紙の本
民主主義を考える
2017/08/09 18:07
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投稿者:tyokoya - この投稿者のレビュー一覧を見る
民主主義の本質と価値は1929年、民主主義の擁護は1932年に書かれた。第2次大戦前の民主主義が揺らいだ時代に書かれた文章である。民主主義の意味を世界に説く使命を帯びている。力強く、簡潔で、明瞭だ。
現在、世界の各地で民主主義をないがしろにする考えが評価を得ているようだ。より良い将来になるよう活動をしているが、そのバックボーンになりうる名著だ。多くの人に読んでもらって目覚めて新たな道を開発する力にして欲しい。特に若い人に読んでもらいたい。
民主主義を標榜する政治に携わる人は読まないといけない。これを読まずに民主主義者の顔をするのはやめてもらいたい。大いに反省をしてもらいたい。強行採決、説明の省略、嘘、隠蔽…。何をしているのだろう。この本を読むとこれらの罪の深さがわかる。
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初心者にもいい
2018/06/22 18:54
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投稿者:ポージー - この投稿者のレビュー一覧を見る
1920年頃の刊行で、きっと当時の先端の議論がなされているのだろうが、簡潔でわかりやすい。
だらだらした前置きなどなくストレートに根底的な問題についての著者の考えが示されている。
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日本におけるケルゼン研究の第一人者による新訳。表題の「民主主義の本質と価値」に加えて、「民主主義の擁護」という小論が訳出されている。ケルゼンの主張の骨子は、人間は本性的に自由を求めるものだというルソーを思わせる命題から出発しつつ、直接民主政の不可能性を指摘したうえで、議会制民主主義を擁護するというもの。しかし、シィエス流の議会主権論とは異なり、レファレンダムやイニシアティヴを議会制の補完政策として提言するなど、議会制のもとで可能な限り一般意志と全体意志の接合を具体化することを目標としている。そのため、ソ連については好意的な記述も見られるものの批判的であり、ファシズムも当然批判されている。加えて、「民主主義の本質と価値」では職能代表制に対する批判に紙幅が割かれているが、これについては村上淳一『ドイツ市民法史』などを参照するとよりケルゼンの標的を具体的にイメージできるだろう。民主主義は真理への到達不可能性(相対主義)を前提とするという最後のテーゼは、認識に捧げられた彼の「純粋法学」との関連でもまた興味深い。その一方でこれは、ケルゼンが戦間期や戦後の法学において嫌われてきたわけを窺わせるテーゼである。今回新たに収録されている「民主主義の擁護」は、ナチズムが席巻しつつあるなかですら、民主主義は反民主主義的政治信念も受け入れるものであり、多数者が独裁を選択するのであれば、民主主義者は自由の理念と一緒に沈没していくのである、という相対主義テーゼをケルゼンが一貫して擁護したことを如実に示している。
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第2次大戦前に書かれた法学書ながら、これは掘り出し物の良著だった。
「民主主義」と「自由」「国家/国民」という、実際の経験上、なかなかすっきりと概念配置ができない問題に関して、ケルゼンは鋭い分析をしている。
「自由」は国家の統治とはほとんどの場合折り合いの悪い問題系だが、ケルゼンによると民主主義においてはこの「自由」概念が変容し、個人の自由というテーマは「国家の自由」にすり替えられるという。
もちろんそうすると、集団内諸個人が共有する「一般意志」が問題になってくる。代議制・多数決の手法によって、統計学的には個人の政治的意志が国家に委ねられるのかというと、実際にはそこには亀裂があるといつも感じている。
そもそも、私は「国民」なのか?「国民」という概念はあまりにも濫用されると、個人を圧殺するのではないか?
