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その年の夏は、暑い日がつづきました。主として高原のプールで青い空を仰ぎ白く輝く雲を見ながら、著者がその指先につまみとったいくつものアイディアのなかから、本書のなかの八つのストーリーは生まれてきたのです。プールの水や、吹く風の感触と、どこかでつながっているのです。(あいかわらず各短編のストーリーとは関係ない)。
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「別れて以後の妻」…バス停でバスから降りた女性の歩く後ろ姿の美しさの描写。彼女は彼の別れた妻であり、彼は作家である。『自分と離婚してからの、かつての妻の四年間にわたる日々を克明に取材して一冊のノンフィクションにまとめ、まず誰よりも先に自分がそれを読みたいと、彼は強く思った。』
「ふたとおりの終点」…1台のステーションワゴンが夜のなかを走っている。友人の結婚披露宴に向かうために男女二人ずつが乗っている。男性二人(中里・小島)が前、女性二人(恵子・由紀江)が後ろ、由紀江はウォッカで酔いつぶれて眠ってしまっている。男性二人もウォッカを飲みながら走っている。『「結婚してどうなるんだろう」…「終点に向かうんだよ」…「どんな終点なんだ」…「ふたとおりあるんだ」…「なにとなにだ」「幸せと不幸せ」…「スピーチにはそれを喋るといい。海老フライよりも深く、人生をうがっている」』。ホテルについて男性たちはしきりに恵子を誘おうとするが恵子は相手にしない(品のある大人の会話)。男性の誘いを断った恵子は寝ている由紀江をうしろからそっと抱きしめる。『「恵子ならなにをしてもいいのよ」』。
「紅茶にお砂糖」…木村次郎は井上幸子との電話のなかで彼女の写真を一枚も持っていないことに気がついたと言った。別れてからもうすぐ三年が経とうとしている。木村は幸子に会いに行くことを提案する。新幹線に乗り込んだ木村は友人の高田にばったりと出くわす。二人の会話から木村はいまの彼女と二週間前に別れ、幸子に会いに行くことにしたということがわかる。高田が新幹線を降りた後、木村は幸子が既に結婚していて子供が二人いるとおもしろいと想像する。再会した二人の会話、そして木村が泊まっているホテルの別の部屋から電話がかかってくる。フロリストで買っておいた花を持って木村は702号室へ向かう。『ベッドで裸で抱き合い、静かな余韻のなかにいるとき、「私たちってなになのかしら」と、幸子がきいてくれるといい。「きみはいまでも紅茶が好きか」「好きよ」「では、きみは、紅茶だ」「あなたは?」「ぼくは、その紅茶の底に沈んでいる角砂糖だろう」「私はお砂糖を入れないのよ」「入れたつもりで、スプーンでかきまぜてくれ」幸子は、笑うにちがいない。西へ向かって強引に走る新幹線のグリーン車のシートのなかで、木村次郎はひとりで苦笑していた。』
「きみを忘れるための彼女」…クーペを運転する佳子は怒っていた。彼が理由を問いただすと、扶美子という女性のことはわかっているのだという。なぜ自分以外の女性がいなければならないのかという佳子の質問に対して彼は『「きみを忘れるための彼女だ」』と説明する。近いうちに佳子とは別れようと思っていた彼は、『「なぜかと言うと、きみはぼくにはもったいないからだ」』という。『「なにごとにつけ、きみのスピードとぼくのスピードとは、釣り合いがとれていない。きみは、しかし、きみ自身のスピードを守ったほうがいい。ぼくはずっとうしろにおくれる。やがてはおくれすぎてしまうから、いまのうちに別れたほうがいい。」』。佳子は扶美子に会うといい、彼とは別れて走り去る。別の日、扶美子が運転するステーションワゴンの中で彼は扶美子が佳子と会い、言い友人になれそうな予感がするといった。