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エピキュリアンといえば快楽主義者のことだが、快楽の意味は本来は現在考えられているものよりもストイックである。本当の快楽は精神的快楽だ。
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快楽主義っていうのは、本来は
処世術・下らない出来事から
身を守る術って事なんだ、そうなんだ(笑)
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エピキュリアン、快楽主義者、なんと魅惑的な響き。でも早合点をしてはいけない。
世俗の欲や成功とは離れたエピクロスの庭園において、唯一の正しいこととは、心の平穏のみである。
復刊なった本書を繙くこと、これもまた「快」だろうか。
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「飢えないこと、乾かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけてはゼウスとさえ競いうるであろう。」「質素にも限度がある。その限度を無視する人は、過度のぜいたくのために誤つ人と同じような目にあう。」物があるなら愉しめばよい。無ければ無いでも幸福だ。世間に煩わされず心の平穏を目指すという意味では荘子や仏陀に近いが、こちらはやや世俗的で大乗的。本来の意味でのエピキュリアンで有りたいものです。
紀元前に思索一つでたどり着いた原子論もすごい。
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[ 内容 ]
ギリシアの唯物論哲学者エピクロスの現存するほとんど全著作を収録した。
人間にとって最高善としての快楽は精神的な楽であって肉体のそれではない。
真の幸福は外物にとらわれず、また煩わされず、死の恐怖から免れた無動、平静の精神状態であるとするエピクロスの哲学は、本巻中の諸編から直接に汲みとることができるであろう。
[ 目次 ]
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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快楽主義と言われた哲学を提示したエピクロスのテクスト集。彼の原子論をまとめたヘロドトス宛の手紙や現在の科学をするうえでの方法的思想があるように思えるし、断想的な教えは現在の生活においても通じるものがある。
この思想がガッサンディなどの経験論者にも影響を与えており、近代の西欧思想の一つの枢軸となってもいる。
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父が病床で残したメモにエピクロスの言葉が書いてあった。
人生の目的は心の平安である、と。
どんぴしゃりでは書いてなかったけど、「正しい人は、最も平静な心境にある、これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている」とか、「われわれは、人生の真実の目的(肉体において苦しみがなく、心境において平静なこと)と、…」といったことが散見される。
肉体においてはおそらく大変な苦しみを抱えてたのであろう時に、せめて心境の部分にフォーカスしてたのかなぁ。しんどかったね、お父さん。
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エピクロスの現存するテキストをすべて集めた本.
最初にあるのは彼の哲学を要約した三つの手紙.
最初の二つは自然学と天界・気象界に関する手紙で,われわれがもつ現代の自然観とあまりにかけ離れているし,誤った仮定からはどんなに緻密な思考をしようとも,正しい演繹は得られないので,哲学史をやっている人以外にはあまり意味のあるものではない.
三番目の手紙は倫理に関するもので,これは現代人にとっても十分読む価値がある.死の恐怖から逃れ平静な心を保つ方法が語られる.わずか10ページ.これを大きな字でやさしい言葉で書けば,現代にも通じる生き方指南本が一冊出来上がる.
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ルクレティウスの本に感動して、デモクリトスまで遡って、エピクロスへ。
エピクロス、素晴らしい。
ルクレティウスの本が「大摘要」に基づいたとされており、「ヘロドトス宛の手紙」は、その要約というか、「小摘要」と呼ばれてたものである。
簡潔にまとまってて良い。でも、ルクレティウスで「大摘要」に触れてから読むのが良いかもしれない。
まぁ、ルクレティウスから入ったので、内容的にはおおよそ知っているものである。
感動したのは、「ピュトクレス宛の手紙」。
自然研究の目的とは?心境の平静と、確固たる自信のため。
その方法とは?人間の感覚を信じ、同時に、人間に観察可能なことと観察不可能なものがいずれであるかを研究し、全てを単一に説明できるなどと思わず、いくつかの可能性からひとつを選ぶのではなく、いくつかの考えが見出される、ということを認めるということ。
この方法がヤバい。
これが懐疑主義にも繋がってしまうのだが、プラトンやアリストテレスへのアンチテーゼとしてこれほどのものがあるだろうか。
ただ一つの真実を解き明かそうということが目的であったプラトンやアリストテレスに対し、心の平静を目的としたことによって、この境地がうまれる
古事記と日本書紀の編集方法の差なんかを思い出す
心の平静、アタラクシアをこそ目指す。そのために世界を原子論でとき、死後の不安などをなくす。
四苦から逃れることを目指した仏教とも共有できる部分がありそうである。
いやぁ、驚いた。
エピクロス!素晴らしい!!
2018.12.25.
松岡正剛の「遊」にエピクロスが言及されてることを、これまた「千夜千冊」のエピクロスの夜で発見して、久々に読み直す。
驚いた。当時の僕を驚かせたいくつかの考えや、エピクロスを読みながら既視感に陥っていたいくつかの言葉にはここで出会っていたのだ。
2018年、哲学史を読んで琴線に触れ、たまたま中野のブックファーストで出会ったルクレティウスに導かれたエピクロスが、ここに円環してたものだったとは。
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プラトンの創設したアカデメイアでも学んだエピクロス。
エピクロスはそこから独自の哲学を展開し、
プラトンやアリストテレスとは異なる思想を打ち出している。
非常に多作であったと言われるエピクロスの著作は今やほとんど失われており、現存するほぼ全著書がこの本には収録されている。
翻って、
同じアカデメイアで学んだアリストテレスの著作は、何故に現在もこれほどまでに現存しているのか?