こうした私の日頃の疑問に、この本は答えてくれた。
「複数の人間が、この『国民』(概念)において統一体を形成することが、民主主義の基本前提であるように見える。」(P30)
しかし、
「国民は、民族的・宗教的・経済的対立によって引き裂かれており、社会学的には、均質の固形凝集体であるというよりも諸集団の束である。」(同)
そこでケルゼンは(統一体としての)「国民」概念を、「国家法秩序の統一性」という面のみに、いちじるしく狭く限定する。
「『国民』とはそのような統一体であって、素朴な観念が誤解しているような人々の総体・寄せ集めではなく、国家法秩序の規律対象となる個々の人間行為の体系に他ならない。
・・・
国家秩序が把握するのは、個人生活の特定の側面にすぎない。人間生活の相当部分は、国家秩序の外に在り、必然的に国家から自由な領域を留保されている。」(同)
したがって、「諸個人の多様な行為を国家法秩序によって統一化したにすぎないものを、『民衆の総体』としての『国民』であると賞するのは擬制」なのである。
先日読んだウィトゲンシュタインふうに考えても、「国家」「国民」などという、そもそもの実体が判然としない抽象語に関しては、それを語る文脈においてその内容も曖昧に変容する。最初に明示的な「意味内容」があるのではなく、最初にディスクールがあるのである。「意味」ではなく「文法」である。
国家だの国民だのと言う観念ごときに包含されうるほど、「人間」は単純なものではないと私は考える。個人はそれ自身が多様性をもち多義的な存在であって、それが何万人も集まればその多様性は爆発的なものにならなければおかしい。
にも関わらず、ことに最近の日本では「国家」をふりかざす論者が増殖し、あたかも鉄壁の統一体であるかのように「国民」が語られる。そこからはみ出した者は「非国民」であり「売国奴」とされてしまう。あげくのはてには、ISILに人質としてつかまったジャーナリスト後藤健二さんに対し「自己責任」だのと突き放すばかりか、「(国にとって)迷惑だ」とか「自決して欲しい」などという言表がまかりとおる有様だ。
明らかに、日本はいま、「国家」や「国民」の概念が熱狂的に強調されすぎて、「人間」が見失われようとしている時代にあ��のだ。
ケルゼンが教えてくれるのは、「国民」という概念はそうそう拡張されるべきものではなく、一定の(法秩序という)観点に立った場合に「のみ」語られうるという、純粋論理的な思考である。
特に「国民」概念に関して、この本は私の最近の戸惑いをすっきりさせてくれた。議会、行政、多数決原理など、本書にはもっとたくさんのことが語られており、そのすべてに同意することはできないかもしれないが、政治について考える上で、この本を読んでおくことはとても有意義だと思う。
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2015年2月20日、図書館から借り出し。随分昔の岩波文庫で読んだが、改訳版ということで再読。2月24日、読了。以前の岩波文庫の記憶を完全に失くしていたので、初めて読んだ気分で受け止めてみると、随分時代的制約が入っている気分がする。しかし、国法学者として、1929年時点で「政党」の意義をここまで強く意識して書いているのには驚いた。日本の憲法教科書で、政党の章を立てて論じるようになったのは70年代に入ってからではなかったか。むしろ付録的に付けられた「民主主義の擁護」(1932年)にケルゼンの危機感があふれている。1932年といえばナチスが第1党になった年であり、多くのドイツ人が右傾化の波に乗ってナショナリズムに毒されていったときになる。敢えてナチスに抗した文章を書いたケルゼンも、ユダヤ人ということからスイスを経てアメリカにいくのだが、訳者長尾氏があとがきに書いた、バークレーの大学人がケルゼンの業績を知らず講師に留め置いていたというのは、アメリカの学問的閉鎖性を伺わせる。
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読み直したさ:★★★
・全員一致で成立し,多数決によって存続していることは,「自由」の意味が変遷したことを意味する。
