投稿元:
レビューを見る
初めて買った心理学関係の本。中一か小6かその辺りだったような・・・。 入門書です。すごく読みやすい本だと思う。
投稿元:
レビューを見る
要は、「悟りの世界」にいざなう「意識の変容」について、様々なレベルの手法と共にまとめたもの。
読者自身が内的体験と照らし合わせながら読みすすめれば、自分の魂の深みへいざなわれていく・・・らしい(確かに理解の程度にいざなわれるでしょう)。
精神分析→身体の復活を目指す実存セラピー→個を超えた普遍的深みを探る超個セラピーへとなぞりながら、個々のレベルに向けたセラピーを「意識のスペクトル」というモデルで体系化。
仏教を中心とした東洋思想が中核となっている。
二元の世界を分けるものが境界であり、これは人間が作ったもの。
リアリティが二つあるように見えるのは幻想。究極のリアリティは対立の統合。
対立するもの両方を超越する自覚(=無境界の自覚)の中心が「統一意識」。
何度か読み直したほうが良さそうな一冊。「意識のスペクトル」の概念には納得させられた。
投稿元:
レビューを見る
想像以上に凄い本だった。随所にクリシュナムルティやラマナ・マハリシ、禅僧のことばが引用されていることからわかるように思いっきりアドヴァィタ系の本である。それを非常に理路整然と記述されている。アドヴァィタ系の話をこんなに理論的に深く解説している本は始めて読んだ。ウィルバーの知性がほとばしっている。一度で消化しきれないので何度も読みたい本である。
例えば、クリシュナムルティが良くいっている、”真実へ到達するためにはあなたには何もできない。偽りを偽りと見たときだけに自然に真理が訪れる”といったようなこともそれが何故なのか、理論的解説がされている。また、よく禅僧などがいっている、”過去や未来は存在しなく現在しかない”と言う点も説明されている。
和書は1986年初版とのことだが、こんな本が昔からあるのであればもっと早く読みたかった。
投稿元:
レビューを見る
静かにおもしろい本でした
よみおわった瞬間に、おわったー・・・とい
自己セラピー論としての無境界という本だったので、少し落ち込み気味だった私にはちょうどよかった。本を読みながら何かをふと考えてしまっていても、それすらも無境界として、「それでもあなたは本を読んでいるのである」とか言われそうな安心感がありました。
いつかもう一度読みたいです。
投稿元:
レビューを見る
自我の仮面(ペルソナ)と影(シャドー)の分裂から宇宙意識に至る統一意識への変容について。今、流行りの非二元、ヴィパッサナー瞑想、禅の先駆けとして、1979年(約40年前)に既にトランスパーソナル心理学として提唱していたのは凄い。
投稿元:
レビューを見る
この本のタイトルにある「境界」という言葉は、「自分」と「自分以外」の間にある境界のことだ。その境界をどこに引くかは、それぞれの人の考え方によって、だいぶ違う。
「意識」と「無意識」に境界線を引いて、その「意識」が自分だという考え方もあるし、「思考」と「身体」に境界線を引いて、その「思考」が自分だという考え方もあるし、「自分の皮膚」を境界線として、その「内側」が自分だという考え方もある。
そして、もう一つ、そもそも境界など存在しないとするという考え方がある。ジョン・レノンが「I AM THE WALRUS」で歌った、「I am he as you are he as you are me and we are all together.」は、まさに「無境界」ということだろうと思う。
この「無境界」という概念については、言葉では絶対に表現することが出来ないという矛盾が最初からある。言葉自体が、物事の中に「境界」を引くために存在しているものだからだ。
だから、ここで説明されていることは、結局のところ、言葉の意味を読み解くというよりも、自分自身で感覚的に理解するしかない。
この本は、色々な思想の寄せ集め的なところがあり、仏教やら道教やら精神分析やら色んなところからとにかく山ほど言葉が引用されているのだけれど、それらを元に「考えるな。感じろ。」と言っているような雰囲気だ。どちらかといえば心理学書であり、セラピーの手順についての手引きにも近いところがある。