当時はエピクロスもアリストテレス同様、時の人であったような印象を受けるが、
同じぐらい著名であったとするならば、なぜ残った著書の量に差が生じたのか?
しかもエピクロスは300を超える著作を巻物で書いたにも関わらず。
その最大の理由は、
学校をつくったからだろう。
アリストテレスは、
リュケイオンという学校を創設し、アリストテレス哲学が体系的に組織の中で残る素地をつくった。
きちんとした組織を作りまた世界中からそれを学びに人がやってくるので、その学びも後世に残りやすかったのだろう。
中身の違い以上に、
保存される環境にあったかどうかが残るか消滅するかの最大の鍵であったように思える。
エピクロスの哲学の内容的には、
プラトンの「哲学する生き方」に、
さらに「自己充足」として、個人にフォーカスがあたり、社会情勢に関わらず、自身の内に充足を得られるような生き方を哲学することに重きが向けられる。
それはマケドニアによって、ギリシャポリスが崩壊し、ついにソクラテスの時代から衰えていったギリシャが事実上の崩壊をまざまざと見ることで、生まれてきた哲学なのだろう。
エピクロスの哲学が、
エピクロスの哲学として生まれた理由が、
エピクロスの生きた時代背景を知るとよくわかる。
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残っているエピクロスの著作の寄せ集め。
快を人生の目的の第一に考え、
原子論を中心とした形而上学を展開している。
プラトンのアカデメイア学派、アリストテレスの逍遥学派、
ゼノンのストア派と並ぶ四大学派のひとつだったらしい。
自然学・形而上学は現代人から見れば昔の人の考えていたこととして、
上から目線で眺めてしまうが、古代なのに鋭い見方をしていたことに驚く。
快楽主義として誤解されてしまったらしいが、
「思慮深く美しく正しく生きることなしに快く生きられない」
と言う言説は我々が想像する快楽主義とは真逆の考えであり、
そして死は原子への分解であり、原子は感覚を持たないとしており、
死後の世界云々という話を展開しないのにも驚く。
快楽主義ではなく現実主義・個人主義ではないか。
解説を見る限り他派と激しく攻撃し合っていたらしく、
その悪評が原因でそうなってしまったのかも知れない。
エピクロス主義は早すぎた思想だったのだろう。
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「エピクロスの生涯と教説」これが興味深かった。2300年前の人々が子供じみた嫉妬に、囚われていた事を想像させる。いや、現代と変わらないか。
人類の成長程度を、感じることの出来る書。
短くて手頃。
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若い頃読んだ本の振り返りシリーズ。
ただし、本当に読んだのではない。読む前に、快楽主義という後世の人が付けた分類のイメージに邪魔されて、読むに至っていなかった。快楽を求めるというのは、いかにも堕落的で、これが興味があると自分で思うことも憚った。若い自分は視野が狭く暗かったなあ。
快楽と言っているのは、自分のポリシーやそれを純粋に突き詰めて生活することである。ストア派では、道徳や人の役に立つと言った客観的な価値を拠り所にして、自分の目標を設定して実施するが、エピクロスでは、自分の感覚や信念に忠実であるところから出発する。若い頃は、ストアの目標を設定しろ、あるいは目標に邁進しろというのが嫌いで、なんとなくエピクロスに惹かれていた。目標なんてわからないし、変わるものだ。
この見方からすると、エピクロスは現代の寵児となりうる。ティール型の組織管理はどうだ。アジャイル型のプロジェクトマネジメントはどうだ。他人と折り合いをつける必要があったときに、エピクロスは「隠れて生きよ」というが、ティールやアジャイルはフラットなコミュニケーションをせよという。とはいえ、考えの異なる人間とコミュニケーションするのはストレスである。上手に隠れるほうが長生きできるかもしれない。10代の頃から思ってきたこと、近頃思っていること、そしてギリシャの古典が、少しだけだが繋がって見えるようになった。
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肉体に苦しみがなく、霊魂において平静である。それで十分充たされている。快とは道楽者の快でも、性的な享楽にある快でもない。われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる。われわれが快楽を必要とするのは、ほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時、我々はもう快楽を必要としない。
人間の死は単なる原子の離散であり、苦痛も離散する。死の苦痛はない。死を恐れる必要はない。死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い。
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2300年前のギリシャの哲学者エピクロスによる説教。
自然論から始まり、科学がこれほど発展していない当時の世界で、原子や宇宙の構造をこれほど深く思考していたのかと考えると、鼻血が出るほど興奮した。
そして、快楽主義者と揶揄されるエピクロスだが、実際には全く違う価値観だということが分かった。彼云く、人間の苦しみには際限がなく、快には限度があると。お腹がすいておらず、乾いておらず、寒くない。この三つがあれば人間は最大まで快楽に浸れる。逆にお金がありすぎて色々なものに煩わされるほうが人は苦しみ続けることになる。質素な生活にも幸福を感じて、苦しみから逃れよと説く。
どこぞの宗教みたいな哲学だが、これも2300年前の人物が考えていたと思うと大興奮である。快楽主義者と誤解されてきたエピクロスの言葉。
「性交が人の利益となることはなく、もしそれが害を加えなかったならばそれだけで満足すべきである」
実際これは真理な気がしてしまう。