紙の本
サイエンス・フィクションとしての哲学
2001/02/20 23:59
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
小泉氏は本書で、人格(人物)の同一性をめぐる論争(「記憶説」対「身体説」)を決するために現代思想が導入した方法とその結論を批判している。
それは二人の人物、たとえば太郎と花子をめぐる記憶交換や身体交換といった思考実験への批判であり、現代思想が「私」の同一性を保証するものとしてそこから導き出す「思考不可能で表象不可能な外部の他者」への批判である。
《このようにして現代思想は、同一性から出発して他者論に到達した。そして、他者性は同一性とは違うので、アイデンティティ・ゲームを突破した気持ちになれたし、他者性を礼拝しておけば、アイデンティティの政治を批判できる気持ちになれたのである。しかしこれでは、過去と未来の得体の知れぬ壁に挟まれて、「私」に閉塞するばかりである。外部の他者性は否定的に語られるばかりで、「私」は否定性の氾濫に溺れてしまう。こうして現代思想は、私が生物であり他人も生物であるという平明な現実を取り逃がしてしまう。そして結局は、私と他者の差異、「私」と他人の差異を認識し損なうのだ。
出発点のSF的発想を批判しておこう。そもそも、太郎と花子を死なせないような仕方で、記憶や身体を交換することが、自然界において可能なのか。仮に不可能ならば、不可能なことの想定からは理論的に任意の結論を引き出せるから、論争に決着はつかないし、論争は無意味であるということになる。何でもアリになるから、何も分からないということになる。仮に可能ならば、分子生物学の知見から推しても、種々のウィルスや種々の化学物質や種々の機械装置を使用することになるから、交換を開始する時点で、太郎と花子は人間とは別の生命体に変容すると考えなければならない。そして、交換操作が記憶と身体に残す痕跡を消去することは原理的に不可能だから、交換を終了した時点で、人間のパーツを保持した新しい生命体に進化したと考えなければならない。もはや人間は存在しないのである。したがって、同一性に固執して「太郎」や「花子」と呼びかけたいと思うこと自体が、あまりにも人間的な因習なのである。同一性を墨守する思想はあまりに粗雑であり、同一性に拘泥するSFはあまりに稚拙である。ドゥルーズは『差異と反復』を「サイエンス・フィクション」と銘打っているが、そんな新しいSFが求められるのだ。》
ちなみに、中村桂子氏は日本経済新聞の読書欄(2000年9月3日付)で次のように述べている。
《個別の技術に対して倫理という言葉で対処しようとしても、経済優先の何でもあり社会では空しく響くだけだ。科学の成果を人間解釈に直結せずに、従来の自然観、人間観と照合して新しい考え方を打ち出し、生命、人間を扱う技術の是非を判断する基準をもつ以外にない。ゲノム情報は、医療への応用と共に、いやむしろそれ以前に人間観、生命観形成に活用することが大事だ。》
中村氏は続けて「幸い、日本の人文・社会学研究者の中に生命科学に関心を持ち、その成果をとり入れながら新しい思想を組み立てていこうという人たちが出ている」として、その一例として本書の名を挙げている。卓見である。
紙の本
カオス的なドゥルーズ
2001/03/04 18:50
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投稿者:だらに - この投稿者のレビュー一覧を見る
何年かにわたる東大での講義をまとめた本であるが、この本では一貫して「微分」についてのドゥルーズの緒論をとりあげている。現代数学のカオス理論を、ドゥルーズの哲学読解に役立てていこうとするその姿勢は希有のもので、ドゥルーズ解釈においてもその貢献度は高いといえるだろう。端的に言って、勉強になるし、この本で勉強しなければならないことはたくさんある。
しかしながら、カオス的な数学理論を駆使してみずからの哲学へとその解釈を適用するその方法は、この本においてあまり関心できない点である。それは端的に凡庸な哲学であるし、さまざまな科学的所見を駆使していてもカモフラージュになるだけで、アタマは隠れても足は見えているというぐあいである。力強い言葉の運びはいつもながら圧倒されるものがあるが、その結論は賛同しかねる部分が多い。
紙の本
ドゥルーズ・もう一つの相貌
2003/02/05 01:17
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投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドゥルーズといえば、現代思想、なかでもポストモダンという潮流の中での活躍がすぐさま想起され、そこには“難解”というイメージがついてまわっていたように思う。そして、その“難解”なドゥルーズですらも、消失されつつあり、かつてのようなインパクトを持ち得なくなった、という見通しの元に提出されるのが、「生命・自然・未来のために」と副題された本書である(もちろん、この見通しには異を唱えることも可能だろう。そもそも、日本においてドゥルーズの良質な部分がどれだけ読まれてきたというのだ?)。
つまり、従来想定されていたドゥルーズ的な領域とは異なる、ある意味で今日的な生命科学の諸ジャンルに『差異と反復』に代表されるドゥルーズの思考をぶつけていくというのが本書の基本的なスタンスである。一見以外にも思われるこの組み合わせは、いささか議論が専門的になる嫌いもあり、特に文系人間には理解しがたい点もあるが、その向こうにはやはり“あのドゥルーズ”が見えてくる点が興味深い。例えば、愛や倫理といった肯定的なモチーフが、臨床の現場における議論などから浮上してくるのだ。
