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おもしろい。
以下引用
現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立ってゐる足場であり、基底である。或ひは一層正確にいふと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるといふのが哲学に固有なことである。
哲学は現実について考えるのではなく、現実の中から考えるのである
哲学は基底の危機から生れるのであつて、そのとき必然的なものの必然性は揺り動かされ、ひとつの可能性に過ぎなくなつてくる。最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、必然性の可能性へのこの転換のうちに、哲学的意識は現れる
自己の前提であるものをみずから意識し反省してゆくこと
人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立ってゐる
社会は我々に働きかけて、我々を変化させると共に、我々は社会に働きかけて社会を変化させる
自己は環境において形成されるのである。生命とは自己の周囲との関係を育て上げる力
生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わない
行為は意識の内部におけることではなく、行為するとは却って意識から抜け出ること
★行為するとは、身体をもって自己の外にある存在に働きかけることであるが、自己の外にあるというのは、自己の意識の外にあるということでなく、自己の身体の外にあるといふこと⇔身体をいつでも組み替えて、開いているということ。すでに自分内にない外部と関わることで、形成していくということだろう
人間は環境に適応することによって生きている。適応とは対立するものの間における均衡の関係を意味している。その適応の最も単純な仕方が本能。
★適応といっても単に受動的なものでない、ただ消極的に適応してゆく場合、生命は委縮してしまうのほかない。人間の環境に対する適応は作業的に、行為的に行われるのである
技術において、客観的なものは主観化されると共に主観的なものは客観化される。人間は環境に働きかけてこれを変化し、客観的なものは人間か或いは主観化され、同時に人間の主観的な欲望目的は環境化、客観化されるが、その媒介となるのでが技術である
主体が環境から規定されながらそれに解消されることなく主体として自己を維持し得るのは、技術によってである。
★技術的であることによって、主観を客観を我が物として真に主体となるのである。
本能的な適応は、それが存在する限り、完全である。本能による適応は直接的である。しかるにそのために、環境に重大な変化が生じた場合、それはこれに対して十分に適応することができぬ。本能は、環境を広く、遠く、自由に見ることができない。
知性による適応は媒介的である。それは知性が身体に束縛されないで自律的であるところに由来している。
★人間は技術によって新しい環境を作りつつ自己をあらたにするのである。
本能の立場に止まる限り環境は単に閉じたものである。それが開いたものになるのは、知性の立場においてであり、知性によって環境の世界性格は顕わになる。
知性が環境を客観的に認識することができるといふのもそのため ⇔ここに「詩」が絡んで来る。継起的な時間にながれ、体験を経験に昇華するということ、その技法が知性
真に現実といはるべきものは、歴史的現実である。
超越的とは、世界の外にあるといふことではなく、却って「世界」に関係付けられてゐるといふこと。そして主体と客体とが抽象的に対立するのでないやうに、超越は同時に内在であり、内在的超越であると共に、超越的内在である。かやうにしてまた、哲学は対象的認識でなく、場所的自覚であると言っても、その主体的な見方は客観的な見方に媒介され、これを内に含むのでなければならぬ。
★★場所的自覚とは現実の中で現実を自覚することである
科学の客観的な見方は哲学の主体的な見方に対立するがかやうに自己に対立するものを自己の否定の契機として自己に媒介し、これを自己の内に生かすことによって哲学は真に具体的な知識になり得る
形はイデー的なものであるが、単に客観的なものでなく、むしろ感情的・客観的なものである、しかもイデーは働くことによって見られるもの、作ることにおいて見られるものである。それは歴史に対して先在的にあるものでなく、却って歴史において現われてくるものである。しかし真に歴史的なものは単に歴史的なものでなく、歴史的なものと超歴史的なものとの統一である。
人間が表現的なものであるといふことは、簡単井にいうと、人間が世界のものであるということ
自然とは生むものであり、薔薇は自然から生れたものとして自然を表現している
我々は世界一般を表現するのでなく、却って個々の個別的社会を表現する
★我々はつねに環境的に限定され、環境を表現している。社会は我々がそこにおいてある場所として、単位客観的なものでなく、主体的なものであうr
自己自身を表現するち共に、世界を表現している。世界といっても、世界一般があるのでなく、それぞれの時代のおける世界があるのであり、それらの個々の世界がそれにおいてある世界、絶対的場所としての世界を表現
