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「あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。さあ、くつろいで、精神を集中して。」いきなり出だしで面食らってしまうこのなんとも贅沢な本は、出版された当時6年ぶりの新作として世に問われたらしい。カルヴィーノの新作を待っていた人たちに向けてなんともカルヴィーノらしい登場の仕方である。この書き出しからも解るように、この本には本を読むことについての本、という自己言及的な雰囲気が溢れている。この本は贅沢な本であるといったが、それはこの本に本というものに関するあらゆる要素、本の購入、作家、読者、分析、贋作、禁書、などがテーマとして盛り込まれていて、なおかつそれを一瞬のダレもなく老獪な魔術師のショーのように読むものに示してくれているからだ。
冒頭の言葉は、あたかも我々一般読者へ向けての作家の言葉であると読まれるように意図されているとしか読めないが、実は「冬の夜ひとりの旅人が」に登場する名もない一人の男性に向かって吐かれた物語の中の言葉でもあることが少し読み進むと理解される。この男性は、ある日、本屋で一冊の本を買う。もちろん、その本とは「冬の夜ひとりの旅人が」なのだ。そして、その男性読者と本来の読者である自分とが気づかない内に混同される。もちろん、違和感無く同化してしまうように、あるいは勘違いしてしまうようにカルヴィーノは物語を始めるているのだ。一瞬の眩暈の後に、気付くとさっきまで空っぽだと思っていた檻に、この本を読む自分自身が取り込まれているというトリックだ。ともあれ、とにかくなんというか断定するのがためらわれるのだが、その男性は、一応この本の主人公である。その男性読者は「冬の夜ひとりの旅人が」の中に登場する「冬の夜ひとりの旅人が」を読み始める。そして、本来の読者である自分自身も。
古いヨーロッパ映画のワンシーンのような重たく暗い場面から、その物語は始まる。不思議な雰囲気に満ちたモノローグが語られ、どうやらこの独白者が、ひとりの旅人、らしいことが判明する。独白者は誰かを待っているのだが、それは人には知られてはならない理由によるようだ。しかし相手は現われない。駅のカフェで独白者は待っている。彼の他にその場所で時を過ごしているものの中にのは旅行者はいない。その日の列車はもうないのだ。しかし、男の待ち人は列車で来るはずである。どうするか、と男は考える。そのカフェで待つ内に男はある女性に興味を惹かれる。そして、軽い会話を交わす内、二人の距離が縮まって行く。その刹那、、、、物語はそこで打ち切られるのだ。
当然のことながら、本の中の男性読者は(あるいは、も、というべきか)強い憤りを覚えて書店に足を運ぶ。その本は乱丁だったのだ。書店の主人はすでにその落丁のことを出版社から聞かされおり、男性読者に向かって、実は、その本が題名とは全く別の本の1ページから16ページだけが何回も繰り返されているものであることを告げる。男性は、既に読み始めたと思われるその別な本と「冬の夜ひとりの旅人が」を交換することにする。そして、同じ苦情を言いに書店を訪れ同じように別な本と交換していた女性ルミドッ��と出会う。男性読者は弾まぬ会話を彼女と交わした後、本のことで後でお話しでも、と電話番号だけは聞き出すことに成功する。そして、その別な本「マルボルクの住居の外で」を読み始めるのだが、それは読みかけていた小説とは別なものであることが解る。男は仕方なくその本を読み始めるのだが、これまた乱丁であることが判明する。しかも、その本はまたもや面白くなりかけたところで打ち切られているのだ。
当然のことながら、実物の「冬の夜ひとりの旅人が」を読んでいる自分も主人公の男性読者と同じように、ええっ、最後まで読ませてよ、と興奮状態に陥る。そして、ここまでくれば察しがつくように、そんなことが何度も繰り返しされ、地であるところの男性読者とルミドッラを巡る話は、図であるところの架空の書物(それがまた色々な本のパロディ臭い)を挟んで進行していく。そこまで言うともっと察しのいい人ならもう解るように、地と図は絡み合い始めるのだ。この感じはカルヴィーノの「見えない都市」にも似ている。
