紙の本
文字通り『影』についての解説書
2019/10/13 10:02
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『影』と言えば、光が当たってその光と逆位置に出来る物理的な影もあれば、自分の投影という意味での『陰』を意味する象徴的な内容まで広く捉えられると思います。本書はそれらを盛り込んで解説されています。
ただ内容としてはかなり哲学的或いは心理学的な側面からアプローチされているので、物理的な影に関する内容はほぼありません。私には一部かなり難解な箇所が散見されましたが、全体的にはある程度理解出来たと思います。
それにしても心理学でよく出てくる人格に関する症状は、毎回何となくサスペンスチックに感じてしまいます・・。
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これ現象学ではないね
間違って買った
ユング派だって
夢分析はしてみたい
テキトーなこと言いますよ
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自分の心の中の影を感じたら読もう。人間について深く示唆に富んだ内容はユニークな著者の作品の中でも抜群に面白い。
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河合隼雄先生が、ユングの提唱した「影」の概念について、説明や先生の考えを述べられている本です。かなり分かりやすいと言われていますが、私はピンとこないところもあったかな。
多分、時間が経ったら分かってくることなのでしょう。いっぺんに全部分かろうとしないで読むことが大切かもしれません。
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無限の量の水(=普遍的影)から自分の掌に合った一すくいの水(=個人的影)をすくい取ること(=影の自覚)。
科学的アプローチでない為かえって明確でない点もあるだろうが、多様な引用とともに進められる章展開によりページをめくる労を微塵も感じなかった。
解説に遠藤周作。
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影はすべての人間にあり、ときに大きく、ときに小さく濃淡の度合を変化させながら付き従ってくる。それは、「もう1人の私」ともいうべき意識下の自分と見ることができる。影である無意識は、しばしば意識を裏切る。自我の意図する方向とは逆に作用し、自我との厳しい対決をせまる。心の影の自覚は、自分自身にとってのみならず、人間関係の上でもきわめて重要であり、国際交流の激しくなってきた今日においてはますます必要である。
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ユング心理学の立場から、さまざまな症例、物語からの引用を通して人間の無意識と関わる「影」なるものの現象を明らかにしていく。情報量・水準とも一般向けの感があり、読み物として楽しむ向きが強い。個人的には「影の逆説」にある「道化」が分析される箇所には最も感銘を受けた。本書をきっかけに、参考文献にあたって勉強するとよさそうだ。
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私が手元にあるのは1976年に思索社から出版されたものだが、今では講談社学術文庫で手に入る。数多い河合の著書の中でも代表的なものの一つだろう。ユングの 「影」の概念を中心にしてユング心理学の世界が語られ、「影」という視点からのユング心理学へのよき案内ともなっている。
自我は、まとまりのある統一体として自らを把握している。しかし、まとまりをもつためには、それと相容れない傾向は抑圧される。その生きられなかった半面が、その人の影である。ただ、影の概念は多義的であり、狭義には、夢に現れてくる人物像で、夢を見た人と同性のものを影、異性のものをアニマ(男性の夢の中の女性像)、アニムス(女性の夢の中の男性像)と区別することもある。
影は、もちろんすべての人間が背負い、その大きさや濃淡、影響力を変化されながら人生の歩みに付き添ってくる。それは、しばしば意識を裏切り、自我の意図とは逆の方向に作用する。自分の影につき動かされて行動し、自らの破滅を防ぎきれないことすらありうる。
ときに影は、個人だけではなく、人間関係や集団の動向にとってもきわめて大きな力をもつ。 個人に影が存在するように、人々が集団をなし、共通の理想や共通の感情によってまとまるとき、そのような自覚的な共同幻想からはみ出す部分は影となるのである。 集団の影を背負う人は、予言者、詩人、神経症、犯罪者になるか、あるいは一挙に影の反逆に成功して独裁者になるか、何らかの異常性を強いられるという。誰が選ばれるにせよ、そこには運命としか呼びようのない抗しがたい力が働く。