そしてあなたはそのままでいいが、お別れをするという。『「佳子さんと別れるのがつらいからといって、そのつらさを私がひきうけなくてはいけない理由なんか、どこにもないのよ」…「つらいのなら、ひとりでつらい思いをしていればいいのよ」』。扶美子がステーションワゴンで走り去る直前、『彼女が歩きはじめる瞬間、彼は、三日まえの佳子もこんなふうに歩み去るとき、たいへん美しかったことを、思い出した。…たったいま、さようなら、と言った扶美子も、言いおえて歩きはじめたその瞬間、彼が知りえた扶美子としてはもっとも美しかった。佳子と扶美子とが重なりあうのを自分の心のなかに見ながら、、彼は、歩み去る扶美子のうしろ姿を見守』る。佳子と別れたときと同じように車が去ったのと同じ方向にゆっくり歩いた。今度も信号は赤だった。この前は信号が変わるのを待ったが、『左右どちらかも自動車は走ってこないことに気づき、彼は信号が赤の横断歩道を渡っていった。』
「オートバイに乗る人」…野沢が部屋に帰るとちょうど電話が鳴った。清水佳子からだった。結婚するので披露宴に出席してほしいという。『「長いつきあいなのに、ぼくとは結局、なにごともなかったわけだ」…「口説いてもくれないのに」「いまから口説く」「遅いわ」「早くに口説いていれば、なんとかなったかい」「なったわよお」と、ほんのり冗談の口調で、佳子は言った。』野沢は披露宴までオートバイで行くことを約束する。披露宴で村田祥子という女性と知り合った野沢は、遠くの湖のほとりのホテルで祥子と待ち合わせることにする。祥子と再会した野沢はコーヒーをルームサーヴィスで飲むことを提案する。『かたちのよい唇の両端に淡く微笑をたたえ、祥子は野沢を見た。いま自分は口説かれているということを確認した彼女は、自信をたたえた微笑を顔全体に広げた』。チェックインをしてあるという祥子を先に部屋にいかせ、自分は花をもっていくといった野沢はそのまま駐車場に向かい、オートバイで30分近く走り、電話ボックスから祥子に電話をかけ、きみが嫌いだから部屋にいくのはやめたと告げる。オートバイを始動させる寸前、『秋が正式には今日、いまこの時間からはじまるという印象の強い、気温の高い快晴の夕方の空気を肺活量いっぱいに体の内部に入れたその瞬間、彼はきわめて晴ればれと心地よく、うれしかった。』
「400+400」…私(この作者の作品では珍しく一人称である)は鯉のぼりの下で休んでいた。オートバイで走ってきたのである。空と鯉のぼりを写真に撮ろうかと思ってシングルレンズのリフレックスを構えたとき、自分のと同じオートバイが走ってくる音が聞こえた。まもなくひとりの若い女性がやってきた。夫とここで待ち合わせたらしい。夫も同じオ��トバイで一時間後にやってくるという。女性が入れた紅茶を飲みながら待っていると夫が到着した。ふたりの写真を撮らせてほしいというとすんなりと応じてくれた。紅茶を飲みながら小一時間話をした後、彼女のほうが先に出発した。夫を待っているあいだに彼女が語ってくれたところによると、結婚前に彼の部屋に二人でいたとき、突然ひとりの女子が訪ねてきたという。あがってこいよという彼のすすめを断り、女性は帰っていった。奥の部屋に引き返した彼はしばらく考えた後、彼女を残して部屋を出ていった。ほどなく階下から女性のオートバイとそれを追いかける彼のオートバイが走り去っていった。あくる日の夜おそく彼は帰ってきたが、その女性とオートバイでどこを走ったかをいくら問いただしてもおだやかに微笑するだけでなにも答えてはくれず、自分もそのときのことに関してはもうなにもいわないことにしているのだということだった。彼の妻が先に出発してから私はそのことを夫にきいてみた。苦笑した彼は、なんだ、彼女はそんなことを喋っていたのですかと言い、そのときのことを語ってくれた。