カルヴィーノの術中に、読むものはまんまとはまって行く訳だが、くやしいことに、この本の中でカルヴィーノはそのことすら指摘して、こちらを混乱させるのだ。例えば第一章の地の部分の最後でこんな風に自嘲あるいは自負気味にカルヴィーノは言い放つ。「さて今やあなたは最初のページの最初の数行に取りかかる用意が出来た。あなたはこの作者の他とはまごうかたなき調子をそこに認める気構えでいる。ところがそんなものは全然認められない。(中略)期待はずれですか? まあ見てみましょう。(中略)でも読み進むうちに、あなたが作者から期待していたものとは関係ないが、とにかくそれが読ませる本だということに、その本それ自体があなたの興味を惹くものだということに気づく、そしてよく考えてみればむしろそのほうが、つまり何であるかをあなたがまだよく知らない何物かを前にする方があなたには好ましいことなのだ。」そこまでお見通しでやられているのに、こうもやすやすとカルヴィーノの策に陥っているのだ。よし、その手に乗らないぞ、と頑張っても無駄だ。読みながら既に男性読者である主人公に気持ちが同化してしまっているのだ。そして本の半ばで急にまたこう告げられるのだ。「この本はこれまでこの本の読者に本の中の男性読者と同一化しうる可能性を開くことにもっぱら意を用いてきた、そのため本の中の男性読者には名がついていない、ある三人称、ある具体的な人物と自動的に同一化してしまうからだ」くーっ、やられている。このように、この本には二重三重の語り口が存在していて、しかもそれぞれが絡み合い、結果として、興奮させられ、じだばたさせられ、しかもそれをまた作者に指摘もされ、永遠にメタ化した視点を強制されているような錯覚に陥るのだ。
その永遠に続く、一つ上の視点でものをみる、というテーマは、贋作を巡る話として、本の地の方の物語でも印象的に現われる。それは例えば「君はこう思っていると僕は思っている」「僕は、君が僕はこう思っていると思っている、と思っている」と繰り返される深み、あるいは「相手は自分がパーを出すと思っているからグーを出すことにする、いやいや、パーを出すと思っているからグーを出すと考えたと思っ��いるからチョキを出すことにする」というような堂々巡りに発展してしまう感じにとても似ていて、そのことに読んでいるものが気づくであろうとカルヴィーノは考えたであろうな、いやいや、気づくと考えたカルヴィーノが一体何を考えていたのかを考えなくちゃならないんじゃないのか、というように、どうしてもジタバタせざるを得ない感じなのだ。
カルヴィーノは生前、これからの文学に必要なのは「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」であると言っていたらしい。この作品はまさにこの方針の基に書かれているように思う。例えば、この作品は、ある意味ウンベルト・エーコでも書きそうな小説なのだが、きっとエーコが書いていたら、とてつもなく「重く」て「遅く」なって、きっと上下2巻ともに800頁くらいの本になったんだろうなあ、と勝手に考えてしまった。一方現実のこの本は300頁くらいの本に仕上がっていて、しかも読んでいる文字は全て理解可能な範囲にある言葉である。とても「軽い」のだが、それでも知的興奮度はエーコの作品から感じるものと遜色がない。読む度にカルヴィーノっていう人物の奥の深さが見えて来るけれど、この軽くて楽しい感じは、川上弘美に通じるものがあるなあ、と今回は思ったところで止めておきましょう。
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このところ日本のものばかり読んでいたから、この本を読み始めて「あぁ、こういうのが読みたかった!」と思った。
カルヴィーノの、言葉遊びならぬ文章遊びの小説は、ここのところ読んでいた日本の小説やエッセイとは全く違っていて、本を読んでいるという幸せ感がある。
読み始めて少しして、ふと、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』はカルヴィーノに影響されたのかなぁと思った。『冬の夜ー』が1981年で『世界の終わりー』が1985年だから、なくはないと思う。
私の中でカルヴィーノと村上春樹はどこか少し似ているような気がする。というか共通する何かがあるような気がする。
そう感じたから、Wikipediaで<幻想文学>を見たら、 [日本における受容] という項目に、村上春樹、平野啓一郎、いしいしんじ、と私が好きな日本人作家の名前が全員あった。恥ずかしながら同じジャンルに括られるのを初めて知った。
私はこのジャンルが好きなのかというのも知った。
この『冬の夜ひとりの旅人が』の構成は本当におもしろい。
『宿命の交わる城』も驚嘆の発想と構成だったけど、『冬の夜ー』は読みやすいところがいい。
今にして思えば、その時は挫折した『柔らかい月』もやっぱり発想が素晴しかったし、おもしろかった。
日本の小説やエッセイをばかり読んだあとでは本当にカルヴィーノはおもしろいと思う。スポンジに水が吸収されていくように、ずんずんと読書のおもしろさが私の中に染みていった。
