紙の本
悲劇の代名詞みたいな
2002/01/22 11:48
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投稿者:LR45 - この投稿者のレビュー一覧を見る
九郎判官義経といえば、悲劇で決まりである。なんといっても、平氏討滅の最大功労者でありながら、兄頼朝との不和や、政治感覚の欠如から、故郷ともいうべき平泉で兄頼朝と義兄ともいうべき泰衡に殺されてしまうのである。
判官びいきという言葉があるくらいに日本語に定着しているこのお題を、司馬遼太郎は現実的な目線から描こうとしているように見える。たとえば、弁慶と牛若の出会いも全然運命的ではないし、頼朝の義経に対する態度のつらさも、政治力学を考慮しての上であるとして、単に感傷主義をとっていない。
前巻は木曾義仲と義経・範頼軍が激突する直前までなので、今後のかの有名な義経の栄光と悲劇をどう描くか楽しみである。
紙の本
生の義経
2002/04/14 16:36
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投稿者:rb - この投稿者のレビュー一覧を見る
義経というと非力で弱々しいイメージが付きまとう。これは義経を悲劇の武将としてとらえた『義経記』やそれ以降の能などの影響が強いのだが、この本はそうした感傷的な義経観にとらわれない生の義経が書かれている。司馬さんの卓越した視点でとらえた義経は、確固たる意志を持っていて非常に人間的で、私の想像する義経にとても近く感動した。ただこれだけ史実に近づけようとするなら、弁慶の存在は疑問に残る。弁慶は史実では(少なくとも残されている史料には)あまり前面に出てくる人物ではないので、どうせ出すならもう少し劇的なエピソード用意しても良かったと思う。伝奇的な義経の話を期待してる人には、少し難しくて退屈してしまうかもしれない。
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(2005.01.15読了)(2004.10.02購入)
主な登場人物の生没年を「大辞林」で調べてみました。
【後白河天皇】(1127-1192)第七七代天皇(在位 1155-1158)。
【平清盛】(1118-1181)平安末期の武将。忠盛の長男。
【源義朝】(1123-1160)平安末期の武将。為義の長男、為朝・行家の兄。
【源行家】(?-1186)平安末・鎌倉初期の武将。為義の十男、義朝・為朝の弟。
【源頼朝】(1147-1199)鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。
【北条政子】(1157-1225)源頼朝の妻。北条時政の女(むすめ)。頼家・実朝の母。
【源義経】(1159-1189)平安末・鎌倉初期の武将。義朝の九男。母は常盤(ときわ)。幼名、牛若丸・九郎・遮那(しやな)王。
【弁慶】(?-1189)平安末・鎌倉初期の僧。「吾妻鏡」「義経記」などの伝えるところによれば、熊野の別当の子で比叡山西塔で修行し武蔵坊と称して武勇を好んだ。
【藤原秀衡】(?-1187) 平安末期・鎌倉初期の陸奥の豪族。基衡の子。鎮守府将軍。
【源義仲】(1154-1184)平安末期の武将。為義の孫。木曾山中で育てられ、木曾次郎と称した。
物語は、義経の母、常盤が平清盛から一条長成に譲られるところから始まる。「寝腐れの殿」というあだ名だったという。司馬さんは、あだ名をよく物語の中で紹介してくれる。どういう人物なのかを説明する上で便利なのであろう。
牛若は、自分の父親が誰なのか知らない。司馬さんは、牛若に父親を知らせる役割を鎌田正近(四条の聖)なる人物に行わせる。
牛若は鞍馬寺に預けられ、遮那王と呼ばれている。稚児名というそうな。偉いお坊さんにかわいがられ、夜のお相手などをさせられたりしている。(大衆小説はサービス満点だ。)
金売吉次が遮那王に興味を持ち、鞍馬から抜け出させ、奥州へと連れ出す。
司馬さんの義経では、弁慶は、まだ出てこない。
奥州へ行く途中、牛若は勝手に元服し、義経と名乗る。九郎というのは、単に九人目の男の子という意味しかない。義経は、途中、伊豆の蛭ヶ小島にいるという頼朝に会おうと思い吉次に別れを告げて、別行動をとるが源氏と名乗ってまともに相手してくれるものは居らず、奥州へと向かう。那須地方で、与一とめぐり合っている。
平泉に着いた義経は、都の胤を欲しがる人たちのために、生殖器と化し、毎夜別の娘を次から次とあてがわれたという。(この辺も大衆小説だ。)
義経は、奥州平泉で、六年過ごした。一度塩釜から船に乗り、摂津の大物ノ浦に行き、京都を見た。そのとき女装し、うろついている時に弁慶とあった。でもまだ一緒に奥州へは行かない。
