紙の本
絢爛たる修辞、彫琢された硬質の文体。
2015/01/18 17:02
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投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
一篇を除く八篇が作者の生地であるベルギーからみて東方に位置する地方を舞台にするのがその名の由来。ブリュッセルの名家に生まれ、教養ある父と家庭教師により高度の古典学を教授されたユルスナールは、父の死後各地を遊学し見聞を広める。厖大な古典学の教養と実地に感受した諸国の風土、文物の印象を綯い交ぜにし、絢爛たる修辞を惜し気もなく濫費しつつ、彫琢された硬質の文体で思惟を固め、衆生の耳目を驚かせるに足る九つの稀譚を、表情の一つも変えることなくさらりと語り終える。初版時には十篇構成であったが、38年後改訂版上梓にあたり、その内一篇を手直しの用無しとして削除するほか、文体上の修正を経て今に至る。
巻頭を飾る「老絵師の行方」。訳者いうところの「神韻縹渺たる趣き」が全篇を蓋いつくし、時に読者をして批判や解釈を捻り出そうとさせる夾雑物が入り込む隙を与えない。旅の絵師汪佛の興味の対象は物ではなく、その影像にあった。偶々知遇を得た玲は、汪佛によって事物に色彩あることを知り、家財を売り払い汪佛と旅に出る。
ある時、師弟は捕縛され皇帝の前に連れ出される。無実を訴える絵師に皇帝が語る。外界と隔絶され、汪佛の画を蒐めた部屋で育った皇帝は、世界を汪佛の描いた画のように美しいと思って育つ。長じて実世界の醜悪であることを知り、あまりの違いに絶望した。老師の罪は天子を欺いたことによる、と。最期に未完の絵を完成させるよう命じられた汪佛が素描の水に色を差すと櫂の音が聞こえ、先刻殺されたはずの玲が舟から招く。汪佛が乗るや否や舟は次第に遠ざかり、やがて画中の崖の陰に消える。汪佛が船に乗って消え去るところは、「解題」にあるハーンの『果心居士』によく似ている。
訳者は絵師の品格と作品の美的効果をもってユルスナールが勝るとする。それに異論はないが、両者の差は名品を所有する(描ける)者に対する権力者の思いの差にあるのではないか。信長や光秀のそれは単なる物見高さに過ぎない。しかるに皇帝のそれは、現実を超える美や真への希求である。魂のこもった画には、現実世界の空虚さには比ぶべくもない存在感がある。しかし、一度それを知ってしまえば、皇帝と言えども、世界の支配者という点では一介の絵師に及ばないことを認めねばならない。皇帝としてそれは許せない。手を断ち、眼を焼く罰は、汪佛からその世界を奪うことに他ならない。支配者は一人でいいという論理。これでこそ皇帝というものである。
ユルスナールの物語る綺譚は、ただ物珍しい話というのではない。そこには哲学というと言い過ぎかもしれないが、何か人をして深く思いに至らせるものが含まれている。しかも、寓話のように独断的な解釈によって諭すのではなく、読者が自ずから思いをめぐらせそれまで気づかなかったものの見方に触れる契機となる、そんな物語となっている。すぐれた文学だけが持つ美質である。
人柱とされても幼子に乳を飲ませたいと願う母性を描いた「死者の乳」、修道士によるニンフ撲滅を憐れみ降臨するマリアを語る「燕の聖母」と、譚詩を素材とするものや、礼拝堂の名による架空の由来記、とその発想は自在。原作がはっきりしているものとしては「源氏の君の最後の恋」がある。奥山に庵を構える光のもとを訪れるのは花散る里、女人の持つ業の深さに、ひときわあわれを催す一篇である。
悼尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」は、巻頭の「老絵師の行方」が、画家の永遠の救済をモチーフにしたものとするなら、それに呼応して、厭世観を胸に抱く老画家の救いのない境地を描く。鮮やかな対比の妙にただただ賛嘆するのみ。
紙の本
作者の「東方」
2019/05/31 23:18
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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
ユルスナールが日本や中国、いわゆるオリエントの題材を描いた短編集。この訳者の訳は日本語として素晴らしい美文で、まずそうした紹介のされ方が幸運だ。内容は幻想味と残酷さ、卑猥さ、華美さを合わせ持って幻惑される。源氏物語に題材を求めた短編も、随分自由に翻案しているがやはりその世界観は共通している。最初の中国の絵師の短編も素晴らしい。良い作品集だった。
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東の国の短編集。ユルスナールの書いた、源氏物語に惹かれて購入。他の作品も透明感ある話だった。
