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「ー」
即時的に善きもの、善きもののゆえに善くあるところのもの
子供も幸福ではない
中庸は状態
法律の問題は本性が原因
ずっとニコマラス倫理だと思っていました。
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現代人から見ても決して常識はずれではない、高度に洗練された幸福論です。2300年以上前に書かれたとはとても思えない。しっかりと読むコツは、独特の諸用語が持つ意味を、特に用語と用語の関係性に注意して、訳注を参考に着実に捉えていくことだと思います。たとえば「情態」と「性状」という2つの語は、日本語的には似ていますが、原語においてはむしろ対になる概念ですので、注意が必要です。
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(01)
倫理を分析し,愛(*02)や政治への接続を思索した書である.特にそれはあるべき個人について語られ,徳や卓越性とされるアレテーが人間の状態をよりよい善に漸近させることを至高としている.もちろん社会における人間ということが前提となっており,その共同性や他者との関係から,主体のあるべき姿を探ってはいて,例えば,人間というあり方を,獣性(テーリオテース)や奴隷状態から峻別し,家政的(オイコノミコン)なものから政治や政治の場としての都市を抽出し,徳のある個人をこの場にある人間として考究している.
ゆえに,現代の自己啓発本やセミナーなどの主張に,見合うような字句も本書から引っ張ってくることもできるのだろう.中庸というバランス感(*03)を大事にして,快楽,名誉,財貨,そして知や学のちょうどいい加減について語りかけている箇所は,現代でも実用的であるかもしれない.
(02)
親愛(フィリア)について考究された第8巻と第9巻はとりわけ面白く感じられる.この親愛は,男女間の性愛や家庭的な愛とは,かなり趣を異にする愛であり,同性間や仲間,あるいは国家的な愛や,知への愛(フィロソフィー,哲学)へも横断するような概念でもある.いってみれば古代的な人間関係の単位や集計として.また政治学(そして戦争学)と倫理学の接着剤として,かなり重要な提起であろう.
知についての,直知,知慮,智慧,学などの整理も,近代の科学や学問を考える上でもおさえておきたいところである.また,「棟梁の位置にある者」としての歩きテクトーンも登場し,社会や善にある建築が標榜される.おそらくギリシア哲学の再考から始めたアーレントも語っている制作や活動への言及もある.運動の問題は,現代思想にも通じ,映像学への応用が可能だろう.そして,倫理にとっても重要な状態でもある観照(テオーリア)は風景学の視点場をなすに違いない.
(03)
バランスをどのあたりに調節するか,というのは実践であるとともに,今がどのあたりにあって,バランスされる全体を見通せる認識が必要であり,著者はその認識の方法や状態として知や学を位置付けている.
しかし,エウダイモニアとされる幸福な状態や,そこから得られる幸福感については,ダイモンの存在を根拠としており,バランスは,知や学が水平的なパースペクティブにあるとすれば,ダイモンとの垂直的で直接的な関係によって人間が神に垂らされているような感覚と認識が想定されている.この神学的な場面と倫理という主題はいつも合わせて考えたい問題でもある.
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「二コマコス倫理学(上)」Aristotle
人は自分の知っている事柄については優れた判断をする事ができる。全てにわたって教育のある人は、無条件的な仕方においてのよき判断者である。
善には、外的な善、身体に関する善、魂に関する善の三つがあるが、魂に関する善が最も優れた善である。
幸福の為に決定的な力を持つのは卓越性(アレテー)に即する活動に他ならない。
幸福はあらゆる意味において究極の目的でなければならない。
アレテーには知性的、倫理的の二通りがあり、前者は教示に負うものであるから経験と歳月を要し、後者は習慣づけに基づく。
節制も勇敢も過超と不足によって失われ、中庸によって保たれる。
然るべき時に然るべき事柄について、然るべき人に対して、然るべき目的の為に然るべき仕方においてそれを感ずる事が、「中」的にして最善であり、徳である。
全ての活動(エネルゲイア)の目的は、その活動をせしめる時の状態(ヘクシス)の目的とするところと同じ性質である。
豪華な人は識者、達人のようなもの。ふさわしいところを観てとり、壮大な出費を調子の取れた仕方で果たす。
技術(テクネー)は好運(チュケー)を愛し、好運(チュケー)は技術(テクネー)を愛する。
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特に後半は理解できなかった。
新しい訳を読むべきか…。
1巻:
最高善は幸福である。
あるいは,人間の魂(プシュケー)の活動における究極的な卓越性である。
この魂の活動は,「ことわり」を伴うものである。
幸福な人とは,究極的な卓越性に即して活動している人,そして外的な善に充分恵まれている人である。
最高善は政治の目的でもある。
「富は何かのために役立つもの、それ以外のもののために存するものでしかない。」(23頁)
