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2006/12/20読了
明治から戦前にかけて存在した三大貧民窟と呼ばれた地域をはじめとする東京のスラム街の人々の暮らしや、公娼街、私娼街、そして紡績工場で働いていた女性たちの実態を、当時の文献など膨大な資料をもとに概観してみせる。
そこで明らかになるのは、永井荷風が「墨東綺譚」で描いた玉の井の叙情や「日和下駄」で言及した貧民街のガラス越し的なの描写とは程遠い悲惨な実態だ。引用されている明治期の果敢なジャーナリストたちの潜入ルポからは、視覚的な悲惨さに増して、嗅覚、触覚、味覚的な悲惨さが伝わってくる。
目からウロコだったのが、スラム街の立地が軍隊のそばに多かったということ。その理由は大量の残飯が出るから。「質のよい残飯」が争って買い求められていたという事実。それすら買えずに、下水の出口に網を張って残飯をあさっていた人たち・・・
そんな人々が東京に何十万人も暮らしていたのだ。
そして、大半の人々は好き好んでこれらの境遇におちいったわけではなく、急速な近代化とそれに追いついていけない、あるいは意図的に追いつこうとしない世間の意識、政府の福祉政策の歪みが背景にあるということもよくわかる。
現在の福祉政策や貧困の問題、「格差社会」を考える上でも示唆に富んだ一冊であるように思う。
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明治から戦前の昭和初期まで、スラム街などで暮らさざる得なかった人々の実態を伝える良書。つい「最近」まで、日本はこんな状態にあったのか、と驚き、また哀しく・せつなくなります。
この本、スラム街に住んだ人々や、公娼・私娼や女工となった女性らの暮らした世界を膨大な資料から描いています。描かれる暮らしぶりは、あまりにも悲惨で人々が、その環境下で生きていられたというのが信じられないほどです。
知らない日本がこの本の中にはあります。
ただ、この本にあることは単なる「昔話」ではないと思います。この貧富の差が激しかった時代は、「格差社会」などと言われる現代と共鳴しています。
読むことで「今」を知ることにもなるかと思います。
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『ぼっけえ、きょうてえ』を読んだ後に読んだので、淡々と読めたけれど、凄まじいの一言。東京もこんなだったのか、と感じると同時に、現代社会でも一部「ネットカフェ難民」や派遣労働者問題があるように、この時代に戻りつつあるのかも?格差社会もどんどん進行したらいつかは戻る。ゾクッとしました。
残飯にもランクがあること、近親相姦や強姦にあうのが当たり前の生活。工場での人間扱いされない労働条件。人がここまで蔑まれていた状況。どれも本当の日本の姿だったのです。今の自分の生活がいかに恵まれているのか、考えさせられる本ですね。
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明治前くらいから、昭和初期くらい?の時代について。当時の作家が小説に描かなかったような、貧困に苦しむ人々の生活についてなど。
東京の東のほう
売春婦と女工について。
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坂野上の雲などで描かれる、日本人が世界の仲間入りをした時代、実はその主役は本当に一部のエリート階級だけの話であり、一般の庶民は何も知らずただ生きるだけで精一杯だったという。しかし、実際に庶民がどのような暮らしをしていたのかということが気になってこうした一連の本に関心を持った。先ずは、読んで気が滅入る。最初の数十ページを読んで、思わず途中で止めようかと思いつつもなんとか読了する。江戸時代以降の近代から戦前にかけての東京には70数カ所にもおよぶ貧民街があったという。そこには、木賃宿と呼ばれる雑魚寝の安宿があり、行商や日雇いの人々が集っていたらしい。その地域では、人々は残飯を漁り衛生状況も劣悪極まり無く、近親相姦なども日常茶飯事で猥雑な社会であった。現代の憲法で保証されている健康で文化的な生活などというものからは全くの別世界である。この他、様々な事例が描かれているが、女郎や酌婦といった職業に身を置かざるを得なかった女性達の悲哀の話は憂鬱であった。借金のカタや一家の口減らしの為に、自らの意思とは関係なくその世界に送り込まれ、只同然でこき使われ搾取されていく時代、またせい紡績工場で酷使される女性たち。