訳が世界観を崩すことなくとても美しい。
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濃くとろとろした何かふしぎなお酒のような本。それにしてもなんてうつくしい文章を書くんだろう! そのうち原書もあたらなきゃ。
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[ 内容 ]
古典的な雅致のある文体で知られるユルスナールの一風変ったオリエント素材の短篇集。
古代中国の或る道教の寓話、中世バルカン半島のバラード、ヒンドゥ教の神話、かつてのギリシアの迷信・風俗・事件、さては源氏物語など、「東方」の物語を素材として、自由自在に、想像力を駆使した珠玉の9篇。
[ 目次 ]
老絵師の行方
マルコの微笑
死者の乳
源氏の君の最後の恋
ネーレイデスに恋した男
燕の聖母
寡婦アフロディシア
斬首されたカーリ女神
コルネリウス・ベルクの悲しみ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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日本、中国、インド、ギリシア、バルカン半島諸国に伝わる寓話に基づく8つの短編を収めている。
残酷で、非情で、幻想的な物語は、訳者の美しい訳文と相まって、物悲しい読後感を抱かせる。
しかし一方で、広範な地域を「東方」にひとくくりにし、西欧と異質なイメージを浮き立たせる手法に意識が向く。
どんな物語も、各時代の世情と文化を反映し、それらへの認識を基に規定される。
だとすれば、物語を読み解くためには、背後にある文化を、社会を、思考の枠組みを理解する必要があるだろう。
とりあえず、サイードの「オリエンタリズム」をちゃんと読もう。
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しばらく前から積ん読していた本。
『いま読むペロー「昔話」』の解説の中に、ユルスナールの名前がちらっと出てきて思い出した。
この本自体は確か、源氏物語に想を得た作品があると聞いて入手していたのだったと思う。
マルグリット・ユルスナールはベルギーの名家に生まれ、幼少時は古典学的教育を受けた。父に連れられて各地を旅行したほか、ギリシャ・バルカン諸国・イタリア・スイス等に遊学している。女性として初めてアカデミー・フランセーズの会員になっている。
本書は、ユルスナールが旅行や遊学中に見聞した素材を元に、古典の教養を踏まえて描き出された、「東方」のお話9編である。
収録作品は:
「老絵師の行方」
「マルコの微笑」
「死者の乳」
「源氏の君の最後の恋」
「ネーレイデスに恋した男」
「燕の聖母」
「寡婦アフロディシア」
「斬首されたカーリ女神」
「コルネリウス・ベルクの悲しみ」
である。
個人的には、「老絵師の行方」、「マルコの微笑」、「燕の聖母」、「寡婦アフロディシア」がよかったと思う。
「老絵師の行方」は絵の名人とその弟子の話である。簡単に言えば、命を奪われそうになった老絵師が、卓抜した絵の技巧で窮地を脱する物語であるのだが、この物語はそんな通り一遍のあらすじではまとまらない。単純に、妖術の冴えにあっと驚くような話ではない。
老絵師の描く絵のこの世のものならぬ美しさ、天子が老絵師に抱く暗い澱のような怒り、弟子が師匠を思う哀しさ、そして絵師が消えた後の余韻の美しさ。
一読、忘れ得ぬ物語である。
「寡婦アフロディシア」は、女の秘めた思いを描く。不義の恋に身を焦がしていた女は、愛人が惨殺され、死体が晒されているのを悲しみ、ある計画を思いつく。
灼熱の太陽にじりじりと照らされる骸の描写が濃密な空気を孕む。
幕切れは劇的である。愛しい人の形見を抱いて、彼女が落ちていく先は、極楽か奈落か。
あるいは幻想的、あるいは官能的、あるいは情熱的、あるいは残酷、あるいは甘美、あるいは絶望的な物語が、西洋とも東洋ともつかぬ不思議な世界のあわいを漂う。
老絵師が現世を超えた美しい世界を描いてしまったように、ユルスナールもまた、東方の名の元に、「彼方」へのあこがれを天空に描いて見せた。
誰の手も届かぬ先に、その世界は幻のように、しかし厳としてある。
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買ったときに、先ず一度、読んだ。
こんなにすぐに読んじゃって、もったいない、と思った。
しばらく、その「気配」だけを感じて過ごした。
再読した。
再再読した。
こんなに何度も読んじゃって、もったいない、と思った。
Nouvelles Orientales(1976年)を『東方綺譚』とした訳者も作者と同じく知性の詩人であることを確信し、あるいはまた、Wang-F?やLingという人名に然るべき漢字を充てて読むことのできる幸福を、しみじみ感じる。