それにしても、人類がこれまで一生懸命に頑張って積み上げてきた科学という学問が、色々なものに明確な境界を引くことを主な目的としてきたことを考えれば、いったい何のために人はわざわざ技術を磨いて、バラバラに孤独になる方向に向かってしまったのだろうと、途方に暮れてしまう。
本の中で、量子論が登場した時のことについて、「そのショックは、ある日手袋を外してみると自分の手があるはずのところにエビの爪があったときの衝撃に匹敵するものであった」という説明には笑った。量子力学によって、これまで科学が積み上げてきたものがいったん崩れてしまった今の時代というのは、新しいパラダイムが生まれる大きな節目なのかもしれないと思う。
そして、この「無境界」という概念は、東洋思想においてこそ最初の最初から常に意識され続けてきたことであり、この時代に、この日本という国に生まれた身として、今、この本に出会えて良かったと思っている。
決断を下すというのは、何を選び何を選ばないかの境界線を引くことである。何かを欲するというのは、楽しいものと苦痛なものとに境界線を引き、前者を求めることである。一つの考えを主張するというのは、真実だと思える概念と真実でないと思える概念に境界線を引くという意味である。(中略)われわれの生活がさまざまな境界を設けるプロセスであることは明らかである。(p.39)
「量子革命」がなぜそれほどの激変であったかを理解するためには、二十世紀の曙までに科学の世界が1400年にわたる驚くべき成功を享受していたことを思い起こさなければならない。少なくとも、古典物理学者たちの目から見ると、宇宙は個別の物事のすばらしくはあるが不明瞭な一つの集合体であり、個々の物事はそれぞれ��間、空間の明確な境界によって、完全に隔離されていると見られていた。さらに、惑星、岩石、流星、リンゴ、人々のようなこれらの個別の実体は、正確に測定し、数量化できるものと考えられていた。そしてこのプロセスから科学的な法則や原理が生み出されてきたのである。この手法があまりにも成功したために、科学者たちは自然界全体がこれらの法則に支配されていると夢見るようになった。(中略)ところが、そうではなかった。まったくだめだったのである。そのショックは、ある日手袋を外してみると自分の手があるはずのところにエビの爪があったときの衝撃に匹敵するものであった。(p.68)
ウエイ・ウ・ウエイは次のように語っている。
何故あなたは不幸なのだろうか。あなたが考えること、あなたが行うことの99.9パーセントがあなた自身のためであるにもかかわらず、あなたなどいないからだ。(p.97)
禅師雪峰は、つぎのように語っている。「もし、永遠が何を意味するか知りたければ、それはこのいまの瞬間をおいてほかにない。この現在の瞬間にそれをつかまえられないとすれば、何百万年にわたって何度生まれ変わろうとも、それをつかまえることはできないであろう」(p.111)
もし相当強い否定的な感情−完全な怒りの爆発−が生じてきたとしても、それほど心配するにはあたらない。それがあなたの人格のおもな部分を構成しているわけではないからである。演劇で端役が初めてステージに出てくると、全体の配役のなかではまったく重要ではないとしても、観客の目はすべてその端役に注がれる。それと同じように、何らかの否定的な感情が自覚の舞台に初めて登場すると、自分の感情の全配役の一断片にすぎないとしても、一時的に目を奪われてしまうことがある。だが、舞台裏でうろついているよりは、表に出てきてもらったほうがはるかにましである。(p.199)
あらゆるおとぎ話しの冒頭の「むかし、むかし」は、実際には「時を超えれば」という意味であり、それにつづき話しでは一時的に空間と時間が停止され、遊びが至上となって何でも起こりうる。神話の言語とイメージは線形的論理と抽象的思考より真のリアリティに近い。真実の世界が無境界だからである。(p.215)
投稿元:
レビューを見る
自分の境界とはどこにあるのか。
それをどこに置くのかによって、自分にとっての世界は変わる。
自分の進化、人類の進化に大きく影響を与える考え方、と思っている。
トランスパーソナル心理学、と心理学に分類されているが、哲学的な面が多いと思う。