紙の本
子どもを前に語られる村の民俗の数々
2001/12/16 23:35
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投稿者:三中信宏 - この投稿者のレビュー一覧を見る
かつての「ふるさと」すなわち「村」の成り立ちとそこでの暮らしについて,子どもに話しかけるように書かれた本である.人前での話術が抜群にうまかったと言われる著者の語り口を髣髴とさせる.しかし,内容的に見ると,村の民俗に関する歴史や由縁が次々に解説されており,たいへん情報量が多いと感じた.
本書が最初に出版された,敗戦直後の時代と現代では「村」のありさまも大きく変貌した.本書には,村をめぐる人の働きや役割のあり方,合議の進め方,村を存続させるためにどのような方策が必要かなど,ただの民俗レポートだけではない論点もしっかりと盛り込まれている.その現代的な意味はまだ薄れてはいない.
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【目次】
旅と文章と人生(柳田国男) 9
1.ほろびた村 12
2.人々の移動 33
3.今の村のおこり 54
4.村のなりたち 80
5.暮らしのたて方 101
6.休みの日 125
7.ひらけゆく村 175
あとがき 225
解説(山崎禅雄) 228
図版目次 236
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旅人の世界。
土着の世界。
これは下手に語れません。
深くゆっくり読んで、「ふるさとの世界」を感じてください。
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未来社から出ている宮本常一の著作集は、今も刊行が続いている(未来社のサイトを見たら、最新刊は第50巻「渋沢敬三」、別集の私の日本地図は「瀬戸内海II 芸予の海」が今年になって出ている)。著作集をむかし図書館で借りてみたこともあるが、あまりに膨大なのでとても読めず、私がもってるのはほとんどが文庫本や新書、ライブラリー版など小さいサイズで出たもの。
こないだ久しぶりに本棚から出してきて、『日本の村・海をひらいた人々』、『ふるさとの生活』、そして『民俗学の旅』を読んだ。なんど読んでも、読みふける。前に読んだときには知らなかった土地の名を、再び読んで(ああ、こんなところにあそこの地名が)と思ったり、(あの人が住んでるところやなあ)と郵便の宛先で知っている地名を思ったりする。
道のないようなところまで、日本の各地をくまなく歩いたといわれる宮本常一。旅にでた先を歩き、風景と人の暮らしをよく見つめ、人の話を聞いてきたものを記録にとどめ、あるいは心にとめて、また別の地で出会ったものと照らしあわせたり、書きのこされたものと比べたりしながら、それぞれの土地で、そこを住みよいものにしようとしてきた先祖の人たちの暮らしや働きを考えている。
▼ひとり歩いていて、まったく人手のくわわっていない風景に出あうことがあります。海岸に波のうちあっている所とか、山の中の木のしげっている所とか、または川のほとりなどですが、そういう風景は何となく心をさびしくさせます。しかし、人手のくわわっている風景は、どんなにわずかにくわわっていても、心をあたたかくするものです。海岸の松原、街道のなみ木みちをはじめ、植林された山もまた、なつかしい美しさをもっています。そうした所に見出す一本のみちも、こころをあたためてくれるものです。(『日本の村・海をひらいた人々』、pp.11-12)
宮本が小学校教員をしていたときに、子どもたちによく話したというこの言葉も、なんど読んでも心にのこる。
▼「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ務めるようになると、もうこんなに歩いたりあそんだりできなくなる。いそがしく働いて一いき入れるとき、ふっと、青い空や夕日のあたった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる」(『民俗学の旅』、pp.75-76)
戦後、大蔵大臣をしていた渋沢敬三から、幣原首相が大変なことを考えておられる、これから戦争を一切しないために軍備を放棄することを提唱しようとしておられると聞いた宮本は、渋沢とこんな問答をしている。