固有の地名と、そして人の名から想起される、イメージ(イマージュ)の様々。
各々から寓意や教訓を読み取るよりは、ただ見事な言葉による綴織のまま、心に留めておきたい。
私にはこの本がある、という、ただそれだけでもったいないくらいに幸せ……数はたくさんではないけれど、そういう本が間違いなくあることの歓び。
……けっきょく、何も言い尽くせてはいないけれど。
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「老絵師の行方」「燕の聖母」「斬首されたカーリ女神」ととりわけ幻想味の匂やかな作品が楽しめたけれど、皮肉な女の冒険譚「源氏の君の最後の恋」などもどうなるんだろう?と読まされた。しかし先に挙げた三作品以外は、私には十分に味わう技量がまだない。「老絵師の行方」の、水薫る東方の絢爛には目も眩む。とっても中華な雰囲気。とびきり好き。老絵師の従者玲の可哀想な妻の描写が特に好き。「玲の妻は蘆のようにひよわで、乳のように幼げで、唾液のように甘く、涙のようにしおらしかった。」この短編集は訳が本当に凄いんだけれど、さすがのユルスナールも源氏の知識は危うくて、訳注に「長夜の君 不詳。こんな人物はいないはず。」と手厳しく書いてあるのが笑った。ところでこの本を通っていた大学付近の古本屋で購った時、はじめて店番のお兄さんに話しかけられた。通っていた頃にはそんな事はなかったのに。フランス文学を勉強する彼はユルスナールの熱烈なファンであることをオタクっぽく内気に打ち明けてくれて、とても照れくさかった。ユルスナールは是非他の作品も読みたいと思えた。
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日本や中国など、ヨーロッパから見た「東方」を舞台とした
幻想的な小説群。
美しい師弟愛の物語、「老絵師の行方」が好き。
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いまKindleで読んでいる与謝野晶子版『源氏物語』につられて「源氏の君の最後の恋」という短編を知り、なんだか読みたくなって購入した。
ページを開くとたちまち吸引力の強い文章から逃れられなくなる。久しぶりに味わう文章を読むこと自体の快感に陶然とする。音読したくなる文体。
「死んだ光の亡霊がまだ野をさまよっているあのたそがれの時刻に」(死者の乳)なんて、もう背中にじわっと電気が走る感じ。
こうした著名な作者をこの年齢になって初めて読むというのも恥ずかしいことだけれど、やはり縁というものは大切なのです。
これはやはり、以前から気になっていた『ハドリアヌス帝の回想』を読まなければ。
思えば学生時代には人並みにカミュやサガンを読んだのに、いつのまにか仏文和訳の文章に苦手意識を持つようになり(これはたぶん人文科学系の訳文のせいだ)何となく手を出しづらくなっていた作者なんですね。
肝心の「源氏の君…」については、日本人としてはやや違和感もあるものの、他の作品に劣らぬ魅力を放っていることは間違いない。
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西欧から見た東方の9つの物語。ただし、オリエントといった時に真っ先にイメージされそうなエジプトやアラビアといったmiddle eastの物語はなく、むしろそれよりは西欧社会に近いギリシャやヘルツェゴブナ、あるいはfar eastのインド、中国、日本が選択されている。それらはいずれも我々日本の読者にも十分にエキゾティズムが感じられるものである。源氏を描いた短篇は、散逸したとも、そもそも書かれなかったともいわれる「雲隠」の巻をとりあげ意欲的なのだが、源氏の世界を知っている日本の読者にはやはり違和感が否めない。
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面白いのとそうでもないのが半々くらい。
面白いものはもっと長く読みたかったので若干ものたりない感じ。
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『東方綺譚』は、ユルスナール若書きの書。アムステルダムに住まう老画家を描いた一篇を除く八篇が作者の生地であるベルギーからみて東方(オリエント)に位置する地方を舞台にするのがその名の由来。ブリュッセルの名家に生まれ、教養ある父と家庭教師により高度の古典学を教授された著者は、父の死後各地を遊学し見聞を広める。厖大な古典学の教養と実地に感受した諸国の風土、文物の印象を綯い交ぜにし、絢爛たる修辞を惜し気もなく濫費しつつ、彫琢された硬質の文体で思惟を固め、衆生の耳目を驚かせるに足る九つの稀譚を、表情の一つも変えることなくさらりと語り終える。初版時には十篇構成であったが、38年後改訂版上梓にあたり、その内一篇を手直しの用無しとして削除するほか、文体上の修正を経て今に至る。
