紙の本
「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」
2010/04/24 21:32
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近(というわけでもないか)のSFのはやりらしい意識と脳の関係についてとっかかりが欲しいと思って見つけたのがこの本。著者は山本弘の短篇「七パーセントのテンムー」でも引用されていた実験を行ったベンジャミン・リベットの当の本を訳した人で、これは好適と読んでみて、まさに望みの通りの本だった。
この本の基本的な議論は、著者自身がセントラルドグマ(中心教義)と称する「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」ということに沿って進められている。
細かいことは本の方を当たって欲しいのだけれど、ここで示されている「意識」についての議論は非常に興味深い。わたしたちは、意識と行動の関係について、まず何かをしたい、しようとする意志、欲望に基づいて行動に移している、と思っているのだけれど、いくつかの実験においては、そのまさに逆のことが観察されるという。悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ、という言い方はしばしばなされることがあるけれど、それよりももっと踏み込んで、人は、自分がどうしてそういう行動をとったのかがわからずに、自分のを事後的に適当に解釈してしまうことがある。
分割脳という脳梁を切断された患者に対する実験で、言語機能のない側の半球の視野(左視野)にだけ提示された命令を拒否した患者は、自分が何を拒否したのかに答えられなかったという。あるいは、左視野に笑え、という教示をすると、患者は笑うことはできる(指示を行動に移すことはできる)けれども、なぜ笑ったのかを訊ねると、実験者たちが「ほんとうにへんちくりんだから」というような取って付けたような理由しか答えることができないという例もある。
この手のもので有名なところでは盲視覚というのがある。本人はまったく目が見えないのに、たとえば飛んでくるボールをよけることができ、しかも本人は何故よけたのか説明できない。似たようなことは次のような実験でも体験できる。被験者が上下左右の反転した眼鏡をつけて生活し、慣れたところでその人にボールを投げると、上手い具合にキャッチすることができる。しかし、被験者にどこから飛んできたのか、と問うとしばしば答えられない。
これは、生物の脳の構造として、運動系の機能と認知系の機能の二つの経路があり、運動系のものが生物として基礎的なもの(しばしば「下等」と呼ばれることもあるけれど、言い換えればもっとも基層にあるということでもある)であるために上記のような現象が起こるという見方が示されている。
これらのことからわかるのは、人間の知覚のうち、みずから意識できる部分というのはきわめて限られているということだ。五感から入力される知覚をすべて意識していたのでは、意識の処理能力を超えてしまう。だから、前意識の段階で知覚情報がある程度処理された上で意識に上ってくる、というようなことだろうと著者は言う。
「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」
もっといえば、わたしたちの意識、主観、感情というものは、脳の活動に対する事後的な解釈にすぎないと言えるのかも知れない。
ただし、意識の境界は絶対的なものではなく、ある程度の訓練を積むことで、自律神経をも意識的に操作できるようになる人というのも存在する。たとえば、アスリートや超人的な能力を持つ人たちは、訓練などの結果、この普通の人には意識することができない領域にもアクセスできるようになったと言えるのではないか。
十年前の本になるのでこれからどれだけの研究の進展があったのかは私には判然としないけれど、この手の脳科学、認知科学のとっかかりには非常に良いのではないかと思う。
ただ、著者の問題意識として、そのようなサブリミナルな人間観と、いま現在の社会で採用されている人間観との齟齬を問いたいというのがあるのだけれど、ここはちょっと微妙なところがあるなと感じる。人間が主体的な判断をし、責任能力を持つというのは、たとえフィクションであっても、現代の制度の前提として採用されているのであって、事実言明として正しいかどうか、というのとはややレイヤーの異なる話だと思っているので。
あと、タイトルから連想されるサブリミナル効果にかんして。サブリミナル効果はトンデモだ、という話が結構広まっていて、私も漠然とそうした印象を持っていたのだけれど、人の行動をコントロールするようなものではないにしろ、「サブリミナル単純呈示効果」という、意識できない刺激に対して、何度も経験したものの方により好感を抱く、というような実験が報告されている。この「サブリミナル単純呈示効果」にかんしては追試もされていて、「サブリミナル効果」はある、と言える。また面白いのは、本人がそれを以前に見たと認識しているかどうかには関わらず、この効果は出現する、ということ。これも認知と意識との齟齬から来る現象で、心理学的にきちんとした研究の対象でもあり、トンデモというわけではないのがわかる。
姉妹編に講談社現代新書「〈意識〉とは何だろうか」があり、こちらは錯視という魅力的な題材で意識についての議論を進めていて非常に面白い。
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認知心理学とは、心理学とは名が付けど、一般的に皆さんがイメージするような心理学(カウンセリング等)とはかなり異なった様相を呈するものです。しかし、私自身は、その根本となるものは共通しているようにも感じています。一言で言えば、「人間が何をどのように感じているか」ということ。サブリミナル・マインドでは、このことについて、主に認知過程の潜在性・自動性に焦点を当て、認知心理学的な視点から考察しています。読みやすく、分かりやすく、面白い。皆さんにもぜひ読んでみて欲しい一冊です。
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知覚研究で有名な下條先生による知覚心理学に関する概論書。
キャッチーさを狙ってサブリミナルに関しても解説してあるが、メインは意志や意識に関することである。
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世の中で実際に起こっていることに対して、心理学的な考察が述べられる。心理学を学んでいない人は、心理学が日常と如何にリンクしているかに感心し、心理学を学んだことのある人は知識を日常と繋げることで理解を深められる。
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全編を通して、「人間の意思ある行動とは本当に意思があって行っているものなのか」「無意識の意識過程とは」ということについて語ってる本です。
読んでると言いくるめられる面もあるんですが、個人的には懐疑的に…。。
ゼミでテキストとして扱いました。
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自らの意志決定に対して,無意識が僕らが思っている以上に影響力を持っていることを,化学的な根拠で書き表した本.ここでも,下條先生の洞察力が光る!
