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名作。
ウィリアム・ブレイクの詩の引用が多く出てくるせいか、難しいと思われがちだけど、熱意にと祈りに満ちていて、いい本。
引用どこかにたくさんメモしたような…
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イギリスの孤高の詩人にして画家、そして神秘的キリスト者(それは既成のキリスト教を苛烈に批判する)ウィリアム・ブレイクのテクストを根底に据え、頭部に障害を持つ息子との共生を描く。大江作品が少なくとも、障害児を持つ親になにかをもたらすように、小説は常になにかをもたらす。しかし、小説に求めることはできない。ただ、もたらすだけである。ドイツの詩人はこの核拡散の状況を憂えて、こう詩を詠む。「求めれば救いは来る、しかし、私たちの予期せぬところから」と。それは、まさしく『小説』という一形式への隠喩となりうる。
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障害を持つ長男イーヨーとの「共生」を、イギリスの神秘主義詩人ブレイクの詩を媒介にして描いた連作短編集。作品の背後に死の定義を沈め、家族とのなにげない日常を瑞々しい筆致で表出しながら、過去と未来を展望して危機の時代の人間の<再生>を希求する、誠実で柔らかな魂の小説。大佛次郎賞受賞作。
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『個人的な体験』との連なりで捉えると、この作品においてはイーヨーの存在・イーヨーの言葉「大丈夫ですよ!」が世界を肯定するような清清しさに溢れている。もちろん清清しさだけじゃなくて、悲哀も含まれていたり。
「そうです! がんばって長生きいたしましょう! シベリウスは九十二歳、スカルラッティは九十九歳、エドゥアルド・ディ・カプアは、百十二歳まで生きたのでしたよ! ああ!すごいものだなあ!」「パパ、よく眠れませんか? 僕がいなくなっても、眠れるかな? 元気を出して眠っていただきます!」「大丈夫ですよ! 僕は死ぬから! 僕はすぐに死にますから、大丈夫ですよ!」
イーヨーを通して作家Mさんのエピソード、右翼の青年たちとのスイミングスクールでのエピソード、イーヨーが学生運動の活動家によって誘拐された顛末、あくまで中心はイーヨーであるから、私はとても面白くこの本を読みました。『個人的な体験』にあった鬱屈は、イーヨーによって吹き飛ばされてしまったようで、そのことがなんだか嬉しい。
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この本は2度読んでいます。現在は『水死』と平行して読んでいます。最新作は七十五歳、こちらの作品は、四十五歳、三十年前の作品で、且つ、ノーベル賞前の作品です。今もこの頃も、魂や、小説の輝きは、全く旧くありません。そして、四十五歳は時代の軽薄さに流される年齢でもないので、しっかりと、心の杖は失わず、大きな木(レインツリー)に表象される、息子さんへの愛情を描いています。一度目に読んだ時は、定評のある(笑)難解さに何度か軽い眩暈を起こしました。文字が蒸発しているように踊って見えることすらありました。本当に。けれど、二度目は簡単に思えました。ブレイクという古いイギリスの詩人をかなり引用して、知的障害の子どもを持つ父親の想いとシンクロさせながら、何気ない毎日の、幸せすぎる日々を描いています。
子どもの成長と対峙することは、命あることの衝撃、嬉しさを心から感じることです。
子どもに障害があれば、尚更です。
静かな息子さんの性格に影響された静かな世界で描かれているのと同時に、そんな幸せに深呼吸しているような、大江氏の心に触れることの出来る小説です。
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感想は「う〜ん・・・」としか言えない。ブレイクの詩を読んでいないからかもしれないが、ブレイクの詩を一度でも読んだことがあるとまた違った感想を抱いたのかもしれない。とりあえず、ブレイクの詩を読んだら、再読しようと思う。
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(1995.12.18読了)(1994.10.26購入)
(「BOOK」データベースより)amazon
神秘主義詩人ウィリアム・ブレイクの預言詩に導かれ、障害を持って生まれた長男イーヨーとの共生の中で、真の幸福、家族の絆について深く思いを巡らす。無垢という魂の原質が問われ、やがて主人公である作家は、危機の時代の人間の“再生”を希求する。新しい人よ眼ざめよとは、来たるべき時代の若者たちへの作者による、心優しい魂の呼びかけである。大江文学の一到達点を示す、感動を呼ぶ連作短篇集。