彼女を追いかけ小さな半島の根本にある砂浜に出ると、彼女は下着だけで早朝の砂浜に横たわった。彼も服を脱ぎ、ふたりは裸にごく近い姿で抱きあい、そのまま長い時間を過ごした。彼女と別れるとき、彼女はながい口づけを、一度だけ、してくれたという。『「彼女がオートバイをやめてしまったら、おそらく二度と会えないでしょうけど、オートバイに乗っていてくれさえすれば、日本のなかでなら偶然に会うチャンスはあるはずですよ」と、彼は私に語った』。このことをきっかけとして彼の妻は同じオートバイに乗っている。以上のようなストーリーにタイトルをつけるとしたらどんなタイトルがいいだろうかと考え、二人のオートバイの排気量をとって、400+400、というタイトルにやがて私は思い至った。
「一日の仕事が終わる」…スケジュールになかった2時間の会議を終えた北沢友美は、一緒に暮らす大野が仕事をしている部屋に帰りたくないと、会議がはじまって間もなく思った。後輩の祐子とコーヒーを飲んでいるときに京都にいこうと思い立つ。『新幹線に乗ったとたんに今日の仕事は終わり、忙しかった今週も終わる。京都に着けば自分ひとりきりだし、夜をひとりで過ごし、明日も、ひとりで気ままにしていることが出来る。望むなら、日曜日も、夜まで京都にいていい』。新幹線に乗り込んだ友美は、なぜ大野のいる部屋に帰りたくないのかを考える。自分が妻に似た役を引き受けなくてはいけない状態が、自分はいやなのだろうか。ただそうしたうっとうしさを避けたいというよりも、今日はひとりになれるところへ帰りたいという気持ちのほうが強かった。京都に着きお気に入りのホテルにチェックインして大野に出張で京都に来ていると電話した後、食事に出た友美はかつて親密な関係にあった三沢とばったり再会する。夕食を終え、三沢の泊まっているホテルへいき、充足した三時間を過ごしてからタクシーで自分のホテルの部屋に戻った。ベッドに仰向けになり、『全身から力を抜き、深く静かな呼吸をくりかえした。目を閉じた。しばらくして目を開き、窓のほうを見た。窓の外に夜があるのを確認して、これで一日の仕事はついに終わったと、彼女は思った。』
「ハートのなかのさまざまな場所」…夜のなかを走るクーペのなかで吉田と武田は後ろから走ってくる舞子のせっかちさについて話している。かつて舞子のオートバイの転倒で出会った吉田は友人の武田に舞子と偶然出会うことをけしかける。うまく出会うことができた武田も吉田も舞子にはお互いのことを話さずにおき、頃合いを見て偶然のようにして三人の関係をスタートした。運転に疲れた舞子が吉田と交替し、武田になにを話していたのかと尋ねる。『「きみのことだ」「私のこと?」「そう。きっちりと半分ずつだなということ」「なにかしら、半分ずつとは」「きみはまるでグレープフルーツのようだ」…「やはり、半分ずつなの?」「そうだよ。吉田と仲よくふたりで、スプーンですくってる」』。再び交替して吉田と武田が入れ替わった後、『「私は、グレープフルーツですって」…「きみは、どうなんだ」「私は、ひとりずつまるごと、合計ふたりよ」…「十人ぐらいになってみろ、きみはグレープフルーツのハーフではなくて、薄っぺたいスライスだ」』。さらに交替して吉田と武田が一緒になり、今度は武田が運転した。『「俺たちのほかにもいると仮定して、どの男もみなまるごと、舞子はどこにおさめるんだ」「全員、彼女の胸のなかさ」「ハートか」「そう。ハートのなかにさまざまな場所があって、それぞれふさわしいところにおさめてあるんだ」』
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「ふたとおりの終点」品のある大人の駆け引き(?)
「別れて以後の妻」後ろ姿を見つめるフェティッシュな視線
「一日の仕事が終わる」素敵な女性が持つ自由な秘密の時間