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(2004.09.13読了)(2003.10.19購入)
副題「人と作品」
清水書院の伝記シリーズの一冊。人と作品という副題がついているので、前半は「高村光太郎の生涯」、後半は「作品と解説」という構成になっている。「作品と解説」は、絵画や彫刻作品の解説ではなく、詩集の中の作品の解説です。本人は、詩人であるよりは彫刻家でありたかったようですが、本人の意に反して世の中の認識は、高村光太郎は詩人という認識のほうが一般的だ。
●高村光太郎の生涯
「私が父の彫刻の仕事を受け継いでやるという事は、誰も口に出しては言わないうちに決まってしまっていたことだ。跡取りは父の職を受け継ぐ事は決まっていたことで、別に選択の何のということはなく、自然にやるようになったのである。小学校の7つか8つ位の時、父から切出し、丸刀、間透きなどを3本ばかり貰った。其の時に初めて父は私を彫刻の方へ導いて行くということをはっきり見せた訳だ。私は小刀を貰って彫刻家になったような気がして、何でも拵えてみたかった。丁度谷中に移って小学校を終わるころから、弟子が周りでやっているものだから、私は始終細工場に遊びに行って、その間に見たり聞いたりして、自然に道具やその他のことを覚えて行った。」(「回想録」)
「光太郎は、十五歳の時東京美術学校予科に入学し、日本画を学んだ。16歳で本科の彫刻科に進んだ。二十歳の時、木彫科を卒業し、研究科に進んだ。二十二歳の時ロダンを知った。二十二歳の時、洋画科に再入学した。」
美術学校の卒業制作では、日蓮をテーマにした「獅子吼」を作った。この時代、ほかに玉乗りの少女をテーマにした「薄命児」も制作している。これらの作品は、損保ジャパン東郷青児美術館で開かれた展覧会で見ることができた。日本画の作品、油絵の作品もあった。
光太郎は、二十四歳の時、美術学校教授の岩村透の勧めに従いアメリカに向かった。ニューヨークでは、国吉康雄も学んだ、アートスチューデントリーグで木炭画や彫刻を学んだ。その後ロンドンに渡り、パリに渡った。
「光太郎は、パリの芸術に酔った。そして無茶苦茶に歩きまわった。そこでは、日本人であることを忘れて、全く自由なコスモポリタンとして行動できた。金もないのにビールを飲んだり、オペラに行ったり、欲しくなると食を節して百フランもするようなロダンの本を買ったりすることもあった。そのような光太郎の行動は、周りの人から常軌を逸した行動と見られた。」
パリで暮らすうちに白色人種の心がわからず、心を通わすことができないもどかしさに帰国を決心する。帰国前にイタリアの旅に出た。「ロンバルジャからミラノ、パドア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェニスと見て回ってパリへ帰った。」
船で帰国した光太郎を神戸に迎えたのは父光雲だった。東京へ向かう汽車の中で、父から銅像会社を作る話を聞かされたが断ってしまう。「文展へは出品せず、パトロンを求めず、父の息のかかったところへは一切関係せず、勧められた美校教授の職は引き受けなかった。」
光太郎は、彫刻・絵画に従事し、詩・翻訳・評論と意欲的に活動しようとしたが、文展などの権威ある展覧会などへは出品しなかった��で、世間は彼を信用せず、絵や彫刻を売って生活したくてもそれはできなかった。北海道でバターを製造する傍ら芸術制作をすることも考えたようだが、バター造りが片手間でできるものではないことがわかり、あきらめた。結局父から仕事を回してもらい代作して手間賃を稼ぐしかなかった。
この後は、長沼智恵子と出会い「智恵子抄」の世界へ。
結局、高村光太郎は、好奇心が旺盛すぎて、彫刻に主力を注げなかったのだろうか。はなはだ残念である。