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「人生談義」Epictetus
教育は、道理に合う合わないの先取観念を自然本性に合うように個々の事物に当てはめることを学ぶ為。
我々は最高のものに到達する望みがないからと言って、心を使うことをやめはしない。優れていないとしても劣ってもいない。
徳の仕事はゆとりを持つこと。
旅行の本当の目的は、自分の生から、苦悩や悲劇、不運、不幸を取り去り、死とは何か?、追放とは何か?、牢獄とは何か?、毒とは何か?という事を学ぶように心すること。そして牢獄の中で、「親愛なるクリトーンよ、もしそれが神々のお気に召すならば、そうなるがいいのだ」と言う事ができる為。
もし、自分の中に生起した出来事を見る能力と感謝の気持ちとを持っているならば、この世に生起する各出来事の摂理を讃える事は容易である。もし持っていなければ、その出来事の有用な事が見えない。
植物や我々の肉体は、全体に結び付けられて共感している。我々の霊魂は神の部分であり一片である。
追放、牢獄、捕縛、死、悪評は善悪無差別な意志外のものである。
自由人のみが教養があるのではなく、教養がある人のみが自由なのである。教養とは、我々は神の部分である事を知る事である。
君は金銭や女や子供や僭主や僭主の友人を主人としていないか?
裁判所へ行こうとしている君は何を保持し、どの点で成功しようとしているのか?もし君が自然本性に従っているならば、全ては君に安全であり、君に都合よく、君は困る事はない。裁判で得られる意志内の価値はない。
君は人間である限り意志以上に優れたものを何も持たない。意志は隷属も従属もしない。そして君は宇宙の市民であり、その部分である。
君が欲望を富に、忌避を貧に委せれば、それを得られなかったり出合ったりするだろう。つまり、健康、官職、名誉、祖国、友人、子供等、意志外のものに委せれば君は不幸であるだろう。
真にして明らかなものは、それに反対する者でさえ、どうしても使用しないわけにはいかない。つまり、ある事が明らかである事の最大の証明は、その反対者ですらどうしてもそれを使用しないわけにはいかない事を発見する事。
人を選ぶ時、彼らが自身の利益をどこに置くのか?意志外に置くのか?意志に置くのかだけを吟味すればよい。
本来の視力、聴力、言語能力等を妨げるようにできているものは意志外のもの。
言語能力等、他のものがより優れているからといって、それと違った者が供する用途を軽蔑してはならない。もっとも価値が高いのは意志能力であり、それは皆等しく持っているから。
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ストア派の思想の源流とされる書。
ストア派の祖であるゼノンの著書は残っておらず、
影響力が最も大きいとされるため重要視されているらしい。
その割に絶版であり、プレミアムが付いている。
他の出版社からも同じ訳者の本が出ているが抄訳である。
訳に問題があるという評価をしばしば見かけるが、
個人的な意見としては1958年の訳なので、
読みやすくは無いがそれほどひどくはない。
と、ここまで書いて知ったのだが、
2020/12/17に新訳が出るそうである。ぎゃふん。
それはそれとして、全ての能力の中心にあるのは、
理性能力であり、すなわち判断力だとしており、
与えられない物は欲しない。奪われたら感謝して手放す
ということを神的な法則としているあたり、
流石ストイックの語源になった思想であるが、
麦や馬が人間のために存在しているという考えは、
昔の人の考えたことだなあとも思った。
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セネカやマルクス・アウレリウスと並び称されるストア後期の哲人エピクテートスの語録、提要、断片からなる、人間味あふれる哲学書。