国から支給される葬式代を目当てに養子にした子供を立て続けに殺す事件が多発したという話。知らない方が良かったような気にさせられる話が目白押しである。作者はあとがきで述べているが、当時の社会保障予算の不足というような問題や啓蒙思想の未熟さという問題ではなく、根本にある人間感というものがあまりにも現代と異なっていたという事だろう。民主主義国家における法治世界の中で、資本主義という経済原理に基づいて設計されている社会がいかに理性的で大凡の社会的な問題の解決策になっていることがこれを読むと思い返される。現代の格差社会云々の問題など、この時代に比べれば無に等しい。
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昭和戦前までの都市層の下層社会に関するルポをもとに「そこから焙り出しにされる日本の社会福祉思想の特異な性格や、政策面での限界を究明」した本。
かなりの衝撃。特にスラムの稿には慄然とする。
かつて見た異国の映像が、そこにはあった。
残飯に群がる人々、タコ部屋の景色…その生々しさは、肺腑をえぐる。
スラムの他にも、子殺しや売春、労働現場についての惨状を明らかにしている。そのどれもが、凄惨だ。
著者は『予算の制約だけが低福祉の原因とは思えない。そこには貧困に対する社会的認識の未熟さ、前時代的な人間観の歪みが反映しているのではないだろうか。』と問い、このことは『現在にも見られる』という。
どんな政策も運用するのは人間である。制度を悪用できない仕組みは当然必要で、それに加えて『都市下層階級の存在を単なる怠け者や落伍者』くらいに考えるのではなく、「社会に共に参加している」という共存意識を各自が持つことが大事なのではないか。
2000年に発行された本だが、戦前の歴史的事実に留まらず、日本の行く末に警鐘を鳴らしているようでもあり、意義深い。
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ほんの少し前の日本の底辺社会が描かれている
字が小さく読みにくく、ほかの資料の引用が多いが
生々しい現実が付きつけられる
現代の貧困も問題視されているが
社会福祉などの概念があまり確立されていなかった当時と比べると
基本的人権を主張できる現代は格段に恵まれていると思った
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貧困が再び現在進行の問題として可視化される以前の時期に、近代日本の貧困・貧民に関する「忘れられた」記録や調査を発掘した功績は称賛に値するが、細部に誤りが少なくない(東京養育院の設立時期の誤認とか治安警察法と治安維持法の混同とか)のが残念。
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過去の東京に存在した恐るべき貧困の実相を探るのが本書の目的である。帝国主義の時代を脱していなかった当時の国際社会にあって、日本政府が福祉政策に舵を切れなかった事情については、ほとんど考察と言える考察はないが、むしろそういった考察があっては、スラムの実態に対する切込みは甘くなる。本書は、その意味で、贅肉をそぎ落としたスマートなつくりになっている。
本書に描かれたスラムの実態は、現代人の感覚からすると、およそ想像もつかないほどひどい。「残飯」の流通一つとっても、考えただけで吐き気を催すほど。もらい子殺しや娼婦、女工の虐待など、現代社会のどんな凶悪事件と比べても、その残虐性、凶悪性は比類なきものがある。
このような社会が明治、大正、昭和初期の日本に存在したことを、我々は忘れてはならない。非常にショッキングな内容だが、おすすめできる一冊です。
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東京の下層社会の様子を様々な資料を基に説明している。
胸の悪くなるような描写も多々ある。
驚かされるのは、この下層社会の様子は戦前まで日本中いたるところにあったということである。
そして、我々はそのことを忘れている。または知らない。ということである。
格差社会・社会保障費の増大が問題となっている現在一読の価値はある。
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東京オリンピックの頃までは「乞食」とか「偽傷痍軍人」とかを普通に見かけた。当該書では戦前まで存在していた「貧民窟」までを主に取り扱っていた。そこが今イチ食い足りない。
