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(2014.02.27読了)(2008.11.03購入)
【日本の古典の周辺】
大伴家持は、『万葉集』の編集に携わったと言われます。
この本は、その大伴家持を主人公とした小説です。小さいころから亡くなるまでが描いてあります。大伴旅人が父親で、坂上郎女が母親です。皆さん万葉集に歌が残っています。
山上憶良は、旅人の同僚です。憶良は、帰化人だったようです。
家持の誕生は、718年頃です。亡くなったのは、785年です。68歳ぐらいで亡くなったようです。
大伴氏は、物部氏とともに軍事を司る氏族のようです。そのため、天皇の後継者争いに堪えずまきこまれ、権力中枢での浮き沈みが激しかったようです。
大伴家持も、都と地方を何度も行ったり来たりしています。越中、因幡、薩摩、太宰府、陸奥、などが彼の過ごした地方です。そんな中で、防人の歌の収集も行っています。
家持の亡くなったところは、宮城の多賀城です。
亡くなった後、地位を剥奪され、流罪となったのですが、後に復権して、『万葉集』も刊行されたとのことです。この本では、「万代集」となっています。
『水底の歌(下)』についている年表から家持に関する部分を抜き出しておきます。
717年または718年、大伴家持生る。
730年10月、大伴旅人大納言となり、12月、筑紫より帰京する。
731年7月、旅人薨ず(六十七歳)。
745年1月、家持従五位下。
746年6月、家持越中守となる。
749年4月、家持従五位上。
751年7月、家持少納言となり、8月、越中より帰京。
753年、諸兄の命により第一次万葉集成立か。
754年4月、家持兵部少輔となる。
755年、家持防人歌を蒐集。
757年6月、家持兵部大輔となる。
758年6月、家持因幡守となる。
759年、家持第一次万葉集二巻を加え二十巻本万葉集を作るか。
767年8月、家持太宰少弐となる。
770年10月、家持正五位下。
771年11月、家持従四位下。
772年2月、家持式部員外大輔。
780年2月、家持参議右大弁。
781年4月、家持春宮大夫正四位上。5月、家持左大弁。11月、家持従三位。
782年閏1月、家持現任を解かれる。5月、家持復任。6月、家持兼陸奥按察使鎮守将軍となる。
783年7月、家持兼中納言となる。
784年2月、家持持節征東将軍となる。
785年8月、家持薨ず(68歳、69歳)。9月、藤原種継暗殺される。故家持連座の理由で財産官位を没収される。息子永主流刑。
806年3月、家持復位される。この大同年間に五百枝王ら家持撰二十巻本万葉集に加注し勅撰化するか。
【目次】
作品の時代と主な人物
悲歌 大友家持
初刊本あとがき
参考資料
●防人の歌(226頁)
「せっかくの真心ですから、お館さまが添削して立派なものになさったらどうでしょうか。後世の人にみられてはずかしくないように」
(防人の歌は、家持が添削してしまったのでしょうか? もちろん、元々の意は十分汲んでいるのでしょうが。)
●母の死(294頁)
家持は母の死をすぐに朝廷に届けると、すべての官職から解任されて、ひたすら喪に服した。
●万葉集の編纂(296頁)
母の服喪のためにしばらく官を解かれた家持は、その暇を利用して万代集の整理をすることにした。むかし、市原王をはじめ数人が協力して編集した分は、十六巻としてすでに出来上がっている。未整理なのは自分の歌と、大伴家を中心にしてその縁につながる人達の歌や防人の歌及び、天平十八年から数年の間に、追加収録した他者の歌である。
●多賀城(323頁)
かつて経験したことがここではすべて役に立つ。越中では農産業、因幡では貧しい山村の冬の経営、薩摩では隼人から遊撃戦術を学び、太宰府では怡土城の建設と兵士の訓練、そして軍略は吉備真備から学んだ。
☆関連図書(既読)
「ハシモト式古典入門」橋本治著、ゴマブックス、1997.11.25
「万葉集入門」久松潜一著、講談社現代新書、1965.02.16
「万葉集」坂口由美子著・角川書店編、角川ソフィア文庫、2001.11.25
「水底の歌(上)」梅原猛著、新潮文庫、1983.02.25
「水底の歌(下)」梅原猛著、新潮文庫、1983.02.25
「紫式部の娘 賢子」田中阿里子著、徳間文庫、1992.05.15
(2014年3月4日・記)
(「BOOK」データベースより)amazon
その生涯は不遇であった。奈良・聖武帝の御世に多感な青年期を送った大伴家持は、名門貴族の嫡男に生まれながら、都の政争の渦中で没落し、鄙の地・陸奥に没したとき、屍になってなお、謀反の嫌疑によって追罰を受けた。万葉集を編纂し、最多の歌を収めるこの歌人が、都を遠く去った越中や因幡、伊勢に詠った風景は、胸底にわだかまる憂愁であり、天平へのかなわぬ憧憬であっただろうか。歴史長篇。