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マーケティングやら、広告、メディアのひと
消費者、現代人は読んだ方がいいと思う。
薄いが、内容はものすごく濃い。
っていうかね、情報操作というか、
こわいね。
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人の無意識について迫った内容。
初めて読んだのは高校生だったように記憶しています。
その当時は「よく分からない」「これが分かったから何になるというのだろうか」という言葉で片付いていましたが、再度読んでみると「だからこうなるわけか」と色々と納得出来る点や謎に思う点が出てきて面白く読めました。
日常的に意識して行っている行動や言動、手段、方法がもしかしたら無意識のなかの一環が影響して表に行為として出てきているのかも知れない。という自分の意識と言う砦がいかに脆く立っているかを感じさせてくれる内容。
(2009.07.06)
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現在カルテクで研究している下條先生の本。
意識や意思の不確かさについて再認することができた。
いろいろな具体例や症例が呈示してあって、とても読みやすい。
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1520年、世界周航をめざすマゼランとその一行が、南米最南端のフエゴ島に 到達 したときのこと。マゼラン一行は上陸のために、自分たちの大型船四隻を島 の湾内 一時停泊させた。何世紀もカヌーだけで生活してきた島民たちは驚きの目で 上陸してきた彼らを見た。
しかし、マゼラン一行がどのようにしてやって来たのか、島民たちはまったくわ からなかった。なぜなら、フエゴ島の人々の目には湾に錨をおろしている大型のス ペイン帆船の船団が映らなかったからだ。島民の目には、大型船団に視界を遮られ ることなく、いつもと同じように、湾の向こうにのびる水平線が見えていた。 これはその後、何度目かのフエゴ島再訪の際、島民たちがマゼラン一行に語ったことか らわかったという。彼らの頭のなかの枠組に大型帆船のイメージがなかったため、 目には映っていても、その映像を脳が拒否し、見れども見えなかったのである。 (濱野恵一著 『インナー・ブレイン』)
この話は、サイト「臨死体験・気功・瞑想」の中の小論(「覚醒・至高体験とは」) でも紹介した。『サブリミナル・マインド』には、こうしたエピソードを裏付ける ような実験例が載っている。 知覚心理学では、タブー語を瞬間呈示すると、無意識裡に抑制されて、主観的に は「見えない」という実験が報告されているのだ。タブー語とは、観察者本人にと って強い不快感や羞恥心をもたらすことば、たとえば性的なスラングとか、ユダヤ人にとってのハーケンクロイツなどである。無意識的な認知プロセスが働いてタブ ー的な語をあらかじめ選別し、知覚意識に昇るのを抑える「知覚的防衛」が働くら しい。フエゴ島の人々には、まさに同様の「知覚的防衛」が働いたのであろう。
この本は、こうした様々な「潜在的な認知過程」を豊富なデータに基づいて論じ る。「潜在的な認知過程」というと精神分析学や深層心理学でいう「無意識」を連想するかも知れないが、この本で扱う「潜在的過程」は、それよりもはるかに広い射程をもち、行動・認知・神経科学的な過程を含む。それらの各分野において、フ ロイトの時代よりどれほど多様で豊富で説得力のあるデータが蓄積されているかが、 読み進むにつれていやというほど分かる本だ。
人は自分で思っているほど自分の行動の動機を分かっていない。自覚がないまま に意志決定をし、自分の行動の本当の理由には気づかない。「認知過程の潜在性・ 自働性」がデータの上でますます強力に実証される。そうした事実は、確かに人間 の意志決定の自由と責任に関する社会の約束ごとさえ脅かす。
しかし、だからから こそ瞑想に関心をもつものは、瞑想的によって深まる「自己覚知」によって、そう した「潜在的認知過程」からどれほど解放されるのか、自ら実践的に問い続けるべ きだと思った。
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さてさて、最近、右脳→左脳という思考プロセスに嵌っているのですが
潜在意識に関しても思うところがあったので
そんな関係の本を読んでみました。
いくつか思った事をピックアップ
・認識の定義とは?
