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本書は『今昔物語集』
「小さき稚児を悼みて硯を割りし侍出家せること」
(巻の十九の九話)をもとに作品化したそうです。
「春のわかれ」と聞いて、人それぞれに様々な事を思い浮かべるでしょうが、これほど、胸が張り裂けそうになるわかれは、果たしてあるのだろうか。
大臣(おとど)の側に仕える「青年(若い侍)」が、家宝であり、大臣の「姫君(若君の姉君にあたる)」の婚礼道具として、帝も関心を持っておられた、『硯(すずり)』を誤って割ってしまい、その嘆き悲しむ様子を見ていたのは、「若君」だった。
『そんなに嘆くではない。お前はもう、十分に反省したのだから。もし、人から責められたら「私がいくらおとめしても聞かず、若君がこの硯をとり出してごらんになり、あやまって落として割ったのです」というのだよ。私のせいにすればたいしたことはないが、お前が罪を負えば、かならず、きついおとがめを受けるだろう。いいね、わかったね』
ところが、それを知った大臣は、かけがえのない家宝を割ってしまった、実の子に対し、もう、この子と顔を合わせたくないと言い、早く乳母(めのと)の家にでもつれて行きなさいと、若君を家から追いだしてしまう。
ここで私が思ったのは、家宝はかけがえのないものであるのだろうが、実の子も、かけがえのないものではないのか、ということで、少しほとぼりが冷めたら連れ戻しに来てくれるのではと思ったら、どうやらそうではないようで・・それとも、これは当時の時代性による価値観の相違なのだろうか。
乳母の家で何日も過ごす内に、若君の体調は次第に悪くなっていき、さすがに奥方はもう許してやってくださいませと大臣に頼むが、一向に聞く耳を持たず、それを乳母から知らされた若君は、黙って寝ていたものの、目からは涙がとめどなくあふれ、熱のために上気し、くちびるをあえがせて、おえつをこらえていた。
そして、若君のつぶやき・・
『あけぬなる鳥の鳴く鳴くまどろまで子はかくこそと知るらめや君』
(明け方になって鶏たちが鳴きかわすまで眠ることができないほど、子の私が病気に苦しんでいることを、父母はご存知だろうか)
これを聞いて、乳母はいても立ってもいられなくなり、再度手紙を書いて奥方に届けたところ、見るなり泣きふし、その渡された手紙を見た大臣は、ようやくハッと目が覚めた思いになり、奥方と乳母の家に行くことに。
『車の中で奥方の肩を抱きながら、あまりに強くしかった我が子が哀れで、あのとき、このときの愛らしい若君のお姿が目にちらついてなりませんでした。追い出したとき、ふりかえった顔の、何かものいいたげだったまなざしが、大臣の目に、とくに焼きついていました』
『百千万の金銀であろうと宝であろうと、何であろう。ただ、あまりにも心ない人間だと思ったので、腹立ちのあまり追い出してしまった。このいたいけな愛らしい子を、私は何に狂ってあんなにしかりつけ、追い出したのだろう』
この時代にも、このような思い・・金銀や宝以上に、いたいけな愛らしい子だと言ってくれる親の思いがあって、良かった。
しかし・・・
『睦ごともなににかはせむくやしきはこの世にかかる別れなりけり』
これは、後悔先に立たずや、子を信じなかった親が悪いと思う向きもあるのかもしれないが、それだけでは無いのだと私は思い、無慈悲な書き方をしてしまうと、こうした事も人生では起こりうるのかもしれないし、そうなったときに、人として親として、どう生きていくのかを問い掛けられているようにも思われてきて・・しかし、これはあまりに酷だと感じたし、なんという物語を考えるんだといった気持ちにもさせられた。
そして、早速、それを問い掛けられるような事態が起こる。
『涙川洗へどおちずはかなくて硯の故に染めし衣は』
「どうぞご存分に──」
(何と、何と、あの子が割ったのではなかったのか)
「おのれっ」
私が最も心を揺さぶられたのは、この後の展開で、これは、加害者を前にした被害者の親の心境に近いものを感じられて、何とも言えないものがあるが、私はここでの大臣の行動を見て、ああ、真に若君のことを、かけがえのない愛らしい子として、死ぬまで思っていくのだろうなと強く感じさせられ、確かにかつての若君に対する振る舞いには、酷くやるせないものがあったが、それでも人は生きている限り、人として生きていかなければならないんだなということを、身を以て教えてくれたようで、生き様という言葉を思い出したし、また、逃げることをやめて、自らの人生と向き合う事を決めた青年に対しても、確かに許せないとは思うのだが、そこに若者のやさしさが密やかに佇んでいるのを目の当たりにすると、心苦しくも泣かせるものがあり、切ない。
ただ、私が唯一気になったのは、
『あまりにけがれのない人は、この世に長くはとどまれないのだろうか』
という台詞で、これは酷すぎると思い、たとえ断定的な表現でないとしても、こんなこと言って欲しくなかったが、それだけ称えているということなのだろう。
本書は、以前読んだ『シャエの王女』同様、「槇佐知子」さんの上品で美しい文体と、やさしい表現が印象的であると共に、「赤羽末吉」さんの絵は、『シャエの王女』以上に、心に響くものがありました。
それは、表紙の、その穏やかな人柄が覗える若君の絵の無駄のない美しさもそうだし、彼を取り巻く、幾重にも重なり、ほのかに混ざり合うかのようで、心落ち着かせる、和の色たちの共演が素晴らしく、更にその枠外には、押し花のごとく香り立つようなデザインが、とても爽やかで印象的です。
また、見返しはそれぞれ、赤と薄紫が一面に塗られており、これは大臣と若者の心理状態を表しているようでもあるし、人間の二面性を表しているようでもあり、これまた印象的。
そして、本編における赤羽さんの絵には、おそらく今の年齢だからこそ、深く感じ入るものもあるのでしょうが、全てがそれぞれ異なる和紙のようなデザインを背景にして、その場面場面の心理描写を、淡く儚い色味で繊細に表しているように感じられて、『物忌みの日』の夜の絵には、黒みがかった藍色の月(周りには燃え立つような紫の炎が)の非情さと、その下にある乳母の家の物寂しさとが、若君���心の悲しみを更に増していくようで、たまらないものがありましたし、逆に、ある外の風景には、黄金で描かれた草たちのささやかながらも確かな存在感と、丁寧に重ね、霞のように微妙に混ぜ合わさったような、なんともやさしく儚い、黄色と青色のコントラストに、とても気高く美しいものを感じました。
これらの赤羽さんの絵を見ていて、改めて気付かされた事は、おそらく今昔物語集ならば約九百年前になるであろう、日本の絵の持つ、控え目ながら情緒があり、そして儚く美しい、そんな和の文化を創り出した、ご先祖様が私たちにはいたのだということの、心からの歓喜の叫びであり、こんな美しい文化に支えられて、今の日本があるのだなと思うと、日本人であることに、よりいっそうの誇りを持てそうで、それに気付けたことが、本書を読んで最も嬉しかったことです。