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本来は、生き方を学ぶための本ではない。私の恩師の研究著作である。だが、その研究姿勢は生き方そのものだと思う。
保守的でなおかつ先進的であることはむずかしい。オリジナリティとは従来の常識に弾を撃ち込むことだから、旧来の常識を遵守する常識人とは相容れないのが普通だろう。20年以上、この著者のもとで薫陶を受けたにもかかわらず、細部をないがしろにしない常識人としての規律と、常識にとらわれない研究者としての非常識な感性とが一体となった著者の姿は、私にとっていまだに謎である。
胎児は、母親の子宮内で外界から守られたぬくぬくとした安全な環境ですごしている、というきわめて素朴な神話はもはや過去のものであろう。胎児性水俣病や先天性風疹症候群の例を持ち出すまでもなく、有害な環境影響は、むしろ胎児期であるがゆえに大きくおもてに出ることがあるし、昔からあるいわゆる「胎教」という考えは、胎児期に外界からの影響が起こりうることが前提になっているはずだ。いま日本で妊娠すれば、相当に早くから超音波画像などで、胎芽や胎児の様子が情報として伝えられる時代になった。私たちが手にできる情報は増えた。しかし、それで妊娠初期の現象がじゅうぶんに理解されているという誤解は生まれていないだろうか。流産や中絶胎児の研究などでその一端がかいま見られることはあっても、通常の妊娠過程、とくにごく初期の過程は、それこそ靴の上から痒いところを探っているに等しい。かといって、ヒトを対象にした研究は、多くを観察に頼らざるをえないし、観察できる要素にも限りがある。
それでも、何かしらの手がかりから本陣に迫ろうとするのが研究者のサガである。この著者はかつて日本脳炎(夏に流行し、蚊が媒介するウイルス性疾患)の動物実験にも取り組まれていたのだが、人間がこの疾患に罹るのにどうも生まれた季節による違いがありそうだ、という観察が、その後の「生まれ月研究」の発端になっている。精神分裂病(現在の統合失調症)については、冬から早春の生まれで罹患リスクが高いという観察結果が世界各地から報告されて、胎児期のウイルス感染が疑われたため、1990年代にはWHOでも病原体探しに取り組んだことがあった(残念ながら、決定的な報告は届かないままである)。出生季節によって違いが認められる現象は病気だけとは限らない。成人に達したときの身長とか、初潮年齢といった、通常では胎児期環境が原因とは誰も考えない現象についても研究されている。
本書では、多様な現象がとりあげられながら、ひとことで言うなら、「生まれた月によって違いがあるか」をしつこく追究しただけともいえる。しかし、それだけでもこれだけ大きな展望が示されているのである。研究という営みが、謎解きのプロセスであり、いわゆる教科書に書かれている一見すると無謬の体系らしきものは、ほんのその一端にすぎないことも教えてくれるだろう。多くの研究が大多数に認められた知識を元にして、ほんの一歩先に進むことに汲々としがちなのに対して、この著者の研究は大げさに言えば「パラダイム創成型」のそれである。革新的な仮説を支持するかどうかという態度にさえ、出生季節が影響して���る可能性を示唆したネイチャーの研究にも言及されている。はたして、私たちの胎児期環境は、生後の私たちにそんなに大きな違いをもたらしているのだろうか。