集団の影が、その集団自身に反逆するだけならまだしも、その巨大な影を外部に投影して破壊的な行動をとるとき、どんな悲劇が生まれるか。しかし、現実には、そのような集団の抑圧された破壊的なエネルギーが、悲惨な結果を積み重ねてきたのが、現実の歴史だろう。ユングは、たとえばナチスの動きをキリスト文明の影の顕現と見ていたという。私は最近、集団にとっての影というテーマにとくに強い関心 をもっている。
影は、自我に受け入れられなかったものであり、元来は悪と同義ではない。しかし、 創造性の次元が深くなるにつれて、それに相応して影も深くなり、普遍的な影に接近すると、悪の様相をおびることもある。自己実現の要請は必然的に影の介入をもたらし、それは社会的な一般通念や規範と反するという意味で、悪といわれるものに近接するのである。その時に、社会的通念に従って片方を抑圧しきるのでもなく、 また、影の力を一方的に噴出せしめるのでもない。あくまでも両者を否定することなく、そこに調和が到るのを「待つ」ことが大切だという。
影の得体の知れない奥深さ、不思議さと豊かさ、そして恐ろしさ。この本からは影のそうした多様な姿が伝わってくる。ただ単に抑圧されたものを解放すれば覚りにいたるというほど、ことは生易しくはないのだろう。 神話や説話、文学作品、河合が接した事例や、報告された夢などの具体例に触れながら、ユングの元型論をベースに「影」をめぐる考察が豊かに展開される。影の創造性、善と悪の関係、影の存在の無限の広がりが示唆されて、私たちの心の深層の不思議さを強く印象づける本である。
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課題のついでで購入したものの大当たり。
ペルソナ4について考えるのにとてもお世話になりました。
『影(シャドウ)』『道化』『愚者の祭典』『トリックスター』他いろいろ。
ティンときたら是非。
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河合先生は文章が上手なので引き込まれます。
ユング派云々とか、そういうのは置いておいて、読み物として面白かった。
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大学時代、目からウロコが落ちまくった本。
今でもよく読み返します。
私の人間観の基礎を作った、生涯の書。
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ものごとには二面性(多面性)があり、そのバランスで成り立っているんだと改めて気づかされた。今までは漠然とは思ってたけど。とはいえ、この本はとにかく難しい。何回か読まないと、本当の意味で理解できないかも。
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影について、夢とか中世のピエロとかの例を出しつつ解説してあった本のはず。永遠の少年は誰かに影を押し付ける、みたいな文があって、確かになぁと納得した記憶がある。
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心理学は、それを利用する者の思考・視野を拡大させる武器である。我々は、絶え間ない現象の総体としての世界を受け止め、物・心両方の認識と行為による経験を重ねて、老いていく。ユング派の著者がフロイトのエロス主義を乗り越える形で展開された、ユングの心の哲学を紹介したのが本書である。影というモチーフを使い、幽冥・顕在の二元的対立、心が含みうる葛藤・闘争の解釈を加えていく。まず、私としては漠然とした靄として想像した心のイメージが、視覚的に理解しやすい構造を明示した説明のおかげで、ハッキリした形となって掴めるようになった。ユングにしても、その思想は一つの仮説であり、読者にとっては、知覚の冒険のとっかかりを与えられているに過ぎず、本書は、完全なる証明は出来ない「心」に対する興味を掻き立てると云う意味で、心理学の啓蒙の書だと思われる。心は、信念や倫理観、人格などに跨がる領域である。この書によって、思う・考える私という存在を、見つめ直す機会を与えられるだろう。認識の力の冒険は、肉体的な暴力よりも、広く深くおそろしい。心理学の理解には、ある程度の忍耐性が必要であると明記しておく。
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忘備録。あとで読み直して体系的に考える。
Twitterで一番印象に残ったとこはフランクに書きました。そういえば、何年か前のセンターか入試かで題材になったようですね。
私が私として意識し得ること、私の過去の経験のうちで記憶に残っていること、現在の私の感じている感情、思考していること、それに知覚していること、などのすべてはある程度の統合性を有し、ひとつの人格としてのまとまりをもって存在している。
実際、自分の無意識に動かされて行動し、後になってから後悔しても、自らの破滅を防ぎきれないようなことが起こり得るのである。その無意識の心の動きを把握するものとしてイメージがあると考えられる。
