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紙の本
「子どもの感覚」に言語的表現を与えた奇跡的な著作
2001/03/07 21:22
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書が出版される少し前のこと、京都で関西哲学会(だったと思う)の会合が一般公開のかたちで開催されると知って、当時、哲学への関心と哲学者(というより「哲学研究者」)への根拠のない不審感を募らせつつあった私は、哲学者とはそもそもどういう種類の人間で、彼・彼女らはいったいどのような議論をしているのか、覗きに出かけたことがある。
確か「超越論哲学と分析哲学」といったテーマのもと、シンポジウム形式で議論が展開されていて、そこに永井氏がゲストパネリストとして招かれていた。私の記憶では、「永井の〈私〉」対「超越論的主観その他」の論争軸に沿って、関東からの論客を迎え撃つ関西の論客たちがよってたかって(私の印象)永井氏の所論を吟味するといった趣で進行していたように思う。
その時やりとりされていた議論の内容はほとんど思い出せないが、若き永井氏の端正な容貌とスマートでどこか「素人」っぽい(私の印象)語り口はいまでもありありと覚えている。そして、こういう議論をする人が日本にもいたのだと、それこそ目から鱗を何枚も落として、永井氏の著書の刊行を心待ちにしたものだった。
さて、こうして『〈私〉のメタフィジックス』[1986]にめぐりあった私は、以来、繰り返し読み直しては、何度も何度もこの著書によって初めて言語的に表現された(と私は思う)「哲学的問題」へと立ち返ることになった。(少なくとも、そこにおいて永井氏の思索が決定的な深化を遂げた——と私は思う——論文「他者」[1990]が発表されるまでは。)
ふつう、再読に耐える古典的名著は、読み返すたびに新しい発見をもたらすことをもってその名に値するものとされるのが一般的ではないかと思う。しかし、こと永井氏の著書に関しては事情がやや異なっていて、読み返すごと新たにもたらされるものは実は同じ事柄の発見である──というより、最初に読んだときの「驚き」がまったく同じ感覚を伴って再び出現するといった「問題感覚」あるいは「哲学的不安」(いずれも永井氏の言葉)の再現なのだ。
それは、現在の知覚体験のなかに過去の想起体験が重ね合わされる「既視感」とちょうど正反対の感覚、つまり過去の想起体験のうちに現在の知覚体験がリアルに重ね合わされる「永遠回帰感」とでも表現できそうな体験である。
このような読書(再読)体験のよってきたるおおもとは、永井氏によって言語的に表現された「問題」そのものがもつ構造にある。──ある問題を「哲学的問題」として言語的に定式化したとたん、言語がもつ指示機能や意味作用の働きによって問題が一般化・概念化され、そのことによって実は問題が問題でなくなってしまう(問題が隠蔽されてしまう)という、私や他者をめぐる「哲学的問題」がもつある構造。
一般概念としての「私」でも発話主体としての「私」でもない〈私〉(独在性のわたし)とは、それにしても把握し難い存在だ。それを把握し続けるのはもっと困難なことである。私はこれまで、永井氏の文章に接するごとに〈私〉をめぐる「問題感覚」を(再)発見し、しばらく経つと見失うことの繰り返しだった。(問題を問題として感じ続ける緊張に耐えられず、要するに、などと概念化を企てようものなら、「問題」はたちどころに雲散霧消し、あとに残るのは白々とした自己意識だけ。)
——要するに本書は、「子どもの感覚」(永遠回帰感、あるいは神秘感の伴わない神秘体験?)に言語的表現を与えた奇跡的な著作である。
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