この本では認識の定義に関して触れています。
例えば、ここ見てって言われた時、その部分に集中しているけれど
他の部分も一応見えますよね?
それって認識なのでしょうか?
自分なりに言葉の定義を考え中です。
・脳半割
医療系じゃない人にはショッキングかもしれないですが
脳を半分に切られた動物や人の話が出てきます。
別に問題なく生きる事が出来るのですが
初めて聞いてびっくりした事を思い出しました。
・コマーシャルのインパクト
私はTVCMのコマーシャルの効果に否定的だったのですが
商品を手に取る時に全く知らないものより
覚えてはいないけれど、多分どこかで
見た事のある商品の方を選ぶでしょう。
これを考えるとGoogle AdSenseで広告の費用対効果が
見られるっていうのも部分的なものなのかもしれないですね。
うーん。脳の話は面白いです。
論文の引用なども多数あり、適当に書かれた
適当な新書というわけではありませんでした。
紹介してくれた友人に感謝したいと思います。
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人間の意識と潜在意識について書かれた本。
実験的なデータに基づいて考察されている為、説得力があります。
現代社会の色々な現象について非常に興味深く問題提起しています。
その中でも面白かったトピックは「人間の自由意志」というもの。
簡単に言うと、商品を選んで購入するという行為はあたかも自分の意志によって選択がなされたように思われるが、逸れは実は広告の閾値下意識への商品の刷り込みによるものである可能性が否めない。
(商品に限らず、政治的なものも含む)
ということ。
非常に物の見方を考えさせてくれました。とてもオススメです。
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「人は、自分が思っているよりも自分のことを知らない」というのが大きなテーマ。
人の行動や趣向は、無意識的なものに大きく左右されますよー、というのを色んな研究結果から明らかにしていく。
著者の主張には大筋で賛同する。ただ、本の中で扱ってる研究が脳科学系や実験系のものだったためか…それだけで結論付けてしまうにはちょっとモヤる。記憶とからめるなら、もうちょっと相互作用的なものが欲しい。
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人間の無意識について述べた本。
私たちは意識的に生きている気がするが、ほとんど無意識で生きている、と述べている。
新書にしては読みやすく、自分に照らし合わせると新たな自分が見えてくるかも。
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人は自分のことをよく知っているようで知っていない。
自由とは何なのか、前提となっている自由意思とはなんなのかというアンチテーゼが非常におもしろかった。
認知過程の潜在性・自働性がテーマ。
序 私の中の見知らぬ私-講議に先立って
この本では心的過程の潜在性というドグマの根拠と妥当性を検討する。
科学哲学者マイケルポランニ「われわれは語ることができるより多くのことを知ることができる」 顔などの全体的知覚(ゲシュタルト的)「明示的な統合は暗黙的な統合にとってかわることはできない」
プラトン「未解決な問題について解答を探し求めるのは不合理だ。探し求めている答えを知っているのなら初めから問題などそんざいしなかったことになる。」これは暗黙知を前提として初めて解消する。
意識的経験がなくても記憶の効果が表れることはしばしばある。
第一講 自分はもうひとりの他人である-自己と他者の社会認知心理学
自分も他人と同じように何かの客観的な事実より認識する。
その意味で他人と同じである。
認知的不協和 個人の心の中に互いに矛盾するようなふたつの「認知」があるとき、認知的不協和と呼ばれる不快な緊張状態が起こる。それを低減しようとする動機づけが生じる。外的な要因は変えようがないので、内的な要因が変わる、態度の変容が生じる。これが無意識的な自己合理化。
コマーシャルで見たという認識があるときより、むしろ想起できない場合に、その商品を買いたくなる。これも自己正当化が生じるため。覚えている場合はコマーシャルのせいにできるが、覚えていない場合コマーシャルのせいにできないため自分が好きだからと思いこむ。
高い商品ほど購入した時の満足感も高まる。これも認知的不協和。
自己知覚理論 本人にしかわからない私的な刺激に左右される部分も実は他者が知ることのできる顕在的・公共的な事象に起源を発している。
第二講 悲しいのはどうしてか?-情動と帰属理論
実は感情は行動から起因しているという話。
ジェームズ「興奮するようなできごとを自覚すると、ただちに身体に変化が生じる。この変化に対するわれわれの感じ方(feeling)が情動(emotion)である。」
顔や表情を認知する神経機構が脳内で情動に関連する領野のすぐ近くにある。
意識的な経験は無自覚的プロセスに対する後付けの解釈にすぎない
「身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験」
情動二要因論・まとめ
①生理的興奮は情動の種類にかかわらず案外類似している。
極端な状態は生理的興奮としては類似性・一般性・曖昧性をもつ。そこでその生理的興奮を異なる状況要因に帰する過程である
②感情でさえ無意識的な認知過程。
③行動に表れる無自覚の認知過程と言語報告に表れる意識的な過程とは別物。
第三講 もうひとりの私-分割脳と「自己」
分割脳とはてんかんなどで脳梁を切断された患者。
腕をおさえて手の自由が利かない状態でボクサーといれても何も見えないと意識する。腕を自由にするとボクサーのポーズをとり、さっきのはボクサーだったと認識できる。
自分のまわり行動から自己の行為の起源を認知する。
自らの脳内でさえ、神経コミュニケーションの他に自らの行動を通して認識している。
人は自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である。
第四講 否認する患者たち-脳損傷の症例から
人は事実を正当化して回答する。認識しているのにしていないと認識している場合あとからその理由づけをする。
第五講 忘れたが覚えている-記憶障害と潜在記憶
プライミング効果(呼び水効果)一度でもちらりと見たものは二度目には見やすくなるあるいは反応が早まったり強まったりする効果のこと。
同じ単語が提示されると処理反応が促進される「直接プライミング」と意味的連関のある単語を提示すると処理反応が促進される「間接プライミング」がある.