夢ではなく、外界の知覚に際してもイメージの働きが認められるときがある。たとえば、他人に秘した悪事をもっていると、他人が話し合っているのを見るとすぐ自分のことを言っているのではないかと感じたりする。これは、無意識的な怖れの感情が、そのようなイメージを提供するため、外界の知覚を歪曲させるのである。
人はそれぞれその人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体として自分を把握している。しかし、ひとつのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向は抑圧されたか、取り上げられなかったか、ともかく、その人にのって生きられることなく無意識外に存在しているはずである。その人によって生きられなかった半面、それがその人の影であるとユングは考える。 この夢に出てきたAは、本人の生きなかった半面をあらわしている。
自分の生き方と相反する傾向をもつ影の存在と、それを通じてこそ人生の意味を深めることができることを示している
普遍的な影は人類に共通に受け容れがたいものとして拒否されている心的内容であるので、それは「悪」そのものに近接してゆくか、個人的な影は、ある個人にとって受け容れがたいことであっても、必ずしも「悪」とは限らないのである。
自我 意識の統合の中心
自己 意識、無意識を含めた心の中心
真の自己へと近似しつづける過程を、ユングは自己実現の過程と名づけたのである。
(投影に関して)このとき大切なことは、Xに対して強い悪感情を抱いたとき、自分の個人的影を越えて、普遍的な影まで投影しがちになるということである。
その人物に対して投げかけていた影を、自分のものとしてはっきりと自覚しなければならない。投影のひきもどしは勇気のいる仕事である。
白い影の投影もある
すべてはユダヤ人の悪のせいであることにすることによって、自分たちの終段の凝縮性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。(中略)それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。
(永遠の少年)彼等は慣習にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢をもっている。(しかし)理想を追いつつそれを現実化する力に欠ける。(中略)彼等は自分が社会に適応できないのは、自分の特別な才能が理解されないためであるとか、こんな誤った社会に���適応する必要がないのだとか自分に言いきかせて、その無為の状態を合理化している。
影が個人に体験されることとしては、「まず無意識の全体として体験される」と述べたように、相当未分化な影の体験として考えることが妥当であろう。その影のどのような面に強調点がおかれているかによって、コンプレックス、超自我、魂などの言葉によって、より適切に表現されることになるのであろう。
それまで自我によって極端に抑えられていた影の部分が、自我の弱くなったときに一挙に行動化される
ある個人が自立してゆこうとするとき、父親や母親の死(ときには父親殺しや母親殺し)の夢を見ることは多い。
人々は自分の考え及ばないことはこの世に存在しないと確信する。(中略)人間の心の奥深く存在する普遍的な影は、人々がそれを考え及ばぬこととしていかに否定しようとも、突如として人間をとらえ暴威をふるうのである。
影の世界には動物がよく現れる。人間の暗い側面には動物的で本能的なものが存在しているからであろう。
彼(ユング)はその『自伝』の中で、「人間にとって大切な『個』としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことが一番いい方法である」と述べている。地底の世界が地上の世界を支えるように、秘密は個人の意識の底の方に存在して、個の存在を強固にするための支えとなっている。しかし、事柄はそう単純ではない。われわれはこれとは逆に秘密を心にもったばかりに、自分を破滅に導いてしまったようなケースもすぐに示すことができる。地底の世界は地上の世界を抗しがたい陥没にさそいこむこともあるのだ。
秘密を内証の話として誰かと共有し合うことによって、相互の間の堅固なきずなとして利用し得るからである。秘密をどの程度打ち明けるかによって相互の親密性が測られる。しかし、この親密性はうっかりすると無意識的な結合による近親相姦的な親密性へと退行しやすい。秘密の共有によって結ばれた集団は堅固ではあるが、その集団の成員の個性の伸展を妨げることがある。(中略)秘密の共有による集団的同一性に自分の存在の基盤をもつときがあっても不思議でないどころか、むしろ当然のことである。ただ、このような人間関係にのみ頼りたがる人は、他人の秘密を知りたがる傾向をもつ。特に、その人が自分の存在に対して不安を感じる度合いが強いほど、他人が秘密をもつことに耐えられないものである。