この『冬の夜ひとりの旅人が』という本は、小さなカンバスに描かれた絵が何枚も集まってひとつの大きなカンバスを作っているような本である。
本という形の大きな絵はふつうの場合近づいてみればその絵の断片が見える。しかしこの本の場合近づいてみるとそこに見えるのは大きな絵の局部ではなくそれぞれに異なる様々な絵なのである。
この本は【 1枚の絵 】ではなく【 1つの美術館 】のようなものなのである。
私はカルヴィーノに、ルネサンス〜バロックの絵画、光と影のくっきりとした鮮やかな色彩を、思い浮かべてしまう。
ティッツィアーノやルーベンスやレンブラントのような絵が頭に浮かぶ。
文章自体は実際にはもう少し近代の絵なのだけれど、全体像としての印象は私の内では何故かバロック絵画になってしまう。
絵画の中の人物たちが織り成す物語。私はそんなふうに感じる。
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と、ここまでが読み始めて思った感想。次からは読み終えてから。
小説の中に出てくる小説「絡みあう線の網目に」は、『柔らかい月』にちょっと似ている気がする。うっかりすると文字の表面をするすると滑っていてしまってまるで頭に入って来なくなってしまうから注意しなくてはいけない。
この辺りからこの本は最初の頃とは姿が変わってくる。男性読者が "あなた" であったのが一度だけ女性読者が "あなた" に変わる。それを機に、この本の本当の姿が露になってくる。カルヴィーノがこの本でしたいこと、提示したいことが見えてくる。
そ���て先にあるような感想はなくなって、奥に秘められている真の何かを読み取らなければという思いと、なるほどなるほどと提示される考えに感心したり、文章が生み出す物語のおもしろさにただただ没頭してしまうのとで埋められてしまう。
作家と読者の関係性についてのカルヴィーノの考え方。ひいては物語というものについて、書くということについて、読むということについて。
ルドミッラとして出てくるカルヴィーノの言う女性読者の考え方に私はとても共感する。自分と同じようなところが多い。
要するに、あなたはもう一度読み直す読者ではないようだ。あなたは一度読んだものはとてもよく覚えている(それはあなたが自らのことについて明らかにした最初の事柄のひとつだ)、おそらくあなたにとってはあらゆる本が、ひとたび読んでしまうと、ある特定の機会に行なったその読書体験と同一化してしまうのだ。そしてそれを記憶の中に大切にしまいこむのと同じように、物としてのその本も自分のそばに置いておくのが好きなのだ。(p184より)
「その女性にとっては」とアルカディアン・ポルフィリッチはあなたがいかに関心をもって彼の言葉に聞き入っているかを見てとってなおも続ける、「読むということはあらゆる思惑や先入観を棄てて、期待するところが少なければそれだけよく聞こえてくる声を、どこから来るのかわからないが、本の彼方の、作者の彼方の、慣用的な文字の彼方のどこかから来る声を。語られていないものから、世界がまだおのれに関して語ってはいず、またそれを語るための言葉を持ってはいないものから来る声を聞き取ろうとすることにあるのです。一方、彼の方としては、書かれたページのうしろになにもないことを、世界は人為的な技巧、虚構、誤解、嘘としてしか存在しないことを彼女に示したかったのです。(中略)《(略)彼は私にこう言いました。────文学には私が力を及ぼすことのできないなにかが起こるのです》(p309-310より)
そして最後の結末がいい。考え方の、物語の、きちんとした完結がそこに提示される。
本当に傑作。素晴しい本。
で、流れでウンベルト・エーコが読みたくなって『フーコーの振り子』を購入して、現在読んでいるところ。
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まさに、小説の小説。文学者カルヴィーノの魅力的な世界を知った本です。
昨今の日本文学界、前衛的な手法を用いる作家が少なくなっていると生意気に心配する。カルヴィーノや安部公房の再読も迫られる。
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意味ではなく体験だった。あなたは、からはじまる出だしから、なにそれで終わるラストまで、とても好きな小説だった。まさに濃い森に分け入るように読書に入っていく。連れて行ってくれるのかと思いきや、あまり楽はさせてもらえなかったけど(自分で歩けと言われた)。一作一作とはなはだしく調子を変え、るらしいカルヴィーノの他の作品も気になるけれど、読み返すことがあれば、もう一度ゆったりとソファーに埋もれて読んでみたい。