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「純粋理性批判」の理解しにくさを指摘され、その解説書のように発表された「プロレゴメナ」。「プロレゴメナ」とは序章、序説といったような意味合いらしい。「純粋理性批判」を他人の解説でしかまだ読んでいないこともあって、非常に興味深く読めた。理解しやすい文章とは言い難いが、哲学とはそういったもの。本文は「形而上学は可能か?」という内容から入り、理性の限界に言及している。人間の『知』は可能経験しか認識できない。時間の始まりとか、空間の広がりとか、絶対的存在者などは推論であって、本来人間には理解できないものなのだ。とても納得させられた。カントの「批判」、すごいと思う。
しかし時間をかけてしまった。
09/2/16
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読者からの、『純粋理性批判』が難解で、冗長に過ぎるという苦言を受け、カントはよりい誤解なく分かりやすい形でその問いと答えを提出するためにこの『プロレゴメナ』を書いた。
アインシュタイン物理学が台頭している現代にあって、ニュートン物理学の絶対時間と絶対空間を前提としている本論考はもはや過去のものであるという意見が少なくない。しかしカントのいうように、「そのもの自身をその源泉において探求して、確証し、あるいは拒否する理性の権利」を保留して、「人が学習しうるのは哲学することだけである」といった自主的態度は今日においても有効なものである。
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自分が知っているのは、自分が知っていることだけ。では「知る」ということはいったいどのようなあり方をしているのか。知るという能力がいかほどのものか知らないと、自分の身に余った本来知れないことを知ったつもりになってしまう。そういう傾向が人間にはある。その予防を受けてない形而上学は胡散臭い、と。
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カントの主著である超難解な『純粋理性批判』に向けての導入書。導入と言えど決して優しいものではないが、認識における限界を定義するその批判はウィトゲンシュタインの論考を先取りし、時間と空間を主観的な形式と喝破したそれは後に相対性理論によって証明される様に、ただ思考するという一点でここまで解明してしまうその深度に驚かさせられてしまった。私たちは決して物自体を認識できず、あらゆる作用に因果律の読み取ってしまう性質を持っている。それは現代の脳科学における人間らしさとは何かに関する問いそのものだ。いやしかし難しい…。
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原書名:Prolegomena zu einer jeden kunftigen Metaphysik,die als Wissenschaft wird auftreten konnen
すべての形而上学的認識の特性に関する予備的注意
「プロレゴメナ」の一般的問題
先験的主要問題(純粋数学はどうして可能か;純粋自然科学はどうして可能か;形而上学一般はどうしt可能か)
結び 純粋理性の限界規定について
一般的問題―「学としての形而上学はどうして可能か」の解決
付録 学としての形而上学を実現するためには何をしたらよいかということについて
著者:イマヌエル・カント(Kant, Immanuel, 1724-1804、ロシア・カリーニングラード、哲学者)
訳者:篠田英雄(1897-1989、千葉県、哲学者)
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西研の推薦本である。実践理性批判の説明になっていると書いてあったが、それは不明であった。しかし、形而上学についていろいろと説明がしてあることはわかった。カント世界の名著の部分で読んだ。しかしヒュームがいきなり出てくるなど初心者向きであるとは言えないように感じられた。
20230104再度読んだ。