こうしてみるならば、ある意味本書は、哲学的理論として〈抽象的なもの〉を照準したドゥルーズの思考を、今日的に自己決定などといった問題と共にリメイクされて浮上してきた観のある身体といった、すぐれて現実的な諸問題に接ぎ木する、生産的な仕事だと言うことになるだろう。
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ドゥルーズ入門書としてはもっとも安価でかつ簡単に購入できる類の本だが、鵜呑みすると危険な部分が多く、さらに言うとズブの素人には読めないという困った本。
ただし、論点は短くまとまっているし説明はわかりやすい。知りたい項目をどこから読んでも問題はないので、便利な本でもある。他の入門書と併用すれば使える。
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現代フランス思想の巨人、ドゥルーズ。ということだが、興味が全くなかったので取りつく島もない。そういうわけで、まずは入門書から。ドゥルーズ哲学の射程は広く、細胞核から宇宙まで、森羅万象の真理を考察の対象にしている。このスケールが、何かメルロ=ポンティなどと違うところのように思う。とにかく、言っていることが大きい。
ドゥルーズ哲学の基盤をなしている考えは、主著のタイトルでもある『差異と反復』。従来、西洋哲学史では普遍性を追い求めてきた。そのため、個別一般からずれるもの、普遍性という軸から外れる事柄に関しては異常、異端だと言うレッテルを張り、考察の対象外として追いやってきた。それに対し、ドゥルーズは異を唱える。個物間に差異が存在するのは当然のことであり、一般概念を基準にした優劣は存在しない。むしろ、このような優劣によって、異常といった差別的なヒエラルキーが生じてしまう。
個人的に、やはり印象に残ったのは、微分の話で、いくらか文脈は違うだろうけど、ドゥルージアンしかり、ベルクソニアンしかり、ロジシャンしかり、微分が哲学を探究する上での鍵となっていることが何とはなしに分かった、ような気がする。(まあ、ロジシャンが微分を学ぶという文脈は、論理学者が解析を通っているからというバックグラウンドがあるかららしいのだが)とにかく、微分方程式最強、と言った感じか。問題を解決することはできないかもしれないが、その問題になっている事柄を数式化することが可能になる。つまり、何が問題になっているかが明確になってくる。統計からの類推や仮説演繹法では到達できない境地、なのだ、ろうか(後者に関しては明言していないが)。
統計から導きだされたデータの集積から何らかの法則性を見出し、それに則って事象を測ろうとする科学的手法を批判するスタンスは非常に共感した。「科学は二次的表現にすぎない」と言及したメルロ=ポンティと通じるものがある。「現象はシーニュであり云々」という件も、メルロのスティルの概念と非常に似通っているような印象を受けた。両者は15年ほどしか歳を違えておらず、ほとんど同世代と言えるだろう。不勉強のため明言できないが、ドゥルーズは現象学者ではないはずで、実存主義者でもないはずである(サルトルの影響を受けたが、それは思想的なものではないらしい)。しかしながら、両者がどこまで共通性、親和性があるのか気になるところである。
他にも、ツリーとリゾームについて。生物の分類に関して、アリストテレス的なカテゴリを基盤にした思考をツリー的なもの、その対局にあるプラトンの分類をリゾーム的なものとする考え、その他諸々。まだまだ理解できていないことが多すぎるが、主著のいくつかを挑戦してみたいと思った。
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[ 内容 ]
二人の人間の間には差異がある。
自然界には差異がひしめいている。
そこからどんな哲学が立ちあげられるだろうか。
主要著作を読み解き、最高の哲学者の核心に迫る。
[ 目次 ]
第1部 差異と反復(変異と進化;普遍数学;自然の哲学;ツリーとリゾーム;生命の哲学)
第2部 未来の哲学(批判と臨床―スピノザ;生存の肯定 ―ニーチェ;人間の終焉―フーコー;未来の素描―フランシス・ベイコン;出来事と運命―シネマ)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
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☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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確かに、ドゥルーズ自身の思想なのか著者の意見なのかわかりづらいところはままありますし、脈略なくドゥルーズと直接関係のない引用を挟んだりと問題はありますが、全体的に思考の流れは一貫してますし大胆で瑞々しいその思想は魅力的だと感じました。