源頼朝が旗揚げしたと聞いた、義経は止める秀衡の言うことも聞かず伊勢三郎義盛、ひとりを供に連れて飛び出した。秀衡は、佐藤兄弟に後を追わせた。
義経は、富士川の戦いから帰る途中の頼朝に面会し、対面を果たす。
頼朝は、義経を身内として扱わず、家来として扱う。
弁慶が都から馳せつけ、佐藤兄弟も到着し少しはにぎやかになった。
頼朝がなかなか腰を上げずにいるうちに、木曾義仲が旗揚げし、平家は都から追われる。
(義経と題されてはいるが、頼朝についてもかなり詳しく書いてある。)
(「BOOK」データベースより)amazon
みなもと��よしつね―その名はつねに悲劇的な響きで語られる。源氏の棟梁の子に生まれながら、鞍馬山に預けられ、その後、関東奥羽を転々とした暗い少年時代…幾多の輝かしい武功をたて、突如英雄の座に駆け昇りはしたものの兄の頼朝に逐われて非業の最期を迎えてしまう。数奇なその生涯を生々と描き出した傑作長篇小説。
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内容紹介
悲劇の最期をとげた源義経は、軍事の天才ではあったが、政治の力学にはまるきり鈍感であった。それが破滅へと彼を導いてゆく。歴史小説の巨匠が描く斬新な義経像
内容(「BOOK」データベースより)
みなもとのよしつね―その名はつねに悲劇的な響きで語られる。源氏の棟梁の子に生まれながら、鞍馬山に預けられ、その後、関東奥羽を転々とした暗い少年時代…幾多の輝かしい武功をたて、突如英雄の座に駆け昇りはしたものの兄の頼朝に逐われて非業の最期を迎えてしまう。数奇なその生涯を生々と描き出した傑作長篇小説。 --このテキストは、文庫版に関連付けられています。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
司馬遼太郎 大正12(1923)年、大阪市に生れる。大阪外国語学校蒙古語科卒業。昭和35年、「梟の城」で第42回直木賞受賞。41年、「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞受賞。47年、「世に棲む日日」を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。51年、日本芸術院恩賜賞受賞。56年、日本芸術院会員。57年、「ひとびとの跫音」で読売文学賞受賞。58年、「歴史小説の革新」についての功績で朝日賞受賞。59年、「街道をゆく“南蛮のみち1”」で日本文学大賞受賞。62年、「ロシアについて」で読売文学賞受賞。63年、「韃靼疾風録」で大仏次郎賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、文化勲章受章(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、文庫版に関連付けられています。
本の感想(オフィス樋口Booksより転載、http://books-officehiguchi.com/archives/4733965.html)
この本は昭和40年代に連載されていたものを本にしたものである。
上では、冒頭に藤原長成(通称:一条長成)という中年で、出世の見込めない貴族の話から始まる。この中年の貴族と義経の母となる常盤御前との出会い、幼少期に遮那王として鞍馬寺に預けられた頃の話、奥州藤原氏のもとに行く話へと展開されている。
下では 、源平合戦の一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いにおける義経の活躍、梶原景時との対立が描かれている。軍事的に天才であるが、政治的感覚が鈍く、悲劇に巻き込まれていくというストーリーである。
大河ドラマのストーリーと同じであるという印象を受けるが、昭和40年代から義経の人物像が定着したのだろうか。その点が気になる。
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うだつの上がらぬ平安貴族・藤原長成が最初に登場し、彼に常盤が生まれたばかりの牛若と共にやって来るところから物語は始まる。平家の世に生かされた源氏として、鞍馬の寺に預けられ、やがて奥州へ落ちていく。政治的野心がなく、親の仇を討つことだけを純粋に考え、関わった者の心をつかむ姿は、どことなく坂本竜馬を彷彿させる。政治能力に長けた頼朝と、彼とは真逆の性格を持った木曽義仲の明暗、そこに暗躍する後白河法皇という構図だけでも一つの物語として成立しそうだ。