巻頭を飾る「老絵師の行方」が特筆すべき完成度を誇る。訳者いうところの「神韻縹渺たる趣き」が全篇を蓋いつくし、時に読者をして批判や解釈を捻り出そうとさせる夾雑物が入り込む隙を与えない。とはいえ、それでは評足り得ない。気のついたことを幾らか記しておく。旅の絵師汪佛の興味の対象は物ではなく、その影像にあった。偶々知遇を得た玲は、汪佛によって、事物に色彩あることを知り、師と仰ぐ。自分より画中の影像に心奪われる夫を憾んで妻は縊死を選ぶ。玲は家財を売り払い汪佛と旅に出る。
ある時、師弟は捕縛され皇帝の前に連れ出される。無実を訴える絵師に皇帝が語る。外界と隔絶され、汪佛の画を蒐めた部屋で育った皇帝は、世界を汪佛の描いた画のように美しいと思って育つ。長じて実世界の醜悪であることを知り、あまりの違いに絶望した。老師の罪は天子を欺いたことによる、と。最期に未完の絵を完成させるよう命じられた汪佛が素描の水に色を指すと櫂の音が聞こえ、先刻殺されたはずの玲が舟から招く。汪佛が乗るや否や舟は次第に遠ざかり、やがて画中の崖の陰に消える。汪佛が船に乗って消え去るところは、「解題」にあるハーンの『果心居士』によく似ている。
訳者は絵師の品格と作品の美的効果をもってユルスナールが勝るとする。それに異論はないが、両者の差は名品を所有する(描ける)者に対する権力者の思いの差にあるのではないか。信長や光秀のそれは単なる物見高さに過ぎない。しかるに皇帝のそれは、現実を超える美や真への希求である。魂のこもった画には、現実世界の空虚さには比ぶべくもない存在感がある。しかし、一度それを知ってしまえば、皇帝と言えども、世界の支配者という点では一介の絵師に及ばないことを認めねばならない。皇帝としてそれは許せない。手を断ち、眼を焼く罰は、汪佛からその世界を奪うことに他ならない。支配者は一人でいいという論理。これでこそ皇帝というものである。
ユルスナールの物語る綺譚は、ただ物珍しい話というのではない。そこには哲学というと言い過ぎかもしれないが、何か人をして深く思いに至らせるものが含まれている。しかも、寓話のように独断的な解釈によって諭すのではなく、読者が自ずから思いをめぐらせそれまで気づかなかったものの見方に触れる契機となる、そんな物語となっている。すぐれた文学だけが持つ美質である。
人柱とされても、幼子のために乳を飲ませたいと願う母性の奇蹟を描いた「死者の乳」、造物主の造り損ねた天使がニンフや牧羊神となった、というキリスト教ありきの解釈がいささか気にはなるが、急進派の宗教者がキリスト教以前の神の撲滅を図るのを憐れんで降臨するマリアの起こす奇蹟を語る「燕の聖母」と、地方に伝わる譚詩を素材とするものや、礼拝堂の名から発想を得て書かれた架空の由来記と、その発想は自在。原作がはっきりしているパスティーシュとしては『源氏物語』から想を得た「源氏の君の最後の恋」がある。さすがの光の君も歳をとり、奥山に庵を構え寂滅の時を待つ。目も見えなくなり人の訪れを厭う光のもとを訪れるのは花散る里、別人を装い最後の情人となることを願うのだが…。女人の持つ業の深さに、ひときわあわれを催す一篇である。
悼尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」は、レンブラントの画家仲間の一人、コルネリウス・ベルクが老境に至ってたどり着いた境地を描く。巻頭の「老絵師の行方」(原題は「ワン・フォーはいかにして救われたか」)が、画業に専念した画家の永遠の救済をモチーフにしたものとするなら、それに呼応して、救われることのない厭世観を胸に抱く、やはり老画家の末路を描いたもの。対比が鮮やかで、その構成の妙にただただ賛嘆するのみ。見事というほかない。
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幻想的な短編集。あっという間に読み終わる。夢を見ているような感覚。『源氏物語』のその後の源氏を描く作品や、絵師の老人とその弟子の話が好き。ヨーロッパからみると、東方は不思議で幻想的な世界だったのかもしれない。エンデ『モモ』と不思議な感じが似ている。アジアの視点からみると、ヨーロッパはとても華々しく、立派なイメージがあるように思う。映画や漫画などにもヨーロッパのものをモチーフにしたものが多い。『鋼の錬金術師』や『テルマエ・ロマエ』がその例。逆に、ヨーロッパがアジアのものをモチーフにしたものは、徐々に増えているとは言え、現在も少ない。当時、このような作品は新鮮に感じられたのではないか。ヨーロッパから見たアジアの見え方の一端を垣間見せてくれる作品。