▼「軍備を持たないで国家は成り立つものでしょうか」とおたずねすると「成り立つか成り立たないかではなく、全く新しい試みであり行き方であり、軍備を持たないでどのように国家を成立させていくかをみんなで考え、工夫し、努力することで新しい道が拓けてくるのではないだろうか。一見児戯に等しい考え方のようだが、それを国民一人一人が課題として取り組んでみることだ。その中から新しい世界が生まれてくるのではなかろうか」と言われた。(『民俗学の旅』、pp.146-147)
「原子���による発電をなくしていくこと」は、電気がタリナイ、原発はアンゼンという人たちからは、「児戯に等しい」と思われているのだろう、と思う。「成り立つものでしょうか」と思う人もたくさんいると思う。「原発をもたない」ことは、全く新しい試みではなく、原発をもたないでいた経験がある。経験があるから、そういう行き方は容易かというとそんなことはないと思うが、パチンコ屋の表の看板が暗いぐらいでちょうどいいのではないかと、やや薄暗くなっている駅前を見て思う。
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この本は、冒頭に柳田国男さんの短い文章が載っており、
これから読みすすめる期待を高めてくれる、
素敵な序文となっています。
宮本常一さんの文章はあたたかくて心に滲み入ります。
この本はとくに、小・中学生に向けて書かれたとのことで、
やわらかい語り口となって、親近感がわきます。
しかし、まなざしは穏やかですが、
全く手を抜かない探究心を感じます。
一章三節に「津波」という項目があり、
岩手県の三陸海岸が取り上げられていました。
昔から津波の多かった土地だということを知りました。
三章四節の中の「郷士と開拓」では、
関が原後、土佐に山内氏がやってきましたが、
もと長宗我部の家来だったものは、いうことをきかなかったので、
山内家の家来野中兼山が土地の開墾をすれば、
武士にしてやるとふれを出したということが書いてあります。
開墾して武士になったものを郷士といい、
郷士はどこにもたくさんいて、鹿児島県、山口県、京都府の南部、
山形県の米沢付近にはたくさんの郷士がいたそうです。
そしてたくさんりっぱな人材が出たとありました。
この本の中で、「世の中が平和になり戦争がなくなってくると」
という表現が何度か用いられていますが、
これが世界大戦後のことを指すのではなく、戦国時代が終わり、
徳川の治世になったことを指しているのが面白いです。
とおくの時代から地続きなんだということを感じます。
この本の締めくくりの言葉は
「村を、今日のようにするためにかたむけた先祖の努力は、たいへんなものであったと思います。その努力のなかにこそ、のこる歴史があったのでした。私たちは、いつでもその人たちの全身しつづけた足おとがきけるような耳と、その姿の見えるような目を持ちたいものです。」
というもので、宮本常一さんの物事に対する姿勢が、
よくあらわれています。
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子供向けに書かれた本で、表現は極めて平易、漢字も少ない。しかし内容は実に豊富であり、宮本民俗学の「ムラ」世界を一望できる多彩さを持っている。
柳田国男が序文で「話の数を並べすぎたかもしれないが・・・」と書いたとおり、膨大な知見が繰り広げられていて、じっくり読めば、大人が読んでも凄く楽しめる。
しかし当時まだ残っていたこれらの「民俗」は、北海道はアイヌ文化を除けば後発であり、後で各地からの移民が入り乱れたために、あまりストレートには伝わっていない。本州でも、東京はおろか、ちょっとした地方都市でさえ、現在残っている民俗の名残は極めてかすかになっているだろう。けれどもその「かすかな徴」が不意にあらわれてくるのを見るのはとても嬉しくなる。
そのようなスタンス、昔の風習の痕跡を発見し、それを追ってみようという気持ちを子供に(あるいは大人にも)持たせることに成功している本だ。
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執筆当時は新進の民俗学者であった宮本が主に小学生を対象としてふるさとの生活史とくらしの成り立ち方を描いた読み物。子供向けということもありひらがなが多く、現代の大人には少し読みづらいところもあるが、書かれていることは正に「(当時の)生活のための教科書」といっていいのではないだろうか。
