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書けない、というのは、何らかの文章を書いている人なら、必ず直面する事態であって、それは、毎日文章を書いている人でも、多分身近なことなのだと思う。本当の意味で書けている時なんて、どれほどあるのか、だけど無理にでも書いてしまうから、正確にはわからない。そうやって誤魔化しているうちに、書けないけど書けてしまっていることを、書けていると思い込むようになるのかもしれない。案外そういうものだとも思う。
だけど中には書けないことを書いてしまうという人もいる。谷川俊太郎もその一人だ。彼は幾度となく書けないことを反復する。書けない、と言いながら、書き進めていく。
ただ、面白いのは、絶望の障壁を目の前にして、彼が取る態度だ。その障壁に対して、血を吐いたり、自らを刻み付けたり、そういうことを、彼はしない。むしろ、思いの外簡単に、絶望を諦めてしまう。諦めて、するするとすり抜けていってしまう。相変わらず彼自身は、書けないことの手前で立ち止まっているのだけれど、そうでありながら、障壁をすり抜けた自分を想定し、そこで楽しんでいるかのように見える。
それは一見軽薄かもしれないけれど、そうじゃなくて、誠実なんだと私は思う。絶望だけを書こうとする、そんなものは、多分、殆どが嘘にしかならないだろうから。書かれた嘘を本当のように振舞うのではなく、嘘をどこまでも嘘として剥ぎ取る、それを可能にするための、身軽さなのだと、私は思う。
書けないことを巡って書かれた(と思える)「旅」はすごく良かった。だけど、時事詩篇ばかりの「落首九十九」はあまり好きになれない。私が潔癖症なだけかもしれないけど。詩劇もあまり。ただ、短編小説のような小品は、好きでした。十年早く、触れておきたかった。