとした気持ちを表してくれたようなきがします。
そしてここからは僕の考えなのですが、日本のサブカルチャー空間におけるキャラは、「キャラ立ち」を起こすために換喩的であること、つまりあるキャラの特徴的な部分がそのキャラ自体を想起させること、が要求されたために「メガネ」や「メイド」といった萌え要素が発展していったのだと思います。
2点目に面白いと思ったのは、キャラのリアリティを担保するのが、キャラを受容する人たちのコミュニケーションであるという主張です。
僕はこの「キャラを通じたコミュニケーションがリアリティを作り出す」という主張を聞いて、真っ先に『ゆるキャン△』という作品を思い浮かべました。
『ゆるキャン△』は、山梨や静岡を舞台にアウトドア好きの女子高生が
TVアニメ『ゆるキャン△』「」
この本について、どうしてもいっておかなければならない欠陥があります。
それは、東浩紀やセカイ系、村上隆、伊藤剛、マンガ・アニメ的リアリズム…この本を読むにあたって前提となるサブカルチャー関連の知識がかなり多い、そして登場す��それらの用語が本文中であまり丁寧に説明されないということです。この本の最後で、著者は「この本に触発された若い世代の批評を期待したい(意訳)」といっていますが、それならばもっとわかりやすく書いてくれてもよかったんじゃないだろうかと思ってしまいます。
より噛み砕いていえば、この本に書かれている内容がサブカルチャー批評、ないしラカン好きの中での「内輪ネタ」でしかなくなっているのがきついということです。キャラの概念について、「ラカンがああいってたけどウケるよね」「東浩紀がああいってたけどウケるよね」みたいな調子でずっと続くため、読むのが非常につらかったです。
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第1章 「キャラ」化する若者たち
第2章 「キャラ」の精神医学
第3章 「キャラ」の記号論
第4章 漫画におけるキャラクター論
第5章 小説におけるキャラクター論
第6章 アートとキャラの関係性について
第7章 キャラの生成力
第8章 キャラ“萌え”の審級―キャラクターとセクシュアリティ
第9章 虚構としてのキャラクター論
第10章 キャラクターとは何か