思いだせなくても効果があるので、潜在的プライミングといわれる。
持続期間も驚異的で、数週間、数か月経っても促進効果がみられる。
記憶には宣言的記憶と手続き的記憶があり
宣言的記憶にはエピソード記憶と意味記憶がある。
第六講 見えないのに見えている-域下近くと前注意過程
カクテルパーティー効果など意識していなくても見えていたり、することがある。
それに対して我々はやはり後付けで理由を合理化している。
閾下知覚
第七講 操られる「好み」と「自由」-サブリミナル・コマーシャリズム
宣伝・コマーシャルには二つの原理が働いていると思われる。
説得性原理 商品の存在と魅力をアピールし、納得させる。
親近性原理 見知っている、聞きおぼえがある、なじみがあるという状態にするだけで消費者の欲望
は高まり、選択をおこなうようになる。
単に同席するだけでも、より交換を持つようになる。
また、情動効果が大きいほど記憶に強くのこる。
また何かのシンボルに気付いた人より気付かない人の方が先述の無意識による
親近性の正当化により効果が大きくなる。
サブリミナルコマーシャリズムにより、欲望の受動化・画一化が起こっている。
遊びや芸術や科学技術にまで、このような制御と画一化の傾向が浸透し、
政治的な世論操作や思想統制にまで使われうる。
潜在的な認知過程と自立し意志をもった自立する心。この二つの相互作用が今後の課題。
第八講 無自覚の「意思」-運動制御の生理学と哲学
オペラント条件付け(道具的条件付け) ハトがキーをつつくと餌がでるなどを繰り返すと、その作業を学習すること
古典的条件付け 何かをしながらの刺激を続けると、その刺激だけで反応してしまうようになる。
頭を切り落としたゴキブリから条件づけメカニズムは頭部神経にあるが、条件を貯蔵する
機能は他の神経節に分散している。脊髄など。
第九講 私の中の悪魔-自由意思と「罪」をめぐって
私たちの知覚や判断や行動は自身により直接経験されるもの。
しかし、その経験が何に由来し、起因したかを検討するのは本当はわからない。
自分の判断に確信を持ちすぎてしまっている。
ウイルソン「私たちの感情の実際の起源と、私たちが起源だと思うことは違っている」
「実際に私たちの経験をもたらした認知過程と、それに対して働く自覚的で言語的な解釈システムとはちがう。」
直接経験は本人の特権を認めつつ、前後の因果関係には第三者の特権を認めている。
・整理
私たちは意図がどうであったかが重視される
しかし、責任の検討から明らかになったように、行動由来・理由・動機・原因などの最終的な
特定化を行う際は第三者の観察に特権を与える
責任は自覚化された意図と第三者による因果関係との間で重みづけされて斟酌される
これは時によって変化される体系という意味で時代の人間観と呼べる。
これを理解するため人間観の本質的な複合性を自覚し、根拠を洗い直すべき。
近年同性愛や性の乱れが生じている。これは高密度のラットでも同様の現象が生じている。
そのような環境により生じていたとしても、合理化され、自分の意志でそうしていると
認識する。本人にとっては「密度効果」であることを意識しないし、ある意味でそれは正しい。
これは自分のことは自分が一番よく知っているという人間観と
そうとはいえない人間観との違いからきている。
裁判も意図を重視しているがそれははたして正しいのだろうか。人間観が違うとそれさえもわからない。