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保田輿重郎は後鳥羽院を上代から万葉へと溶け込んだ「丈夫ぶり」と、万葉末期の宮廷サロンを中心に発生した相聞歌という和歌の二つの流れを総合し、集大成した大詩人とみるのだが、保田の院への傾倒は、そのこと以上に、日本文藝の伝統を保持し、後世に伝えようとした院の生きざまへの共感であるように思う。保田は院の「承久の決意」を政道の上に於てのみならず、或いはそれ以上に、藝能一般の精神文化に於ける復古變革の大事業と捉える。だからこそ保田はそれを「偉大な敗北」であると言う。院の「志」は隠遁詩人の系譜に受け継がれ、芭蕉をして「(院の)御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ (柴門の辞)」と言わしめた。保田はそこに滔々と流れる日本文藝の「血脈」を発見したと信じた。
政治的には悲劇的な末路を余儀なくされた英雄詩人という院の境涯は、処女評論集『英雄と詩人』以来保田が抱き続けてきたモチーフとも符号する。丸谷才一は名著『 後鳥羽院 (ちくま学芸文庫) 』の中で、院がむしろ遠流を望んでいたのではないかという大胆な推論をしているが、このことを保田の「没落への情熱」と考え合わせる時、二人に共通する精神性と、それと表裏をなす非政治性が浮かび上がってくる。だがそれは文藝という非政治的な営みが、その無限遠点において政治と交錯し得るという「祈り」であるはずだ。現実から遊離した文人の観念論に過ぎぬと言われるかも知れないが、それを簡単に否定し去る気にはなれない。