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自分自身体験したことがある、竹内敏晴先生によるワークショップを収録した一冊。
「からだ」と「ことば」の密接な関係を体験し、その後の人生に多大な影響を与えられました。
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2009年1月8日読了。
カラダと意識と言葉をどう立ち上げて、外界につなげるか。
他人に届けるか、という問いかけ。
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著者である竹内敏晴氏が亡くなり、その追悼の意もこめて彼の著作を読み返してみました。
代表作は「ことばが劈かれるとき」ですが、この作品はその実践編といったところでしょうか。
モーリス・メルロポンティからヒントを得た身体論に立脚し、
その人間の存在を体験とことばを通して獲得していこうとする著者。
心理学的、哲学的に考えた場合、その理論形成には
若干疑問符を付けざるを得ない部分もありますが、
”レッスン”を通じての体験には、興味を惹かれるものがあります。
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からだとことばのレッスンを実際に試してやったことがありますが、これ本当に深いです。面白い。声かけよりも「言葉かけ」。
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[ 内容 ]
自分のからだのこわばりや歪みに気づき、心を解き放ち、生き生きとしたことばをとり戻すために、「竹内レッスン」のエッセンスを紹介する。
[ 目次 ]
1 「話しかけ」のレッスン
2 「並ぶ」「触れる」「押す」レッスン
3 「緊張」と「身構え」がほどける
4 声とことばのレッスン
5 「出会い」のレッスン
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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Ⅰ坂さんお勧め図書です。
最近、感じます。渦中にいる時は、気が付かなかったことが、時間をおいてから、ふと、こういうことだったのか・・・!ってわかる。急いで解ろうとしなくても、時が解決してくれることもある。
意味合いは違いますが、10数年前、ある自治体で区民から企画を募集して開催された講座で、竹内敏晴さんを知りました。
他に、ノンフクション作家の藤井誠二さん、素敵なエッセイを書かれている伊藤緋紗子さん、シュタイナー教育、親業他・・
今思うと、短期間でこれほど毎回違うテーマで実現するって、とても大変な事だったと思います。
そしてこの時、人生を変える出会いに繋がる出会いもありました。違う人生でしたね~、多分。本当に出会いに感謝です。
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たまたま図書館で手に取った本。
今竹内さんが生きていないと知って残念です。
言葉とはなんなのか、とても奥の奥まで考えて書いてあります。
ただの演技本ではないです。人間の心理までも。
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からだとことばの使い方のレッスン書
答えがある訳ではないが、考えるきっかけになる
・話しかける
自分に話しかけているか分からない
声によってその人に触れる
気持ち、姿勢、見動きが関係
・触れる
触れ方のバリエーションで触られ方が
異なる
指先、指の腹、掌、全体
・並ぶこと
立ち位置、方向、距離感によって
異なる印象
・緊張
習慣化した緊張
・声と言葉
人が人に触れ、変え、変わる力の言葉
腰、肩、顎、胸の緊張
・押し方
満員電車に割ってはいる方法
車いすを押す方法
・出会い方
日常化
バイアスとしての習慣化を除く
相手のリズムに合わせる
人と向き合う事
受け止める事と働きかけること
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p.209
私が、ほんとに私であるとはどういうことか、ほんとに他者に触れるとはどういうことか、人間として生きるということは、ほんとうにこれでいいのか。私のレッスンは、さまざまな様相の下でこの「問いかけ」を深めようとする。それは、健康法やセラピーのようにある達成をめざすというよりは、それらを含めて生きることの根底である「からだ」を耕すのだ、と言う方がいいだろうか。
この抽象的な次元から一人ひとりの観察の具体的な次元まで、あるいはからだ・ことばから演技まで自在に往復できる竹内敏晴はすごい。
一人ひとりの観察例に大なり小なり自分を見つけ出して、読むだけでもはっとさせられることが多い。集中的なレッスンまでしなくても、からだとこころの何らかの歪みやくせを探しながら生きてみようかな、という気にさせられる。
特に印象に残ったのが、出会い。形式的なものに乗ることを出会いと履き違えているか、そうでないと分かっていても先の構えがないか、あるいは出会えるか。しかし、それで出会った姿が自分のある一面にとって好ましいとも限らないわけで。
あと、他人に思い切って触れる方がかえってお互いに居心地がいいかもしれない、ということは頭の片隅に置きたい。
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劇団の指導者が、心をどう入れると身体がこう動くや、心がこうなってしまうと、身体は思うように動かない等、言葉、身体、心の繋がり方をレッスンを通して考察している。
が、私の日常生活にどんな影響があるのかの観点から読んでしまうと、あまり繋がりが感じられず、入り込めない。
【ふむふむと感じた点】
複数の後ろを向いた人に話しかけても、誰一人自分に話しかけていると感じる人はいない(もしくは難しい)
幼稚園で先生が皆さんサヨウナラと言うと、園児もサヨウナラと言うが、自分に言われているので、返事をしているのではなく、他の皆がやっているので、そう教わったのでやっている事が多い。
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身体のこわばりを解き、他者に働きかける語りを身につけるために著者がおこなっている「竹内レッスン」の実際の内容を、詳しく解説している本です。
理論的な掘り下げはあまりなされていませんが、著者のレッスンを通して受講者たちの身体にどのような変化が生じたのかということが、詳しく説明されています。
今だったら、DVDなどの映像作品として発売されていたかもしれませんが、身体の劇的な変化を、それ自体生き生きとした言葉で描き出している本書の説明も、興味深く読みました。
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最初のテクストとして、私は万葉集中の短歌を取り上げることが多い。たとえば、
はるすぎて
なつきたるらし
しらたえのころもほしたり
あめのかぐやま
と黒板に書く。
よく知られた持統天皇の歌である。
まず、だれでもよい、読み上げてもらう。
と、たいていは、三行目の、しろたえの、で切って、
575777で読む。
わざわざ私は現代詩風に行分けしているのだが、それもほとんど目に入らぬのに注意を促して、一行一行を言い切るように読んでもらう。
「はる」ってなんだ?
と尋ねると、みなきょとんとする。続いて、「はる」は、「は」と「る」の二つの音から成っているねと言うと、今度は苦笑いになるけれでも、これが最も大切な基本なのだ。古代の人は、「は」とう音をまず選び、それに「る」の音を加えた時に、一年の気候の変化の中のある時期が、区切られ、名づけによって際立ち、季節というものが存在しはじめたのであって、はじめから「春」という季節があったわけではない。
とりあえず、「は」「る」と「な」「つ」と発音してみて、一音一音の語感がどんなに違うかを感じてみる。「はる」とのっぺらぼうにつながった語感があるのでなく、異質な音の感じの組み合わせが語のイメージを作っているのだ、という発見は、かなり人を驚かせる。
大抵の人は「はるすぎて」という一句を「春という季節がもう過ぎてしまった」という意味を了解して、それをしゃべる。ということは、「はる…」としゃべり出すときに、すでにその意図は、「…すぎて」の地点に立っている、ということである。
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コロナ禍の前からも声が出なくなった感じがする。コロナ禍以降はPCの前でボソボソしゃべることも多く。体から声を出していないと実感する。
声を含めて自らの身体を通して自分という主体を認識し,自分の身体だけではなく他の主体への関わりや関わられからも自分という主体を認識する。
身体なき観念の世界が広がる中で自分は身体にあるという考えと自分が分散していく現実の狭間の苦しみが徐々に表に出てくるかもしれない。
生の体験こそ,自分が生きている実感につながるのか。
ワークショップは生の体験を引き起こす場所か。生の体験から生き物としての調節機能を呼び覚ます?