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とりあえず、ドラゴンボールとか、エヴァとかそういうの出すのやめてほしい。東浩紀もそういう理由で避けている。別にサブカルを蔑視するつもりはまるでないのだけれども、そういうの組み合わせないでほしい。だって、そういうことすると飛びつくだろうが、サブカルの連中が。で、大事なところ(その哲学者や思想化が何ゆえそれをそれほど追い求めたのか?とか、その哲学者や思想家にとって哲学や思想は何だったのか?とか、彼らの明晰な思考経路とか)を無視して、彼らの主張の要点だけをかいつまみ、それをこれ見よがしに現代のサブカル文化と組み合わせて、得々と語っていそうでそれが嫌なんです。逆を言えば、自分も小さい頃からあれこれつまずいて、あれこれ考えてきてなければ、きっと同じことしていただろうから、だからそういう意味での同属嫌悪みたいなのもこもっているんだろうと思う。一時、サブカル文化に傾倒していたこともあったし、今はもうすっかり手を引いてしまったけれども。
で、個人的に著者のドゥルーズ論はへー、というくらいの印象しか持ち得なかった。一言で言えば、「差異」この言葉に尽きる。つまり、差異を見ろと。我々は人間の側から、人間中心的に「正常」と「異常」を決めるわけだけれども、実際には二つのグループがあってその両者に差異が見られるというだけのことであり、そこにあれこれと主観を織り交ぜてしまっているわけである。それも、自分を中心としたパースペクティブ主義的観点から、ということになる。これは、場合によってはより広い人間中心主義となり、例えば人間にとって都合のよい神を作り上げるというところにもかかわってくるのだろう。これはスピノザなのだが。ともかく差異に注目すべし、と。だが、結局はその差異を見るのは我々人間であるし、我々は我々が存在することにより、かつては自然が差異を選別していたところを、今現在では我々が自然とともに選別する役目を持っているというところで、我々の立ち居地も難しいものとなっている。つまり、我々は人間として、しかし人間中心的なパースペクティブ主義には陥らずに純粋に差異を選別しなければならない、ということになるのだろうか?本著の構造としては前半部は微分について語られている。世界はカオスであるが、しかしカオスの中にコスモスがある。つまり、混沌とした調和がある。これはローレンツから始まる、複雑系の根本概念であり、このカオスモスのキーファクターとなるのは微分なのだそうだ。つまり、積分は現実化され可視化されるものだが、微分はありとある可能性を含みうるものであり固定化できるものでもない。早い話接すればいいだけなのだから、それは無数の接し方があろうというものだ。そして、自然現象の多くにはこのような無数の可能性が孕まれ、それがカオスモスとして機能しているのだから、この微分を基にして世界の差異を認識しなければならない。だが、この無数の可能性なるものは可能性として終わらせばいいというものでもなくて、ここに現実性を持たせなければならない。それが今現在科学で使われている手法であろう。無数の計算式から比較的単純なものを選び出して、計算から近似値を出して、その近似値が破綻しな���ものであるとすれば、つまり一定の枠に収まっていれば正しいとする手法である。とまあ、こんな感じでドゥルーズはカオスモスを重視しているわけだけれどもそこには構造があると考えている。だが、それはレヴィストロースが言うような可視化されうる単純な構造ではなくて複雑系としての構造である。後半部は倫理学に収まっており、ニーチェを踏まえての議論がなされている。ただ、主要な論調は「我々は我々の差異を認識した上で肯定しなければならない」とするというものである。ちなみにこのあたりの倫理観は永井のそれに近しいところがある。ニーチェを評価している点も、彼の哲学観というよりはルサンチマンや力への意志をはじめとする倫理観であるというあたりも近似しているかもしれない。だが、永井よりはかなり浅いものにとどまっていると言えよう。ここでは永劫回帰がなんなのかについては語られておらず、ただ永劫回帰を意志するのだという、そしてそれが反復されるのだという、永劫回帰をあるものと見なしてそれをどうするかという形式が語られてしまっている。ただ、これだけニーチェとドゥルーズを持ち上げながらも、結局のところ、ニーチェもドゥルーズもルサンチマンを乗り越えられはしなかったとあっさりと認めてしまうあたりには好感が持てた。しかし、ルサンチマンを持っていることを肯定すれば、ルサンチマンを持っていることから逃れられなくなりそれは反復されるがそれすらも肯定するとやはり、ルサンチマンは反復されそれすらも肯定する。つまり、我々はどれだけ肯定しようがルサンチマンからは逃れられはしない、だがそれを肯定することはできる、つまり永劫回帰を意志することはできる、そうして永劫回帰を意志することが永劫回帰され、永劫回帰を意志する力も永劫回帰される。まあ、なんともはやである。
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どぅるーず本。
ちょう面白かった
微分の概念を援用して世界を切ったり、そこから今度は同一性に固執するのではなく、差異の重要性を説いたり
小泉さんの個人的な思想もかーなーり入り込んでるように見受けられるが、それも面白いからいいと思う
どぅるーずが書いた本もふつうに読みたいなぁと思わされた
オススメできる
が、一読しただけだとちょっとわかりづらいかもしれない
一回ざっと読んでわからなくても2回3回と読むうちにわかるようになる本
おもしろい。
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読みにくい。分かりにくいではなくて、読みにくい。
著者か編集どちらのせいか分からないけど章分けと実際の中身に解離が見られる部分があって、その部分が頭を非常に混乱させた
話そのものは分かりやすかったのでその点はよかった