・多数決原理は平等によって導かれるのではなく,「万人が自由ではあり得ないとすれば,可能な限り多数の者が自由であるべきだ」,「可能な限りの少数者が,その者の個人意志と社会秩序の一般意志との相克に陥らないようにすべきだ」という前提から導かれる。p.23
・自由概念が「国家の支配からの個人の自由」から「個人の国家支配への参与」と変遷すると,自由主義〔国家秩序がそれを創造する個人をどこまで支配するか,どこまで個人の自由に介入するかの問題〕と民主主義〔国家秩序への服従者たちが国家秩序創造に参与する度合い〕とは別問題となる。
・法令違憲においても,付随的違憲審査権のもとで判断がされるが,あくまで立法事実のみが考慮されることからすると,少数者の人権を考えているのかもしれない。
これら少数者の人権を保護することで,むしろ「団体意志形成における全員一致への方向」をさらに推し進めることができる。p.75
・民主主義に関して論じるときは,大抵あれ,あの相互的了解のための前提として,ある程度の社会の文化的同質性,特に言語の共通性が共有されているのだろうなあ。p.86–87
他にも色々あるけど読書メモを読み直すこと。
〈感想〉
民主主義とは何か。イデオロギーとしてではなく,現実の。この分析手法はデューイとかなり近い。
一文一文が明晰であり,論理明快,また読み直したい。
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民主主義について考えさせられることが多い最近の政治状況。安保法案が参議院本会議で可決された日に読了。
第1章は、「自由」の概念の変遷について。
①自由とは、本来は、「他律の苦痛に対する抗議」「社会的拘束の否定」(自然的自由)といったものであった。
②自由と同時に平等を求めるならば、支配を受け入れなけらばならないことがやがて明らかになり、自由とは「社会的拘束の一形態」「人間相互間の行動を拘束する秩序」(社会的・政治的自由)へと変質した。
このあたりの議論はアーレントが「解放Liberation」と「自由Freedom」を峻別したことを彷彿させる。
③さらに、個人の意志と国家秩序との間に相克が生ずるのは不可避であることが明らかとなり、個人の自由に代わって、社会集団の自由(国家の自由)が前景に現れる。支配の主体としての“国家”は、民主的感性にとって耐えがたい「人間の人間に対する支配」という現実を隠蔽するのにも役立った。
④最終的に個人の自由は、国民の主権に取って代わられる。原始的・自然的な自由は意味を失い、個人は自由国家の“国民”としてのみ、自由を取り戻す。
民主主義はこうして、「自由」の概念の変遷とともに生み出されたのだった。
最近の政治状況から特に興味を引いたのは、第6章「多数決原理」。
【多数決原理】とは、ケルゼンによれば「政治的対立の “妥協” の原理」。つまり、多数派と少数派が互いに “折れ合う” ということ。この考え方によれば、すべての議案(法案)提出者は、修正協議を前提としなければならない。
もう一方の【多数派支配】は、多数派が数の力に物を言わせて自分たちの主張・政策を強引に押し通すこと。ケルゼンより2世代前に『自由論』を著したJSミルも、これを「多数者の専制」と呼んで強く批判していた。
第7章。ケルゼンは、民主主義を統制する制度(行政裁判、憲法)の重要性についても述べている。
“この憲法裁判所の役割は、民主主義にとって極めて重要である。なぜなら、立法過程において憲法を擁護することは、少数派にとって格別重要な利益だからである。”
“統制のない民主主義は、長期にわたって存続することが不可能である。この合法性という自己制限が失われるとすれば、民主主義は自己解体するだろう。”(p98)
ケルゼンが民主主義を擁護する根拠は、価値相対主義だという。
“仮に「絶対的真理の認識、絶対的価値の洞察が可能である」という前提から出発するならば、事態は民主主義にとって絶望的だと言わざるを得ない。なぜなら、万人に超絶する絶対善の権威に対し、その救済対象である者にとって、服従以外の態度があり得るだろうか。”(p127)
「絶対的真理」を認識できない(=正しい判断を下せない)人間に、民主主義なんて可能なのか?