あのmarginalの存在が消えたとは思われない。
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スラムの生活については、まぁそんなに驚くことはなかったけど、女工や花街の生活の悲惨さは、中々現代のイメージからは想像に難いだろうな。
教科書では、工場制手工業はポジティブな意味合いで表現されていたと思うが、そこに江戸時代までの家長制度が持ち込まれ、それこそ悲惨な状況に陥っていたとは知らなかった。
明治から昭和初期の下層民の生活について知るにはいい本。また読み返したい。
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貧困にあえいでいるのは、努力しなかったからだ――
そんな言いように腹が立ってしかたがなかったのに、それにどう反論すればよいのか、わからなかった。
また、私自身も心のどこかで、もう少し一生懸命働けば苦労しなかったんじゃないの、と思っていた節があったのだとおもう。
そもそも、貧困とは何なのか。なぜその暗い穴に陥ってしまうのか。
本書を読んで、ようやくその答えが見えてきた。
まずもって貧困とは当人の如何なる性質に寄るものではなく、ひとえに外因性、それは景気とよばれたり、資本主義だったり、病気だったり、ほんの小さな不幸の積み重ねだったり、また、無知によるものだったりする。
誰だって貧乏暮らしはいやだ。人としての尊厳もなく、残飯を拾って日銭を得て、垢まみれの着物一枚で年中過ごし、やれ虱だ流行病だと身体が休まる暇もなければ場所もない。
真実はさらに悲劇で、人を人と思わぬ鬼畜が何も知らない女工たちを、娼妓たちを現在では考えられないほどの凄惨さでもって痛めつける。死に追いやる。
それがほんの百年のあいだに日本で起こっていたこと。
長らくのあいだ、「彼・彼女らのせい」として放置されてきたこと。
なぜ彼の人々が下層社会で喘いでいるのか、”想像力”に欠け、”人間性”が欠如しているあいだは到底わからない。
いま、新富裕層という言葉が生まれている。そう呼ばれる人々のなかには、汗水垂らして働くでもなく、バーチャルな数字でもって富を手にして、貧困に陥った人々をあざ笑っている人もいる。
でも、少し想像してみれば、いまの社会構造ではほんの僅かな食い違いで、誰しもが一挙に転落してしまうようになっている。
社会の仕組みの犠牲になっている人がいて、そのうえで自分のいまの生活が存在していることを、もっと疑問に思わなければいけない。
いつ如何なる時も、”人間性”を失ってはならない。
そう考えさせられた一冊だった。
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戦前の東京はスラムが其処彼処にある場所だとは知らなかった。
現代の日本の豊かさを実感した。
解説にある貧困とは差別の問題であり想像力の欠如であるという言葉は妙に納得するところがあった。
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明治から昭和初期にかけての東京の貧民・貧困を概観する。横山源之助「日本の下層社会」や森光子「光明に芽ぐむ日」など、当時の実態を克明に記した一級の資料を参照し、貧民たちがどのような環境に置かれていたのか、行政や資本家、社会運動家は彼らにどのような対応をしてきたのかを明らかにする。
そうして見えてくるのは、当時の貧困の、現代のそれとは比較にならないほどの過酷さ。極めて過酷な労働、飢え、病。衣食住のすべてが満たされないことが常態化した生活。
こうした人々が、東京には少なくない数存在していた。有名な三大貧民窟だけでそれぞれ数千人の貧民が住み、それ以外大小合わせて100以上もの貧民窟があった。
さらに、行政や社会の貧民・貧困に対する意識もまた、貧民を貧民のまま置くことを選んだ。彼らにとって貧民とは、救うべき対象ではなく怠惰により身を持ち崩した自業自得の人々でしかなかった。そうした無関心・無理解が貧民に対する放置を持続させた。
こういう貧困者への無関心・無理解が現代日本にも繋がっているかと思うと興味深い。生活保護叩きは記憶に新しいし、貧困者への行政援助に対する許容度が先進国では有意に低いことも有名な話。実感値でも統計値でも、貧困者に厳しいのが日本人の実状なんだろう。そういう心性は、100年前から変わらないということだろうか。