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倫理学を学ぼうと思ったらまず最初に必読の本。古代ギリシアにおいて最初の倫理学集成。ニコマコスが書いたのではなく、アリストテレスが書いたものを息子ニコマコスが編集した本です。
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刑法の責任論を思い出す。このあたりが出発点になっているような気がするが、連綿と繋がっているわけではないんだよなあ、これが。
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おもしろい。抽象化は哲学。これに全部詰まってる。これらの言葉を念頭に置いて倫理観を持って生活すれば人格者になれる。なりたい。結局は人間にちとって、知的活動(=徳の追求)に勝る楽しさはないんだなと思う。自分は自分がつくり上げるもの。知慮を念頭に置いた習慣行動が人格を変える。
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人間は本性上市民社会的なものにできているからである。
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人間は、
社会からその痕跡を消し去ることは現実困難である。
ところが、
ある社会では指先ひとつで一瞬にして一切を消し去る。
それに気づいたのは自ら消えてからだ。
私はもはや存在しなかったも同然である。
記憶?
記憶に残る。
いや、皆あれは夢であったと思うだろう。
夢に違いないと。
あれほどまでに一瞬にして消滅する自己。
さみしい。
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現代社会はアリストテレスの思想を良くも悪くも反映している。
良い→世界を深く知ろうとする科学や宗教の試みは生活を向上させてきた。
悪い→現代社会。
紀元前の人なのに不思議だ。それともこれは人間がずっと変わっていないって証拠かな。
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改めて言うまでもなく著者アリストテレス(BC384-322)は、誰でも一度は耳にしたことのある偉大な哲学者だ。その数多くある優れた特徴のうちの一つは、「ものごと」の「分類」を細かく行なう事と、その重要性を教えてくれたことにあるだろう。本書にもそれが見て取れる。つまり、「巻」、「章」の区分が、きめ細かい。
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経済学の教授が講義の中で、正義とは何かを考える上で必読の書の一つとして挙げていたのが、このアリストテレスの著作であった。
「徳」「善」等、キーとなる言葉の意味付けが、現代日本社会における意味付けと解離があるため、文脈の中でどのような意味付けで語られているかを考えながらでないと読めない。そのため意味が頭に入ってくるまでに時間がかかった。
中庸ということをアリストテレスは徳として説いているが、仏教や儒教でも「中庸」はキーとなる概念であり、その共通性が興味深い。
かのアレキサンダー大王も、師であるアリストテレスからこのような講義を受けていたのであろうか。
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授業で扱った。
初めて倫理学として成立した本がこれなら、これ以後の倫理は全部ここに帰結するのではないかと思ったほど完成されているように感じた。それ以後の倫理学を知らないので何とも言えないけれど。
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オフィス樋口Booksの記事と重複しています。記事のアドレスは次の通りです。
http://books-officehiguchi.com/archives/4062787.html
上巻では善・幸福・徳について、下巻では抑制と無抑制・快楽・愛について議論されている。これまで、大学の一般教養の講義で二コマコス倫理学の話題が上がっていたが、講義で二コマコスというのが人の名前であること、アリストテレスの息子であるということを初めて知った。この本は文庫本であるが、専門的な知識が要求される。専門的な知識については、私の今後の課題としたい。研究メモについてはオフィス樋口総合研究所で配信したい。
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プラトンよりは断然すき。しかし倫理を語るということがいかに難しいかがわかる。
さっき読んだ数学者と芸術家の本は数学と芸術が学問の最上階にあると語っていて、アリストテレスはすべての目的を統合するのは政治だといっていて....結局大事なのは自己肯定でありナルシスト感なのか、という結論に達した。
自分がよければ、それで自分がその仕事をがんばれるならそれでいい。それがいい。
でも自分にとってもっと知りたい、その先がありそうなのは数学と生物と現代アートかな。
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目的論的な論法が鮮やか。
・最高善=究極の目的
・善=幸福(エウダイモニア)
・幸福=徳、卓越性(アレテー)を発揮すること
・アレテーを十分に発揮して幸福であるためには、究極の生涯=長期にわたる安定した生活を必要とする
・富や権力といった「外的な善」は、アレテーを発揮するために必要であるが、あくまで手段にすぎない
・幸福は学習や鍛錬によって得られる
何をもって善となすか、は結局のところ人によって「見えかた」が異なるのではないか?という重要な問いが立てられている(p134)。アリストテレスの回答は「徳も悪徳も随意的(本人の意思による選択)であるから、悪徳をなす人に責任がある」というもの。つまり人が身につけるべき徳がいかなるものかはあらかじめ決まっていて、悪徳をなす人は善い人になるための努力が足りないってこと?アリストテレスもまたプラトンのように生得的な「善のイデア」的なものを想定しているのだろうか。
以上の重要な論点は本書第1巻〜第3巻第5章に書かれている。中庸の徳について語られる部分(第3巻第6章〜第4巻)は、ほとんど世間一般の認識を記述しただけの“エッセイ”的なものであり、正義論的に参考にすべきかは疑問。
分配的正義・矯正的正義など「正義」がいかなるものかを論ずる第5章、アレテーと知性(真理認識)の5つの様式、すなわち技術・学・知慮・知慧・直知の関係を論ずる第6章で上巻は終わり。
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医療における善と、統帥における善とは異なり、その他の領域にあってもこれと同様である。(中略)あらゆる働きや選択においての目的であるところのものがそれである。(p.35)
それぞれ各人の「状態」の異なるに応じて、それに独自の姿で現れるところのうるわしきもの・快適なものがあるわけであり、すぐれた人間とは、おもうに、各方面のことがらにおいて真を観取することに最も卓越的であるごときひとだといえよう。彼はいわば基準であり尺度なのである。(p.127)
知慮は実践的なものゆえ、したがってそれの一般的な面と、個別的な面とが、ともに必要であり、あるいはむしろ、その個別的な面のほうが多く必要でもあろう。ここでも、しかしながら、何らか高度の棟梁的な立場に立つ認識は、やはり存在していなくてはならぬ。(p.300)
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アリストテレスって幸福を生きる基準においたんだ。
徳をつむ事など、まったく東洋の思想と同じじゃないか。ビックリ。
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「ー」
即時的に善きもの、善きもののゆえに善くあるところのもの
子供も幸福ではない
中庸は状態
法律の問題は本性が原因
ずっとニコマラス倫理だと思っていました。
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現代人から見ても決して常識はずれではない、高度に洗練された幸福論です。2300年以上前に書かれたとはとても思えない。しっかりと読むコツは、独特の諸用語が持つ意味を、特に用語と用語の関係性に注意して、訳注を参考に着実に捉えていくことだと思います。たとえば「情態」と「性状」という2つの語は、日本語的には似ていますが、原語においてはむしろ対になる概念ですので、注意が必要です。