“民主主義がその正当化の希望を失うかのようにみえるまさにこの地点から、民主主義の擁護は出発するのである。”(p128)
“相対的真理・相対的価値のみが人間的認識にとって到達可能なものであり、それゆえにすべ���の真理、すべての価値、そしてそれを見出すすべての人間は、常に身を退いて他者に場所を譲る用意をしていなければならない”(p128)
『民主主義の擁護』最後の数行は力強く、感動的だ。
“民主主義者はこの不吉な矛盾に身を委ね、民主主義救済のための独裁などを求めるべきではない。船が沈没しても、なおその旗への忠誠を保つべきである。「自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがていっそうの強い情熱をもって再生するであろう」という希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈みゆくのである。”(p171)
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学生時代から岩波文庫の西島芳二訳に親しんできたが、一度改訳したとはいえ初訳昭和7年という訳文の「生硬」さは蔽い難かった。そのため、この度ケルゼンやシュミットの研究で名高い法哲学者長尾龍一と明治大学大学院植田俊一郎との共訳に改め、更に「民主主義の擁護」をも併録して上梓したものである。もともと長尾は別著で「民主制の本質と価値」と「民主制の擁護」を訳出しているが、今回は再度原著に当って訳文を再検討し、まさに「新訳」に相応しく読みやすい文章になっている。内容については今更蝶々する必要もないだろう。ワイマール共和国が終焉を迎えつつある時代に、相対主義的世界観に立脚する民主主義をいかに擁護するのか。苦悩するケルゼンと相見えることは、現代民主主義にとっても無意味ではあるまい。
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ワイマール期に書かれた民主主義賛歌の表題作と、ワイマール政治が崩壊した時期に呻き声のように書かれた『民主主義の擁護』の二篇からなる小冊。この組み合わせが何とも...
議論の前提とか考えたらそれだけで講義になるのですっ飛ばすとして、民主主義のそもそも論を考える一冊である。絶対的価値を否定し、議会制民主主義がもたらす妥協に価値を認めた。それを単に多数派批判のみならず、少数派批判にも使うのがいかにも相対主義らしい。
プラトン『国家』の民主主義=ポピュリズムという批判に感化された人こそ読むべき一冊かもしれない。
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ケルゼンの論考を読むのは初めてですが、民主制の本質を論じ、絶対的価値の想定に基づく独裁を批判するもので、共感しました。
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ケルゼンは、議会主義は民主主義の理念と現実の妥協の制度であるという。
民主主義では、治者と被治者の意思の一致を要求する。それは人間の本性である自由を、できるだけ自分以外に支配されないことようにする制度である。議会制では、人を規制するルールである法律は「国民の代理人」である議会においてのみ作られる。そして、国民はその意志を議会においてのみ議会を通じてのみ表明できるという。
しかし少し考えればわかるように、実際には現実上の必要性から多数決原理や間接制が採られ、その結果上述の「治者と被治者の一致」という理念は減殺されている。
ケルゼンの面白いところは、議会制の本質は代表制ではないとするところだ。議会制はあくまで代表制の擬制であり、実際は「国家秩序形成のための社会技術的手段」であるとする。すなわち、議会制は理想的な民主主義ではないかもしれないが、独裁制や職能議会といった他の機構よりはマシであるという。そして、議会制は(運用次第では)その理想を一番達成できるものであるとして議会制を擁護しする。
彼に言わせれば、議会制の本質は、現実的には多数派と少数派を包摂して社会的統合を図ることである。よって、真理の相対性を受け入れ、少数派の意見に耳を傾け、妥協によって政治を行う必要性があると主張する。
本著では議会制を積極的に擁護しきれておらず、隔靴掻痒の感があるが、それはケルゼン自身も自覚しているようだ。
論敵であったシュミットは議会制に失望して後にナチスに下ったが、ケルゼンは最後まで議会制にこだわり続けた。しかし、民主主義と議会制の関係に対する視点や、現実(当時)の議会への問題提起など、2人の主張はある部分まで似通っているように思える。読み比べてみると面白い。
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ケルゼン 「 民主主義の本質と価値 」
自由、国民、多数決原理 の章は 今まで あえて 見なかった部分を見せられた感じ。民主主義の正当性、不可避性、限界を理解した
自由
*社会による拘束の否定→その拘束の一形態へ 意味が変化
*政治的自由=自己の意志で 社会秩序に服従
多数決原理と自由
*多数決原理は 自由の理念であって 平等の理念ではない
*万人が自由であり得ないとするなら 可能なかぎり多数の者が自由であるべき
民主制と自由
*国家そのものが 支配主体〜人間による人間支配を隠す
*国民は一般意志によってのみ自由〜一般意志を拒否する者には国家意志を強制〜それは自由となるための強制
民主主義とは
*国民による国民の支配
*国民が団体意志を創造し、服従する国家形態、社会形態
*社会秩序を創造する一つの形式
多数決原理
*多数者の権利は 少数者の存在権を前提としている
*団体意志と個人意志の一致部分を大きくすることが 自由の価値の最大限の実現
*規範服従者を多数者と少数者に区分し 全体意志の形成に際して 妥協の可能性をつくる
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その昔、ゼミの先生から「ケルゼンは哲学が弱い」と言われた記憶あり。
読みもしないのに、横田喜三郎の『純粋法学』、清宮四郎の『一般原理』など購入して本棚に並べておりました。
鵜飼信成さんがケルゼンのハーバードでの講義を聴講されたとか、それも日米開戦でケルゼン手書きの講義案を贈られたそうな、ドラマですねぇ。
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アメリカ大統領選挙や大阪都構想住民投票など何かと分断が話題になるが、今一度民主主義というものを根本から考えてみるために読んでみるのが良い。
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ワイマールドイツの法学者。議会制民主主義を擁護し、カール・シュミットらを批判する。「現代議会主義の精神史的状況」と合わせて読みたい。
①②自由(ルソー社会契約論を引用)/国民(創造の共同体など?)
