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紙の本
闇の終わり
2019/12/26 22:39
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイからカンボジアにかけての奥地に古い打ち捨てられた寺院が続いている一帯があって「王道」と呼ばれている。そこでお宝を略奪して一攫千金を目論むフランス人の男。その相棒はさらに奥地の部族を支配しているというデンマーク人で、行方不明になったフランス人を探そうとしている。
ストーリーは冒険小説なのだが、敵との戦いよりも内省的な描写に力が置かれている。そもそも現地において白人は支配者であり、そんなに激しい攻撃を受けたりはしないはずなのだが、少しでも隙を見せたら総攻撃に遭うし、そうでなくても通行に協力を得られない。さらに自国政府は略奪に制限をかけようとしている。そういった精神的なプレッシャーにさいなまれながら、成功への疑問と戦いながらの道行きでもある。
また原住民の王という存在はちょっとコンラッド「闇の奥」を思い起こす。そういう王様があちこちにいるという設定。そもそも古代から文明が栄えていた土地で、原住民とはいえ無垢でも無知でもなく、銃には歯向かわないが、隙を見せれば逆襲する狡猾さを持っている。この緊張感の中では、能天気な冒険ロマンを語ってはいられないかもしれない。
そもそも植民先の現地で王になるとか、まっとうな精神の持ち主ではないのだが、建前上の支配者である官僚も軍人も、それが仕事だからやっているわけで、そこに自らの意思で支配者になろうという意識がそもそも過剰なのだ。支配欲が過剰、自意識が過剰、その過剰さゆえにヨーロッパ社会の中では息苦しく、アジアやアフリカに生き場所を求めようとする、そんな男たちがたくさんいる。カーツ大佐のような極端で、世界から隔絶した存在でもなく、文明世界と往復し、ただ富と権力と快楽をそこから吸い上げようとしている過剰な男たちが。
そして彼らが土地から感じる反発の力は、緊張感とスリルを高めるのと同時に、植民地支配の時代の終わりを示している。文明と野蛮という二元対比の単純な構図で冒険を語れる時代は終わり、収奪への反抗や、独立運動といった、様々な利害と正義が絡み合う中での道を見つけ出していくことが、新しい冒険の時代になるだろう。
コンラッドやジッドから、マルロー、そしてコッポラへと時代は移り変わっていく中で、一つの終わりを象徴するような苦い結末が待っている。フランスが東南アジアでの影響力を失っていくことが形になって現れたのでもあり、植民地支配の思想の矛盾を表していると言えるかもしれない。素朴な冒険心で各地に散っていく男たちは、滅びゆく者の悲しみを背負い始めている。そしてたぶん今でも過剰な自我を持て余した男たちが、生き場所を探しては悲劇を繰り広げているのではないだろうか。
紙の本
モナリザとともに来日したド・ゴールの片腕が、20代前半に訪れたインドシナ体験をもとに書き起こした迫真の冒険小説。個とその行動と死との息詰まる緊迫感。
2002/02/24 17:47
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投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
「冒険小説」というと、その裾野は「ミステリー」と同じように広いのかもしれない。残念ながら私の頭のなかには、それを俯瞰する地図がないので、いずれ北上次郎氏や井家上隆幸氏らが書いたガイドブックでも眺めなくてはいけないという気はしている。まず、頭に浮かんでくるのは海洋小説で有名なコンラッド。彼には、『王道』と同じインドシナあたりを舞台にした『闇の奥』という著作もあったはず。船戸与一、落合信彦、鳴海章といった名前も明滅するが、『宝島』『十五少年漂流記』などの児童文学に心弾ませた思い出から、そちらの方を近しく感じ、最近の冒険ファンタジーへと注意は向いていってしまう。遺跡の発掘や地理学者の測量などの目的に主眼をおいたもので、もっと読んでおくべき古典もあるやに思うが、どうも私の冒険小説の引き出しの中身は貧弱だ。
危険を承知し生命を賭けて未開の地、知られざる領域に挑むのが冒険の本質であろうから、それはやはり大航海時代が始まり、植民地政策へと転化していく西欧列強の領分なのかもしれない。となると、日本では、蝦夷地への航路を開いた高田屋喜兵衛を描いた司馬遼太郎『菜の花の沖』なんかも該当しそうだ。植民地を増やすという征服行為は「エキゾチックなものとの出会い」という意味で西欧文学に大きな収穫をもたらしたと思ってはいたが、「冒険」という切り口で本格的なものに接したのは、これが初めてであったように思う。
未知の土地には想像を絶する危険が待ち受けており、冒険者の甘いモチベーションをそいでいく。宝物を手にせんと勢いよく乗り込んできたのに、危険に命をさらした今、目的は生き延びることにスイッチして、還ることですらなくなっているのが怖い。首尾よくお宝を手にできる冒険なんて、そうそう例はないのである。文明を離れ生きる厳しさにさらされて初めて、冒険者は個としての自分、特にその非力を思い、行動を続けてこられたことの幸運を感じ、襲いかかる死の脅威におのが魂のありかを知る。
ここに書かれているのは、そのような冒険の陰の側面であると言えると思う。虚無主義とも言える姿勢が貫かれているのが何とも厳しい。映画で言うなら、インディ・ジョーンズの派手な冒険物語ではなく、ドイツの鬼才ヴェルナー・ヘルツォークによって撮られた『アギーレ神の怒り』という、コルテスの狂気を追ったものに似ている。もはや当初の計画は完全に瓦解し、祖国へ戻る意味もなくなった冒険者は、憑かれたように奥地を目ざしていく。そこに、ただひとつ自分を待ち構えているものが何なのか、はっきりと知りながら知らないふりをして…。
本の紹介にしては抽象的なものになってしまっているけれど、この小説は、実際の冒険のシミュレーションのように一寸先は闇という感じで読み進められるから、あらすじを書くのは好ましくないように思えるのだ。
密林に隠れたクメール王国の道路<王道>を分け入っていく、若い白人と老いた白人の物語。激しい冒険のかたわらには、フランスのインドシナ政策の激動も覗いているが、冒険の挫折のあとに展開されるふたりの行動と思想の緊迫感に、作者のエネルギーは注がれているようである。冒険の形でエロスとタナトゥスを描き切っていることにも大いなる驚きがあった。
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