「人間というものの善とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動である」(33頁)
2巻:
卓越性には,知性的卓越性と倫理的卓越性(徳)とがある。
倫理的卓越性は習慣づけ(エトス)によって完成する。
倫理的卓越性は,快楽と苦痛について最善な仕方で行為しうるような状態(ヘクシス)であり,悪徳はその反対の状態である(62頁)。情念や能力ではない(68頁)。
卓越性とは,そのよき状態を完成し,その機能をよく展開せしめる状態である(68頁)。
卓越性は,超過や不足を避け,中(メソン),あるいは中庸(メソテース)を目指すべきである(70頁)。
「年少のときから或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということとの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれがすべてである。」(58頁)
3巻:
それぞれの徳に関する各論。
勇敢,節制
「「選択」ということは、われわれの力の範囲内に属することがらについての思量的な欲求であるといわなくてわならぬ。」(98頁)
4巻:
各論の続き。寛厚,豪華,矜持,穏和
「恥辱の生ずるごとき行為をそもそもなすべきではないと思われるからである。すなわち羞恥は、あしき行為について生ずるものである以上、よきひとに属するものとはいえない。」(168頁)
5巻:
正義、「宜しさ」について。
「正義がしばしば徳のうちの最もすぐれたものと考えられ……完全な徳にほかならない」「それがことさらに完全であるというのは、これを所有するところのひとは徳を他に対してもはたらかせることのできるひとであって、単に自分自身だけにとどまらないというところに基づいている。」(173頁)
6巻:
学,技術,知慮(実践的なもの),智慧,直知について
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読み始めて慣れるまでは、やたらとややこしい…
ああだこうだと分類されてなかなか頭に入ってこなかった。だがもう兎に角のところ読めばいいやって通読を心掛けたらなんとか読めた。
古典的哲学書だと思ってたから敬遠してたけど、意外にも実用書ぽくってなんだか得した感じ…(^^ゞ
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アリストテレス『ニコマコス倫理学』岩波文庫 読了。幸福とは卓越性(徳)に即して活動すること。徳とは思量選択に基づき随意的な性質を有する中的状態すなわち中庸。各論点が詳細に検証されているが、自分でも中庸はどんな状態か思考すべき。彼の論証過程をきちんと理解したいが、そこまでの余裕なく
2011/01/19
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今年前半、プラトンを1冊、ギリシア悲劇を1冊と読んできたので、よっしゃ次はアリストテレスだ!
というわけで手に取ったのがこちら、『二コマコス倫理学』。
さて、はりきって読み始めてみたものの。
ううーーん、これ、難しい(泣)。
書かれている内容が難しい、というのではなく、もはや目で文字を追っても、脳が意味をとらえられなくて、ただただ文字が流れていくか、そのうち注意力を失って気がつくと眠りに落ちているかのどちらか。
うん。これは、あれだな。
自分がその本を読むための前提となる土台を有していないにもかかわらず、読んでしまった時におこる現象だなあ。
いきなり原著から読まないで、入門書か解説書にすれば良かったかなあ、と少し後悔しましたが、せっかく買ったので、わからないことを気にせず、割り切って読むことにしました。
こういう場合の私の割り切り方とは、文章を理解しようとせず、ただただ文字を一定のスピードで、あまりじっくり読むと眠くなるので早めに、淡々と流していきます。
そして、たまーに「お、なんか面白いかも?」と思う一文に出会ったら、素直に喜ぶ(笑)。
川底から砂金を見つけたかのように、その一文をゆっくり眺めて味わいます(砂金、探したことないけど)。
そんなこんなで、なんとか辿り着いた上巻のラスト。
この調子で、爽やかに、下巻に進みたいと思いまーす(汗)。
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「「人間というものの善」とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての・・最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動である」(P41)
さて、それではそのような善を実現するための魂の活動とはいかなるものなのか。あらゆる事象に対して、バランスを有した中庸の状態に裏付けされた行為。一言で表すとこうなるだろうが、表現は簡単なように見えて読み終わるとよくわからない、という部分が多い。
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2300年も前の古典とは思えない、金言の数々。特に下巻に感銘。たぶん2割くらいしか理解できてないけど、この年齢になって沁みわたる言葉が多かった。
「『人間というものの善』とは、人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性に即しての魂の活動であることとなる。」
