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◎従来の考え方は、料理を一色ごとに区切って考えるのではなく、一連のつながりとして考えていた。芋を煮る場合でも、何回か分まとめて煮たのである。だから次の料理ではその煮る時間だけ調理時間が短縮される。そして、おせちの煮しめが典型だが、先の料理の煮汁を次の料理の出しに使うというかたち(送り使い)で、素材そのものによって基本となる味を引き出していく。
◎かつて料理は料理だけでなく、他の家事労働と組み合わされて考えられていた。たとえば煮物は、野菜炒めより時間がかかる。だが煮物の場合、何もそこにかかりきりになっている必要はない。他の料理や他の家事を同時にこなすこともできる。
先祖が創造を加えつつ伝承し築き上げてきた伝統的な調理法が非効率で、「近代的」調理が効率的などと言えないことがわかる。
◎子供は、その調理労働における母親の思いと、その調理に要する時間と、料理そのものを一緒に食べることができた。毎日繰り返されるその過程の「経験」を通して、調理の技術も伝承されていった。
◎食とは、対象化され客観化された成分を食べることではない。料理ができていく過程も、場合によっては作物が生長し種が種として受け継がれていく過程も、全部一緒にたべているから、「おいしく」「ありがたく」いただける。
台所改善とあわせて食の手法の退化は、食を栄養摂取行動に矮小化し、家庭内の人間関係をゆがめてしまった。
これでは、たとえ栄養素で満たされた食事であっても、体内に十分に取り込めないのではないか。
調理も含めた食は、都会においてわずかに残された自然性の認識の場である。
野菜と人間との関係、自然と人間との交通関係を、調理と摂取というかたちで感じ取り、しかも次代に残してゆく場である。「品質」もここに成立する。
◎「豊かな日本型食生活」の虚構性は、個人や世代による食のゆがみを無視し、「平均的に見た場合」としている点にある。
個別のゆがみの総和がたまたま栄養バランス上「理想的」になったにすぎない、というのが実情。
◎多様な風土に育まれた食生活もまた多様なものであり、決して「コメを中心として云々」といったかたちに実体化できるものではない。
このような実体化された生活パターンを「理想的」とみる発想が地域の農業、食生活をゆがめる元凶である。
◎粉食普及で自国の食生活をいったん否定しておきながら、外国を基準にそれを「再評価」する姿勢に変化がないから、「理想的な食生活」のためには輸入農産物もいとわないということになってしまう。
◎食生活とは、地域によって多様なものでなくてはならない。
地域性に根ざした食は決して停滞的なものではない。アイデンティティを失うことなく、持続的に発展していく可能性を秘めたもの。
◎食べ物の中に含まれている「栄養素」がそのまま「栄養」になるのではない。「『食べ物』を摂取し、消化し、吸収し、体の細胞に同化し、今度はそこからそれらの成分を異化してエネルギーを出し、生きていく力、働くちからを出していく」過程全体が「栄養ということ」
食品に栄養素が含まれているからといって「栄養」がよくなるとは限らない。
◎栄養学が栄養素学でない以上、それは食べ物と人間の間に成立する代謝生理全体を視野に入れなければならない。