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2017/02/10 13:32

投稿元:ブクログ

▶高文研のページより
「ビルマルート」を遮断するため、1942年5月、日本軍は中国雲南省西部の軍事拠点・拉孟(らもう)に陣地を築き、1300人の守備隊を配備した。しかし100日にわたる死闘の末、拉孟守備隊は全滅した。その拉孟全滅戦の実相が、奇跡的に生き残った将兵の証言により明らかにされる。

1941年12月8日のハワイ真珠湾とマレー半島への奇襲攻撃から半年たらずで、日本軍はマレー半島を席巻してシンガポールを、次いでスマトラ、ジャワ島、あわせてフィリピンを占領、翌42年5月にはビルマ(現ミャンマー)全土を制覇した。

 一方で、蒋介石の率いる中国国民政府は、日本軍により首都・南京を追われ、奥地の重慶に本拠を移した。その国民政府を支援するため、米英両国は「援蒋(えんしょう)ルート」を通じて軍需物資を送った。その最大のルートが、ビルマのラングーン(現ヤンゴン)から北上して中部マンダレー、ラシオを通り、中国国境を越えて雲南省に入り、昆こんめい明に至る「ビルマルート」であった。

 その「ビルマルート」を遮断するため、四二年5月、日本軍は中国雲南省西部の軍事拠点・拉孟(らもう)に陣地を築き、1300人の守備隊を配備した。しかしほどなく太平洋戦線での米軍の反攻が開始され、日本軍は後退を余儀なくされる。
 そうしたなか、44年6月、米中連合軍は新たな「ビルマルート」の奪回作戦を開始、中国軍4万人が拉孟陣地を包囲する。100日にわたる死闘の末、9月7日、拉孟守備隊は全滅した。その拉孟全滅戦の実相が、奇跡的に生き残った将兵の証言により、ここに初めて明らかにされる。

 本書は、その将兵と“奇縁”によって結ばれた戦後世代の女性研究者による記録である。

【編集者より】

この本の特徴は大きく分けて2つあります。
一つ目は、戦記であり、アジア太平洋戦争におけるビルマ・雲南戦線について、生存者の聞き取り、連合軍側の資料を探索してつき合わせた研究書です。
二つ目は、著者のユニークな経歴です。著者は日本女子大学在学中に日本航空の客室乗務員の入社試験(倍率は60倍!)を受けて合格、1982~88年、国内外の空を飛び回りました。

著者が在籍した当時の日航は、日本政府が大株主の半官半民の航空会社であり、職場環境や人間関係を悪化させる「暗黒の労務政策」が吹き荒れていましたた。著者は、入社2年目で労使協調路線の全労組合(第二組合)を脱退して客乗組合(第一組合)に移ったことで、経営側の逆鱗に触れ、徹底的な差別・虐めを受けました。そして、85年、日本航空は航空史上最悪の御巣鷹山ジャンボ機墜落事故を引き起こします。著者は御用組合優遇の労務政策をとり続ける日航に見切りをつけ、資本主義の本家本元のイギリスの、19世紀における労働運動史を研究すべく、日本女子大学に戻りました。
この経験が、その後の「拉孟全滅戦」の研究の支えとなりました。

本書は、さまざまな人との出会いに支えられながら、粘り強く、研究の道のりを歩き続けてきた女性研究者の執念の記録として、多くの読者に読んでいただきたいと思っています。
(真鍋)
▶書評空間
早瀬晋三/早稲田大学大学院アジア太平洋研究科
「戦場体験」を記録したもので、もっとも資料価値が高いのは、戦場で書いたものである。だが、全滅した部隊では、そのような記録は、まず期待できない。わずかな生存者が戦場でのメモをもとに、時間をおかずに捕虜収容所などで書いたものなどが、つぎに期待できるものである。その後は、時間が経つにつれて資料的価値は下がっていく。「戦場体験」を記録しようとする者は、できるだけ正確に書こうと、戦友を探し、情報を集める。そして、1970年前後に防衛研修所戦史室から戦史叢書が出版されると、「公刊戦史」として貪るように読んで参考にする。たとえ誤りがあっても、偏った記述であっても、頼らざるを得ない。このように学習した成果としての「戦記もの」は、書いた本人が満足しても、歴史研究者としては資料的価値が低いといわざるを得ない。ましてや、「戦場体験」をしていない者が聞き書きしたものは、もはや「原資料」とはよべなくなる。敗戦後70年が経ち、「戦場体験」の意味がまったく違ったものになろうとしている現在、著者、遠藤美幸は、どのように「戦場体験」を受け継ごうとしているのだろうか。

 本書では、「公刊戦史」を参考にした記述が頻出するが、アメリカ公文書館やイギリス公文書館の資料に加えて、中国側の聞き取り資料も出てくる。そのなかには、日本軍に殺害された家族の戦後の暮らしが描かれたものもある。これら複数の側からの資料をつきあわせ、検討することによって、新たな戦場観と戦後を含めた戦史を描くことができるようになる。体験者本人が、わからなかったことや気づかなかった「真実」に、迫ることができることもある。

 このブログで前回取りあげた『シンガポール戦跡ガイド』の著者、小西誠が「大虐殺の実行責任者」と書いた辻政信も、本書では違ったイメージででてくる。たとえば、ひとつは有能な参謀として、つぎのように描かれている。「戦争は起きてしまったら、参謀どころか軍司令官さえも止めることが難しいのだ。戦争という暴走車は一度走り出したら、ブレーキが効かず、決着がつくまでは止めることができない。「断作戦」を立案し指揮した辻や黍野[弘]ら軍上層部の参謀でさえも、無謀で勝算のない作戦であることを認識しつつも全滅を回避できなかった。その代償はあまりに大きかった」。

 もうひとつは、戦後の日本社会のなかで「戦前・戦中の旧日本軍上層部の金と人脈が連綿と息づいている」例として、辻と児玉誉士夫、岸信介、鳩山一郎らとの関係が描かれている。そこには、「全滅戦」に関与したことなど、まったく感じさせない戦後がある。

 それどころか、辻が自著『十五対一』(酣火社、1950年)で「美談」を捏造したことを、つぎのように紹介している。「「日本人慰安婦は晴着の和服に最後のお化粧をして青酸カリをあおり、数十名一団となって散り、朝鮮娘五名だけが生存」(一二九頁)と書いているが、実態は、彼女らは死に化粧もしていないし晴着も着ていなかった。死因も青酸カリではなかった。さらに、日本人「慰安婦」の詳細がわからないだけに、死亡した二人が日本人かどうかも不明である。つまり、青酸カリをあおり、朝鮮人「慰安婦」を逃がして、大和撫子は兵士と���もに死を選んだというのは、辻の捏造した「美談」であり、事実とは異なる」。

 このような事実とは異なる「戦場体験」を含め、どう後世に伝えていくか。本書のような一般書ではなく、学問的にどのようなかたちで残していくのか、大きな課題を著者は背負っているように感じた。

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