なぜ同じ島の中でも集落によって漁のやり方が異なるのか?なぜ祭りはいつも月の半ばに行うことになっているのか?身近な疑問点から出発してそれらの背後にある「理由」を子供にもわかりやすく解説し、民俗学という学問が「科学」の所産であることを印象付ける一冊。
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う〜〜ん・・・なんて思いながら読んでいたら、どうやら子供向けに書かれた本だそうです。
なので、総論的で深堀りはあまりありません。
民俗学への入門としては良いのでしょうが、大人には少し物足りないかも。
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[ 内容 ]
著者は若き日の小学教師の経験を通し、ふるさとに関する知識や理解を深めることが、子どもの人間形成にとっていかに大切であるかを生涯にわたって主張した。
本書は日本人の生活の歴史を子どもたちに伝えるため、戦中戦後の約10年間、日本各地歩きながら村の成り立ちや暮よし、古い習俗や子どもを中心とした年中行事等を丹念に掘りおこして、これを詳細にまとめた貴重な記録である。
民俗調査のありかたを教示して話題を呼んだ好著。
[ 目次 ]
1 ほろびた村
2 人々の移動
3 今の村のおこり
4 村のなりたち
5 暮らしのたて方
6 休みの日
7 ひらけゆく村
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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(01)
のっけからののけぞるような驚きがある.柳田国男の美しい序文に続き,第一章は「ほろびた村」からはじまる.いわば村の失敗事例から筆をはじめ(*02),村の成立から発展で筆を措いている.それは世界の創造を物語るような叙事詩でもあり,その意味では神話の構造を本書は有している.
文庫版の解説(1986年,山崎禅雄)にあるように「子どものよみ物として書かれた」ことは本当に「明らか」だろうか.柳田の序文の意図や,宮本の本文が「平易な語り口調の文章」であるからといって,本当に子ども向けなのかどうか,疑うつもりで本書に接してみるのもよいだろう.柳田も宮本もこれが子どもに向けて書いたことを直接には言及していない.
本書が編まれた1950年当時の国民の情況に配慮して読んでみるのは有効だろう.戦中に教育をスポイルされ,村もふるさとも次代の担い手を失いかけた(失った?)当時の国民が本書から浮かび上がる.ところどころで著者は村における神社のあり方に言及している.そこには戦前の思想の支柱にもなりえた近代神道に対する著者のスタンスをも示している.
以上の事情をふまえると創世記としての「ふるさとの生活」の側面が見えてくるかもしれない.
(02)
ほろんだ村が失敗であったのかどうかという問題も留保されてよいだろう.動的な人間の活動を描いた本書において,村はトライのプロセスであって,そのうちのいくつかのエラーは必然でもある.著者は,古い伝統的な村を支点とした静的なパースペクティブはまったくというぐらい拒否している.そこにある移動や交易や挑戦を村の種子や栄養として肯定的にとらえている.また,ハレの行事として類型化される民俗を,「休みの日」というカテゴリーで捉えなおしたのは卓見であり,旅をし,動き続けた著者が,休みをどのように考えたかの端緒をうかがいしることができる.
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1986年(底本1973年)刊行。村(ムラ)の形成と衰亡(飢饉、山崩れ、津波)、そこで暮らす人々の営み、例えば、休日(信仰上の意味)、人の移動、食生活といった一般庶民の生活史を叙述。
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宮本常一さんの撮られた
「写真」に各地方での「洗濯物」が
けっこうある
その土地の人が
どんなものを着ておられるのか
その家族がどんな構成なのか
どんな暮らしをしておられるのかが
見えてくる
と おっしゃっている
何気ない日常の中にある
衣・食・住を
ていねいに「歩いて見る」ことによって
わたしたち日本人がよりどころとしてきた
わたしたちのアイデンティティーを
考えさせてもらえる
一冊です
本書は また
この国の 若い人たちにへ
という 常一さんの意識もあり
易しい言葉で綴られているのも
うれしい