★人間は世界から作られ、作られたものでありながら、独立したものとして、逆に世界をつくってゆく。人間は形成的世界の形成的要素として、世界が世界を作ってゆく中において作ってゆくのである。
我々の行為は単に我々自身から出るものでなく、同時に環境から出るものである。単に能動的なものであく、同時に受動的なものである、単に主観的なものでなく、同時に客観的なものである。
主体と環境とを媒介するものが技術である。
ペルソナはもと俳優が自己の演ずる役割に従って被る面を意味し、従って役割における人間のことである。人間は単に、役割における人間でなく、人格である。
真に内なるものは、真に外なるものでなければならぬ、それは外なるものよりもなほ外なるものとして真に内なるもの
社会は個人に対して単に超越的であるのでなく、同時に内在的である。社会は我々の���にあるのでなく、我々の内にあるといえる
我々は人格として社会を超えるといって、個人的非社会的であるということではない。
我々は社会から限定されていると共に、逆に我々が社会を限定する。我々は社会に働きかけ、社会を変化することによって自己の役割を創造してゆかねばならぬ
善なる意志に基づいてなされる行為が内容的な動機を含まず、無動機であるかのやうであるのも、人間存在の超越性に拠る。
己をむなしくするとき、表現的なものはそのものとして顕わになり、我々に命令的に働きかけてくる、表現的なものが命令的なものであるのは、それが超越的意味をもっているから、かのように、外からの命令に従って我々が働くといふことは、単なる外的共生に従うということでなく、却って真に内から働くということ。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものでなければならぬ。
行為するとは意識から抜け出す事
⇔「線」をたぐりよせて、うろうろしている時というのは、まさにこの状態なんだろうな。
行為を単に動機からのみ見て、動機さえ善ければ行為は善であると考える動機説は誤解
★★我々の行為は単に我々自身から起こるものでなく、環境から呼び起こされる。
自己形成こそ人間の幸福
実現とは、自己のうちに含蓄的にあったものが顕現的になるといふことを意味している
★★我々は単に自己自身によって自己をつくるのではない、我々は環境から作られるのである。その環境はしかし逆に我々の作るものであり、我々は環境を形成してゆくことによつて我々自身を形成してゆくのである
己をむなしくするに従って客観は我々に対して真に表現的なものとなる。
我々の行為はつねに限定されたものに向かうものとして目的をもっている。我々の行為にはつねに歴史に限定された目的がある。目的というものは、主体が作為して作ったものではなく、現実そのもののうちに、その客観的表現の内にある
歴史は我々にとって単に与えられたものではなく、我々がその中にあって、その形成的要素として、我々の作るものである。しかし我々は勝手に歴史を作り得るものでなく、我々の目的は客観的なものでなければならぬ。
★★外からの呼びかけが内からの呼びかけであり、内からの呼びかけが外からの呼びかけであるところに使命はある。真に自己自身に内在的なものが超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己自身に内在的なものであるといふところに、使命は考えられるのである。かやうな使命に従って行為することは、世界の呼びかけに応えて世界において形成的に働くことであり、同時に自己形成的に働くことである。それは自己を殺すことによって自己を活かすことであり、自己を活かすことによって環境を活かすことである。人間は使命的存在である
技術は、新しい環境に適応するための新しい行動の形の発明
技術が存在するといふには主体と環境との対立がなければならぬ。
★主体と環境とが対立し、その調和を媒介するものが技術である
本能によ��適応が直接的であるにに反して、知性による適応は媒介的である。知性は本来技術的である
人間は環境に対して内在的であると同時に超越的であり、超越的であると同時に内在的である。技術は人間の内在的・超越的本質に基づいている。我々の行為は主体的に規定されると共に、環境的に規定され、単に客観的なものでないと同様、単に主観的なものでない
★人間は環境から作られたものでありながら、独立的なものとして逆に環境を作ってゆく。このやうに形成的なものとして我々の行為は歴史的である。歴史的行為は技術的である。歴史的世界は技術的に作られてゆくのであつて、歴史性といふものは技術を離れては考えられないのである。
★真の自由は単なる超越でなく、内在的超越、超越的内在である。
★人間は技術によって真に自由になり得るのである。技術は精神に拠る物質の支配を示している
★技術は人間の内在的・超越的本質に基づいている。人間の行為に超越的なところがなければ技術もあり得ない。技術は元来、そこから出て来るものとして、その目的といふものも単に主観的でなく、超越的なもの、イデー的なものである
★イデーは、もと形を意味するが、形は単に内在的なものでなく、超越的なものである。イデーは作ることによって生まれる、つくることによってイデーが生まれるのは、つくることが超越的意味を有するに拠るのである。
★★自己を否定して対象において自己を見るという意味。そしてそれが真に技術的行為の本質である