支配からの自由(無政府的)が人間の根源的欲求ではあるが、社会秩序形成においては現実的でなく、万人一致の集団的自律へと変遷する。ただそれも現実的でなく、可能な限り多くの人の自由を尊重する多数決(=民主制)が正当化される。擬制である国民は社会集団を統合する束である。すなわち現実問題として国民は実際には政党・職能集団に分化し、自由の範囲も有権者の枠内にまで縮小されている。
③④⑤議会
自由という民主制の要請と分業原理の妥協。合議制は進んだ社会では必須のもので、国民意志そのものではないが、社会技術的手段として正当化されるべきと述べている。改革としては国民投票、免責特権廃止、議員無答責廃止(国民からの疎遠性)、職能議会((専門知識)→筆者は議会の下位互換と一蹴)がある。
⑥多数決原理
国民意志を議会に反映し、多数派と少数派で分けるこの原理は平和的妥協を導く。社会意志形成において共通基盤のもと相互了解のもとで決定に服従する(法の支配)のは漸進的ではあるがマルクス主義と異なり利害調整できる。比例代表制が望ましい。
⑦民主主義的な立法を行政の枝葉末節に行き渡らせるには、執行部分は民主主義的になってはならない。そのため官僚制という合理的組織は民主主義とセットなのだという。
⑧統治者の選択
民主制は統治者の不在だからこそ、統治者の選定が鍵となる。権力分立の傾向もある(米国=民主皇帝制)が、それはとどのつまり統治者を複数選んでいるということである。そこでは専制国と違って統治者の責任や交替が存在し、広い基盤において選定を進めるということだ。そのためには教育が必要だが、プロレタリアはその準備ができてないので成功しないだろうといっている。
「被治者の団体から複数の統治者を選ぶ独自の方法」
⑨形式的民主主義と社会的民主主義
社会主義において本来は民主主義によって(圧倒的多数の労働者の支持を得て)経済平等が実現するはずなのに理論が破綻したという現実において、独裁制を指向する。
⑩民主主義と世界観
民主主義は国家形式を決めるもので中身を決めるものではない。民主主義を正当化する根拠に「国民が絶対的な真善美がわかるから」というものがあるが、それは絶対的権威が存在することを前提としているからで、政治的相対主義に立った上で粘り強く妥協していくことが求められていると語る。
民主主義の擁護
絶対的価値観を持つプロレタリアとブルジョアに攻撃されながら民主主義は没落を始めるが、その自殺行為を容認する悲痛な文章。
前提知識が圧倒的に足りてなかったので苦労した。特に前半はルソーが分かっていればよかったと思う。議会制民主主義者の肯定側の主張なので反対派を読まないと何とも言えないが、民衆が本当に自由を求めているのか、国家において国民としての一体感がないところ(対話不能)はどうなるのか、一般的に民主主義と立憲主義は対立するものだが、民主主義の中に少数者保護が内在しているという考え方だと憲法の捉え方も変わってくるのか、など疑問はつきない。一通り勉強した後に再度読むと文脈が理解できそう