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すごくタフでハードな体験だったんだろうなと想像出来るのだけど、出来事のみならず彼の文章表現能力がぶっ飛んでて、もう本当に大笑いに大笑いで全然退屈しない。それにしても、ここではウィリアム・ブレイク、「燃え上がる…」ではイェイツと、どうして既に活字となっているものに縋ってしまうのか。というのもそれらは既に引用を超えていて、貴方はその詩たちにおそらくは書き手の本来の意図をも超えた意味を付与できるのに…それほどまでに目の前の現実はそれ自体としては脆いものなのか…こういうのが言葉から離れられない人の姿であるのか…。
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この手の小説は実に苦手だ。目から入った文字は、咀嚼される事なく脳に届き、思考を混乱させる。再チャレンジもはばかれる。
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「個人的な体験」から続く一連の作品群の一つだと思う。自身の小説・体験を何度も再定義していく独特のやり方の中で書かれているので、主要作品を読んだ後に読むのがおすすめです。もちろん、単体でも分かる構成になっていますが、深く自身に浸み込ませようと思うと、他作品からスタートがやはりおすすめです。
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絶大すぎて簡単には書けないが、箇条書きで。
・イーヨーに対する父親の態度は思ったより適当で無責任なもので(溺れさせるなど)、しかしそう見えるのも父親自身の記述によってである。ということは、この無責任な態度はどこかで自己への過信がない視線を保った上でのことであるし、何より包容力のある観察・関心は当たり前のように先行している。父親の精神の危機でもあり、例えば無条件の献身は必ずしも善とされうるものではないということなど考える。共に生きるということをどう受け止めるか。ともかく、大江健三郎が暖かくイーヨーについて思いをめぐらせるその手つきだけで心が揺さぶられてしまう。
・文章やら構成についても素晴らしい。細かく入り組んだ文、時系列や思想の入り組んだ配列が互いに照応することで、何かが自乗されているような効果。圧倒的な読後感。
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何度も回想が入るので時間軸は一様ではないが、イーヨーと呼ばれる大江氏の長男が19歳の時の物語である。障碍を持った彼との共生には物理的にも、またそれにも増して精神的にも、煩悶が付き纏い、同時にそれは常に死と生の問題を突きつけて来る。それだけに、作家にとっても、また私たち読者にとっても音楽劇『ガリヴァー』上演のシーンは、胸がつまるとともに暖かい共感と共生感に包まれる瞬間だ。小説の全編にブレイクの詩が流れるが、これはあくまでも個的で特殊な体験と、これもまた特殊な詩とが交錯することで普遍へと昇華させる希求だろう。
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タイトルはウィリアム・ブレイクの詩の一節に由来するもので、各短篇のタイトルもブレイクの作品などから採られている。引用や独自の解釈なども作中で展開し、また作中の展開としてブレイクの詩について調べるシーンすらある。ここまでブレイクづくしだと、ブレイクについてまったく関心も智識もないわたしとしては面喰らってしまう。ブレイクの詩は現在の日本で広く読まれているとは言いがたく、そのためそれを軸に話が展開していても、どう読み解くべきか容易に答えを出せる読者はすくないのではないであろうか。そう思って読み終えたあと鶴見俊輔氏による「解説」を読むと、ブレイクの詩句と「イーヨー」の言動が随所でリンクしていると書いてある。なるほど、この作品はイーヨーの言動を中心に読み解き、ブレイクの詩を再構成してゆけば良いのである。はじめにこのことを知っておくべきであった。ブレイクを中心に読み進めてゆくとなかなか難解で行き詰ってしまうが、イーヨー自身は非常に魅力的で、時折笑える行動も登場する。イーヨーを主人公として捉えて読めば、ふつうにおもしろい小説なのである。ただ、その場合やはりブレイクの壁が立ちはだかる。智的障礙をもつイーヨーと各方面でマルチな才能を発揮したブレイクは本質的に異なるといってはあまりにも失礼であろうが、実際問題越えられない壁があることは明らかであり、そこを意図的にネグっているせいで、傑作が良作どまりとなってしまっている。あるいは、ブレイクの詩とイーヨーの発言を逆転させるべきであったろう。この感想もブレイクのことばかりになってしまったので、ある意味不幸な小説である。
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「個人的な体験」からの流れをひいている作品。イーヨーが良いキャラをしているからある意味主人公なのであろう。ただ、難解な内容でとても読みにくい。
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初期の大江作品を特に愛好していたけど、この時期の短編集の充実度もすごい。装飾的な言葉を持て囃すのでなく、作家の根っこに基づいたブレイクとの共振が美しい