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正法眼蔵が現代の言葉で事細かに説明されている一冊。
一部紹介
【受想行識】
受とは感覚、想は心の思い、行は行い、識は心の高級な作用である。
人は修行次第でどのようにでもなる。一心に修行すると、それだけ早く初果が得られる。さらに又、修行を積むと、二果即ち羅漢果も得られる。本文にある預流果とは初果のことだ。一来果というのは、天界と人間界とを一往復して涅槃に入るという果である。不環(ゲン)果というのは、もはや欲界に生まれて来ないところの果である。阿羅漢果というのは、一切の煩悩を断絶した果である。修行次第ではこのような様々の境涯が得られるのだ。
宗教は時と処と人をもって説かれるのだ。同じ釈尊がとかれた教えでも、集会の時と、人とに応じて、千差万別である。
人間は生死の世界に流転するといって嘆くことはない。その生死の苦をまぬかれるよい方法がある。それは、心が常往であって、不滅であるということを知ることだ、つまりこの身体は、生まれたのであるから、必ず滅してすまうが、心は決してなくならない。自分の身に生滅に左右されぬ心があるといくとを知ったならば、これが本来の人間の本質であるから、身体というものは仮の姿だ。従ってこの仮の姿の身体は、生まれたり、死んだりあの世に生まれ変わったり、又死んだりして定まるところがない。しかし心は変わらない。過去・現在・未来を通してかわるものではないのであり、又変わってはならなぬ。このように知るのが、「生死を離れる」ということである。
皆のものはただいそいそこの心が常往であり、変わらぬものであるということを悟らなければならぬ。しかるにいたずらにボーと座って座座禅するというだけで一生を過ごすのでは、結局何の役にもたたぬ、結果に了(オワ)るのであるぞ-こんな説き方をある種の人々はするが、この説は果たして諸仏の説き明し給うた仏道になった教えであるのかどうか。
心身一如というこの真理は仏法でつねにとくところである。どうして身の滅するち、心だけ身を離れて常往であるだろうか。もし一如であったり、そうでなかったりすることが色色とあるのならば、仏説が間違いだということになる。又、この生じたり滅したりする現象は取りのぞかねば悟れぬと考えるのも、仏法を捨てる罪となる。何故なら、現象はとりのぞく必要はないからである。生死を拒否して、はじめて悟りが得られるのではない、生死そのまま涅槃である。又知るがよい。大乗起信論に「心真如とは、即ち是れ一法界大総相法門の体なり。謂ゆる心性は不生不滅なり」とあるが、これは「本来の心」のことをいっているのであって、「心真如」のことだ。この心はまさしく「不生不滅」であるが、身と一如なる心は、そんなものではない。「心真如」即ち〝仏心〟こそが霊的大宇宙そのものであり、それは現象を超え生滅を超えた「実相」のことなのだ。この世界コソ真実の世界であり、これを「心」というときには、「心」が全てであるといえる。さとりそのものの「心であって」一切の実在は「心」そのものだという。