「…、最初に観ておかなくてはならないことは、こういったものは欠乏と過超によって失われる本性を有しているということである。ちょうど、体力や健康の場合においてわれわれの見るようにー。というのは、運動の過超もその不足も、ともに体力を喪失せしめ、同じくまた飲みものや食物が多きにすぎ少なきにすぎるのは健康を喪失せしめるものなるに反して、それが適正ならば健康を創成し増進し保全するのだからである。節制とか勇敢とかその他もろもろの倫理的な徳の場合においてもこれと同様である。すなわち、あらゆるものを逃避しあらゆるものを恐怖して何ごとにも耐ええないひとは怯懦となり、また総じて、いかなるものも恐れず、いかなるものに向かっても進んでゆくならば無謀となる。同じくまた、あらゆる快楽を享楽し、いかなる享楽をも慎まないひとは放埒となり、あらゆる快楽を避けるならば、まったく田舎者のように、いわば無感覚なひととなる。かくして節制も勇敢も『過超』と『不足』によって失われ、『中庸』によ
って保たれるのである。」
「『選択』も『思量』も同じことがらについて行われるが、ただ、選択されるのはすでに決定されたものにほかならないという点が異なる。思量に基づいて決断されたことがらが選択されるのだからである。…
『選択されたことがら』とはわれわれの力の範囲内に属することがらのうち思量を経て欲求されるところのものであるとすれば、『選択』ということは、われわれの力の範囲内に属することがらについての思量的な欲求であるといわなくてはならぬ。われわれは思量することによって決断したとき、この思量に基づいて欲求するのである。」
「…知慮なくしては勝義における善きひとであることはできないし、また、倫理的な卓越性ないしは徳なくしては知慮あるひとたることはできないものとなることが明らかとなった。…知慮一つの存在するところ、同時にまたすべての徳が存在するだろうからである。…『選択』ということは、知慮なくしても、徳なくしても、正しい選択たりえないものなることが明らかである。」
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ウェルビーイングを考えるならばまずこの本を読むべきだろうなあ。まずこのひと言。噛めば噛むほど良さが出てくる本だと痛感した。
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古代ギリシアにおける代表的な倫理学の名著。
万人の人生の究極の目的は、「幸福」すなわち「善く生きること」であるとし、このともすれば曖昧な概念を精緻に分析。
ルネサンス以後も、西洋諸国の思想、学問、文化、人間形成に多大な影響を及ぼした。
(※本書の要旨を一部引用。)
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2500年前に書かれたアリストテレスによる幸福論。「幸福(エウダイモニア)」「徳(アレテー)」「愛(フィリア)」などについて述べられており、現代においても有益な示唆を与えてくれる。
ただし、古典らしく非常に婉曲的かつ冗長で読みにくい。頭から文を追うと全く内容が入ってこないので、キーワードを拾っていく形で一応通読できた。
「徳」とは非自発的な状態であり、「中庸」を目指すことで達成される。「徳」とは情念でもなく能力でもない、「状態」である。と理解した。
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2300〜2400年?も前に生きていた人が書いた(講義した)ものとは思えない。資本主義も新自由主義も存在しないし国家(共同体)や経済の規模や概念も異なる、そんな時代での考察だけど、現代に生きる僕でも充分に共感や気付きを得られる内容が多かった。
徳のうち技術に関する話は自分の仕事感、また友愛(フィリア)に関する話は、自分の職場や家族との人間関係を改めて考えるきっかけになった。
ここまで共感出来るのは、この本が人間の本質を突いているからだろうか?それともアリストテレスの影響も受けつつ長年掛けて形作られた倫理・哲学世界の延長線を僕が生きてるからだろうか?
答えはわからないけど歴史や古典をもっと勉強したいと思われてくれる一冊だった。
因みに本の読解は難しかった。NHKの解説本(100分で名著シリーズ)やネットの解説を頼りながらなんとか読み進めた。
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「万学の祖」の異名をもつアリストテレスによる2300年前の倫理学の聖典。
弟子のニコマコスが執筆した本書は、人間にとっての幸福とは何かを説き、後世の哲学界に深刻な影響を及ぼしたとされている。
人間のにとっての究極目的、最高善は、「それ自身として常に望ましい善であって、他の何かゆえに望まれる善ではない」のであり、それこそがエウダイモニア「幸福」であると。
他にも、
苦悩に対して無感覚であるよりも、その苦悩を感覚し、平静に耐え抜くことができる姿勢そのものは幸福である(ストア派的?)
知識を有する者が、必ずしも知識を持たない者よりも実践において役にたつ場合があり、その差を生むのは経験である(経験主義的?)
など、上巻だけでも以後の西洋哲学の源泉をつぶさに掬い上げることができた。
確かに、師匠のプラトンが観念的であるのに対し、極めて実学・実践的な思想が描かれている。