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エピクロスの哲学を詩として伝えていると言われるルクレティウスの著作。ベルクソンは、エピクロスはアマチュアだが、ルクレティウスは哲学者だといった。
原子とシミュラクルの概念を用いて、神話的なものは信じるに足りるものではないということを示す。自然への目配せが行き届いており面白い。
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叙事詩の形式にのっとり、エピクロス派の自然学を語った書。宇宙の神羅万象が、原子論に基づき唯物論的に説明される。
この本が語るところによれば、物体だけでなく音や光、熱、果ては神々や霊魂にいたるまで、ありとあらゆる物理的存在は原子でできているという。これは現代人から見れば間違っているが、それでも現象をよく観察し、事実と矛盾しない説明をしようという姿勢は常に感じられる。「軽い物より重い物のほうが速く落下するのは、空気の抵抗のせい」とか、「火が上へ昇るのは、木が水に浮くのと同じ原理」など、当時の科学の水準を考えれば慧眼と思える記述も見受けられる。
さらには、どこか現代の宇宙論を想い起させるような、宇宙創成のストーリーさえ描いて見せている。このような、およそ日常感覚とはかけ離れた理論を考えた人が二千年以上前にもいたのだと思うと、感慨深いものがある。
訳文はやや古めかしいが、それほど読みづらくはない。
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本屋でふと手に取る
ソクラテス、プラトン、アリストテレスのところは、いくつか読んだので見えてきた
ギリシアはそれだけじゃないのは薄々感じながらも、例えばデモクリトスの原子論は、やはり気になっていたし、ユークリッドも気になる。
だけども、ギリシアに長居するつもりもなかったので、まぁ、次にいこうかと思っていた
ってところで本屋で気になってしまった
こういうことがAmazonでは得難い
で、読んでみて衝撃だった
世界は原子と空虚からできてる。
無からは原子も(空虚も?)うまれない。
世界は無限である。
我々が触れることのできない神々は我々にも不干渉である。
これくらいのことを前提に、世界の構造を原子論的に説明していくのと、また、その結果として死は恐れるに足りないものであり、死への恐怖は不要である、とされていく。
世界の構造の原子論的解説は、その観察眼、直観の面白さ、鋭さ、的外れなときもある、が、人類が初めて原子で世界を説明しようとしたとき、こういうふうに捉えられるのか、と興味深い。
死後を恐れるな、という部分はここに快楽主義的なエピクロスにつながるものを見出しつつ、本書では、あくまで意味のない恐怖・不安は拭い去れ、世界はあくまで原子の秩序でしかない、と説く。
ルネサンスでとても気になってたブルーノの無限の宇宙の想像が、デモクリトス、エピクロスに繋がったことが驚きだ
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ルクレイティスの「物の本質について」(岩波文庫)を読みました。
ティトゥス・ルクレティウス・カルス(紀元前99年頃 - 紀元前55年)は、
共和政ローマ期の詩人・哲学者で、この本も詩集だそうです。
翻訳者は日本語では表現出来ないとして訳しきれないので平文で訳したとか。
エピクロス(紀元前341年 – 紀元前270年)の思想をもとにしているらしい。
つまり、無神論で唯物論でこの世の全てのことを解き明かしている。
例えば、「物には色が無い」、それは光の作用によって人間の目に赤や黄色などに見える
といった件があります。今日では自明の理として知られている事柄をわかりやすく説明している。
路傍の石、人間、否生物の成り立ちとその作用、
更に人の心の移ろい、感情なども原子という最小単位の物で説明されている。
この世のあらゆる事を原子の作用によって説明しているのです。
これ、紀元前に書かれたことですよ。
しかし、地球が球体である事は書かれておらず、自ずとそこに無理があることは否めない。
これが西洋の根幹思想としての人間主義、キリスト教へと変節したのは、
ソクラテス、プラトンであり、頑強な一神教の思想だと私は思っております。
意識が存在を決定するのでは無く、存在が意識を決定する。
人間といえども「これまでの知識、言葉、経験、道徳律」が無かったら
他の動物と変わらない生き物になる。
だから、「これまでの知識、言葉、経験、道徳律」は必要だ。
本当にそうでしょうか?
人類が人類だけのために地球の資源を取り尽くし、
地球温暖化、核の脅威などの危機にさらしたのはこの2、3世紀のことです。
地球は人間だけのためにあるのではありません。
この宇宙は原子からなりたっている。
地上から人類が消え去り、他の生物が繁茂しても、
40数億年後にはアンドロメダ星雲に飲み込まれる。
原子の作用によって。
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物の「本質」を探究するといふので、どういふものか、問ひを共有してゐるひとであつたのかどうか知りたくて読んでみることに。
詳しい歴史的な経緯やら、テクストの修正がどのように行はれてゐるのかは知らない。ただ、たくさんのひとの手が入つてゐるのは確かである。個人的には、おそらくこのひとの著作はこれだけではなかつたと思ふ。たぶんこのひとはもつと物資の先の本質を考へることをしてゐたと思ふ。
ある種の弁証法ではないかと思ふ。有と無から在るへと止揚する。このひとはこの有を原子だとおいたに過ぎない。それを大前提にして、現象をたらたらと演繹してゐるに過ぎない。先見の明だとか、さういふものもあるだらうが、このローマやギリシアの考へるといふ伝統の中では、ものを考へることはとても切実な問題であつたのだと思ふ。
ただこれだけの思考をし、原子といふものを有の大前提に置いた人間が、どうしてかんじなかつたのだらうか。ほかでもないその原子の結びつきがどうして、’これ’になつてしまつたのか。
現象の説明は入り口にしか過ぎない。雷にしろなににしろ、それを神と言つても、原子と言つてもそこにどれほどの差があるといふのか。原子だつて一体どこに在るといふのか。ある意味、詩といふ形をとつて述べてゐること自体、彼の語る物語である。
原子のたまたまの移動でたまたまの結びつきがどうして今この形となつてゐるのか。仮に同じ原子が結びついて何かができあがつた時、それは果たして以前のものと同じだと言ふのか。
彼がこの問ひを語らずに述べれば述べるほど、どこかでこの問ひを考へたくて仕方ないやうに思へてならない。失はれた著作の中にそれがあつたのかもしれないし、一生彼が墓場までもつて行つてしまつたのかもしれない。
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エピクロスを尊敬していたローマ人ルクレティウスの叙事詩を散文調にしたもの。そのため、ちょっと冗長で読みにくい部分などがある。
エピクロス解説本に近いので先にエピクロスを読んでいないと理解し辛い。自然現象を解説しつつその中から人生について語るというパターンである。エピクロスの、死は恐れるに値しない、という考え方を説明しており、死後の世界が現世での悪行の抑制につながるのではないかという意見については、その本人の引け目、負い目が抑止になると説く。しかし、故意犯には効果がないだろうし、自己の中に律する基準を常に持っていなければならないとすれば、安易に神に頼れない、求める基準がとても高いと思う。
なお、本書の一節は、イリーン、セガールの「人間の歴史」に取り上げられている。筆者が本書を手に取ったのもそれに基づく。エピクロス派の、神の支配を否定し人が自己に依って世界を理解しようとする姿を賛美する一節である。
こうして心の恐れは散り失せる。世界の壁は引き退く。そして彼は無限の空間に物の動きを見る。
(人間の歴史より抜粋)