紙の本
異国郷に飛び込むための心構え
2017/01/15 12:34
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投稿者:settto - この投稿者のレビュー一覧を見る
わたしの初の海外旅行、学生時代の約1か月に渡る欧州バックパック一人旅を思い出しながら読みました。
初めてローマに着いたときの独特の空気、イタリア人の目の怖さ、”・・歩き方”を現地でもむさぼり読んだこと、その語学力から気軽に周囲と話せないやるせなさ、など何とも言えない雰囲気を経験をしたことがフラッシュバック的に鮮明に思い出しました。
約1か月欧州を周遊し、それぞれの国の空気をつまみ食いして、少しだけわかった気がしていました。しかし、この本を読んで何かを真剣に理解するためには、やはり覚悟をもって郷に飛び込み、必要最低限の語学力でその地の人と勇気をもって会話することの大切さを改めて感じました。
さらに、この作品で強く感じたのは、まだ人種差別が色濃く残っといる時代に、白人のみならず黒人側の立場、言い分を少しでも理解しようと、現地&現場に飛び込んでいこうとする勇気です。また、入っていくと、文化の違いこそあれ、考えていることに大差はないんだな、と。
半世紀以上前の作品から、やはり世界を読み解くためには、最低限の会話力をもって現地に行こう、と改めて思いを強くしました。時代を超え共有できる作品です。
紙の本
アメリカの内面
2018/05/24 15:52
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本を読んで驚いたのは、黒人排除を訴える人と平等主義を訴える人が同じテーブルについていたということである。無論すべての人種差別主義者がこうとは限らないだろうが、例えどんな主張であろうと、言論の自由が保証されるというのは、改めて驚いた。
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「旅行者の見たハエについて」のくだりで、この本の最後の最後に
「たとえば「中共にはハエが一ぴきもいない」といったことを、どのように受けとればいいのかということも、こんどの旅行で学んだような気がする。つまりそれは、その旅行者が中国でハエを一ぴきも見なかったということなのだが、そのような言葉を過不足なしに一つの知識として受けとることを、私はこんどの海外旅行ではじめて体得したように思うのである。」(P215〜)と語る。
唯物論のようで唯物論でないような。
旅のあれこれはマイノリティ観察記のようだが、結局、言いたいことは「旅行者の見たハエ」に結語している。
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[ 内容 ]
アメリカで黄色人種はどのような位置にいるのか――。
一九六○年から翌年にかけて、南部と北部の境にあるテネシーの州都ナッシュヴィルとその周辺で半年間過した作家が、人種偏見、黒人差別などの問題をとりあげる。
新しくて古い国アメリカの現実を柔軟な姿勢と独自の観点とからとらえた、日記スタイルの実感的アメリカ論。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「どくとるマンボウ航海記」の巻末解説でこの本のことを知りました。新書は手に入らなかったので、全集で読みました。
半世紀前に、アメリカのしかも南部に留学することのすごさ。黒人ではないが、有色人種である作者が、ちょいちょい差別されながら生活し勉強していく様子が細かく書かれています。
またアメリカの南部人気質と、その当時の共産主義に対する恐れの大きさに、大変興味を持ちました。
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安岡章太郎、すきだ。すごくすき。前に第三の新人たちの小説をいろいろと読んだときも、安岡章太郎はとりわけ好みだと感じたが、今回はじめてエッセイを読んでほんとうにすきになっちゃった。たとえば村上春樹や柴田元幸のもっているようなユーモアとバランス感覚と鋭い洞察力と寛容さ、そういうものを安岡章太郎も持っているとおもった。
描かれるのは1962年のアメリカ。まず、現代の知識人が海外滞在の紀行文を書くとして行き先が英語圏であるならば、英語力の稚拙さに苦労するというはなしは出てこないだろうとおもった。つまり現代の英語の覇権をおもい、時代性を感じた。そして人種差別について。戦時下に青春を過ごしたこの世代の人間がアメリカに抱く感情は非常に複雑なはずだけれども、安岡章太郎の視点はとてもリベラル。ポリティカル・コレクトがどうとかではなく、自由闊達に、しかし人間味を失わないまま問題に切り込んで行く。62年といえば公民権運動の真っ最中だ。アメリカの人種差別問題への並々ならぬ関心に、黄色人種であり敗戦国の国民であるという視点が伺えるが、安岡章太郎は実際に自分の目で見たことを、感じたことを、ニュートラルに咀嚼している。ニュートラルといっても、指摘しておくべきは安岡の問題意識には被差別側として黒人に自らを投影する気持ちと、黒人と日本人はまったく異なるという至極当たり前の事実と、両方が入り混じっているのではないか、ということ。とくに白人化する黒人への違和感や、黒人自身による自発的隷属に直面したときの反応など、その後文化的植民地と化していく予感漂う時代に生きた安岡にとって切実なものだったんだろうなあ、とおもいます。あとは、何度も言うけれど彼の頭でっかちにならないそのバランス感覚。ひとを多面的に見る姿勢が、すごくいい。そしてそれはひとつの真理を掴み取っているようにおもえる。この本の最後のほうで、アメリカ人も我々とそう変わらない、と書いているが、あの世代が劣等感も敵愾心もないはずはない。そんな紀行文をハエを使ったたとえ話で締めくくる、感性。だいすきです。
なんだかアメリカについての記述がそのまま現代日本について当てはまりそうなものが散見され、わたしたちの社会に影もなく忍び寄るアメリカを相対化していった第三の新人世代の文学というものが、いまのわたしたちのあり方を考えるうえで大変重要であると再認識した。今年のはじめに安岡が亡くなっていよいよ第三の新人は遠い過去になってしまった感があるが、読み継がれるべき作品群を残しているんだと声を大にして言いたい。
あと、江藤淳の「成熟と喪失」をちょっと前に読んだので、安岡のアメリカに対して江藤淳のアメリカがいかなるものであったか、というのが気になった。確信を込めた予感としてわたしの考えは安岡よりだとおもうけど。比較してみたいなあ、と。
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とても面白かった。
昭和時代の日本人の常識のようなものが海外生活と照らし合しながら比較しているのが面白かった。
現在日本では当たり前となっていることも、海外で初めて目の当たりにする日本人の気持ち。
当時、綿菓子が日本には存在しなかったのか、著者は「単体の機械で作る、蜘蛛の巣のようなふわふわした飴」と表現しているところが、良かった。
綿菓子のことを特に意識したことはなかったので、確かに蜘蛛の巣みたいだなぁとちょっとした発見があった。
この本では、基本的に黒人差別が書かれている。
しかしその中で、黒人は白人に差別されているが、我々黄色人種は彼らの眼中にもない…という文があり、私がうすうす今まで感じていたことが書かれていた。