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理由などなく、それは突然に起こる。偶然という名の必然、不条理という名の条理。
自分とは関係ないところで、日々は過ぎ、裁判は着々と進み、事務処理がなされる。何の知りようもなければ、知っているひともいない。あらゆる手を尽くしてもそれは中核には何の影響も及ぼさない。それでも事は起き、手続きが進んでいるから、逃れることなどできない。何もしなくても、何かされている。そんな無限に閉鎖的な世界の中で、ただただ生きるより他ない。世界が自分とは別のところで動いているというのに、思わずわたしとは何だ、と叫ばずにはいられないような、全存在をかけた声が聞こえてくる。ニーチェの神殺しやカミュの反抗よりもだいぶマイルドではあるが、考えていることは同じであったに違いない。ただ、カフカにとっては実践的な神殺しや反抗なんてどうでもよかったに違いない。どうでもいいというよりは、いかに実践的な意義を与えようと、在るようにしかない、どうにもならないということを知っていたからかもしれない。
ひとは世界の外に出られない。その外にあるという法だの規則だのにいくら世界内に生きる者が働きかけようと、ただ在るということに何の変化も生じない。その存在が在るということを知って生きるより他ない。それが何かとは問うことも知ることもできない。カフカの生きた考えは、収録されている4つの物語の中で形を変えて展開される。虫や審判、城の下生きる、ザムザもヨーゼフ・Kも、測量士のKもただそこに在るより他ないひとりのひとだ。流刑地に訪れた冒険者がすべて見届けて手記にしたみたい。審判と流刑地にては対をなす。そして、審判で深めようのなかったこの存在の叫びを測量士が引き継ぐ。
カフカが、審判や城を途中で放棄し、処分しようと考えたのは至極当然のことのように思える。審判は裁きが下されるという結末を置くことはできる。しかし、罪のわからない罰を描くことほど、むなしい徒労はない。カフカが考えるように、理由なんてなく、ひとはただ裁きを下される。もっともらしい理由を付けても、それが必然性をもつとは言えないのだ。ただ在ることが在り、起こることが起こる。そうとしか言えない世界で生きている。結局はいくらヨーゼフが何かを成そうとも、すべては起こるようにしかならない。だから、途中で裁判手続きを描けなくなるのは当然だ。伽藍で交わされる門の話がすべてを物語っている。因果律が本質的な意味をなさない必然が審判の世界だ。
では、審判のように見える結末を置かなかったらどうなるのだろう。そこで城が始まる。今度は判決をもって終わる裁判とはわけが違う。測量士Kが測量士としてではなく、何者かにならねばならない。どんなに誰かと関係をもとうと、異邦人であることには変わらない。たくさんのひとが彼のそばを通り過ぎてはいなくなる。どんなに望もうとも、絶対的にすぐれた城の英断が下されるまで彼は異邦人でなければならない。ではいつ下されるのか?彼の死後かそれとも明日かもしれない。なぜなら、なるようにしかならないから。結局はいくら書いても、むなしくなるだけだったのだと思う。
それでも自分の手では処分しきれず、誰かの手に委ねてしまったということによって、彼の生き様が確かなものとして今こうして示されている。なんとも不思議で皮肉なことだと思わずにはいられない。