秘密は自我の存在を脅かすと言った。しかし、そのような脅かしに耐え、自我がその秘密を自我の中に取り入れようと努力しつづけるとき、その個人はむしろ個性実現の道を歩みつづけることになろう。
秘密を明らかにしようとするとき、あるいは明らかにせざるを得ないとき、その個人が新しい生き方を見出そうとしないときには大きい危険に陥ることになる。それだけの強さをもっていないときに、誰彼なく秘密を打ち明けることは危険である。
われわれは、ある人が自立してゆくとき、われわれに対して秘密をもつことを許容すべきときがあるのではなかろうか。
道化のチャップリンは清らかな女性に献身的な愛を捧げるが、その恋は報われることがないのである。
トリックスターは単なる人騒がせの段階から英雄的行為の段階までひろく分布しているのである。
ある個人がトリックスター的な機能をあるときに働かせているということと、ある個人がトリックスターの元型に同一化されているときとを区別しなければならない。(中略)ある人が人生を創造的に生きようとするかぎり自分の心の内部のトリックスターと常に接触を失わないことが必要であることは事実である。王や英雄への同一化を急ぐばかり道化性を失ってしまった個人は、いかに弾力性に欠け、危険性に満ちたものとなるかはすでに見てきたとおりである。
実際、夢の層が深くなるとき、それは神話や昔話などのような蒼古の感情を夢見る人に体験せしめるものだ。
われわれはあまりにも馬鹿げた失敗を繰り返すときには、どのような類の影が自我に働きかけようとしているのかについてよく考えてみることである。(中略)影が普遍的なものに近くなり、はたらいている層が深くなるほど、自我の受ける影響は不可解なものとなる。それは第三章に述べたように、幻覚となったり、妄想となったりする。そのインパクトの強さのため、われわれは外界と内界の識別さえ難しくなるのであろう。
自我が影とのあいだに適当な関係を結ぶときは、創造的で意味のある生き方がひらけてくるのであるが、そこには常に危険がつきまとう。もし影の力があまりにも強いときは、自我は破壊されるだけである。
影と適当な関係ももち、その内容をできるかぎり自我に統合することをはかること、これが望ましい在り方である。ここでそのステップの第一として「名づける」という自我の機能があげられる。あまりにも未分化で漠然とした影に直面するとき、われわれはその対象の不明確さによって不安にならざるを得ない。そこで、せめて相手の名前を知ること、あるいは相手に対して適当な名前をつけることが影の自覚の第一歩としての意味をもつのである。(中略)名づけることは大切なことであるが、この段階にとどまっていることは無意味である、あるいはむしろ、マイナスのことにさえなりかねない。すなわち、名前を知ることによってすべてのことが解ったと錯覚し、それによって影と直面することを避けてしまうからである。(たとえば「学校恐怖症」)(中略)名前を知った後で、われわれはその対象をよく知らねばならない。
われわれが自分の生をより十全に生きようとするならば、同時に「死につつある体験」をもそこにあわせもつことが必要であろう。ここに「体験」という言葉を用いたが、それはその個人の経験したことが自我の中に取り入れられ、今後のその人の生き方の中に定着していることを意味している。多くの人は経験したことを、真の体験にまで深めることなく生きている。たとえば、われわれは生きていることが「死につつある」ことを、よく忘れてしまっている。
影は自我の死を要請する。それがうまく死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。しかしながら、自我の死はそのまま、その人の肉体の死につながるときさえある。このような危険性を含んでいるだけに、自我はときに影のほうを死に追いやるときがある。
影との対話は、われわれの内面においてもなされるが、それはしばしば影の投影を受けた実在の人との対話という形で行なわれる。
街へ帰って行く道すがら、彼はハラの最後の表情を思い浮かべた。後悔の気持ちはだんだんと大きくなり、自分の本能的な行為を押しとどめた上品な意識を悔やんだ。
相手の世界にほんの少し踏みこむことによって対話が始まる。
二人の人間の対話が真に建設的なものとなるためには、お互いが他に対して自分の影を露呈することがなければならない。しかし、これはきわめて難しく、成熟した「時」を待ってはじめて可能なことである。
影と創造性
自己実現の要請は必然的に影の介入をもたらし、それは社会的な一般通念や規範と反するという意味で、悪といわれるものに近接する。そのときに、社会的通念に従って片方を抑圧しきるのでもなく、また、影の力を一方的に噴出せしめるものでもない。あくまでも両者を否定することなく、そこに調和のカイロスがいたるのを「待つ」のである。そして、そのときに開かれる「第三の道」は、確かにその人自身のものとして、その人の真の意味の個性を際立たせるのである。