紙の本
この本からまなぶべきことは,危険のありかとひとびとのたくましさ
2011/08/08 15:07
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福島第一原発事故でもれた放射性物質の量はチェルノブイリに匹敵する. だから,チェルノブイリからまなぶべきことはすくなくないだろう. この本は著者が何回か現地をおとずれて,事故からそれほど時をおかずに書かれている. だから,まだわかっていなかったこともあるだろうが,よりなまなましい内容になっている.
どこにどういう危険があったのかも知るべきことだが,汚染された地域でたくましく生きるひとびとのすがたもまた,この本からまなぶべきことなのではないだろうか.
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ずっと読まずにおいておきましたが、3.11によって思わぬ形で本書を本棚から出してみる事になりました。
チェルノブイリも福島もよくわからないという事が一番、人々に不安を与えるのでしょうね。というか、次は我が身という思いは問題が知覚にあると感じられないと生じないものだねと、感じました。
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ソ連崩壊の遠因ともなったと言われたチェルノブイリの事故。現在でも明らかに放射線の危険が強い地域で暮らしている人々が多くいる現状、多くの人々が目に見えない恐怖におびえて暮らしている状況に、何とも言えない気分になった。原子力は決して安全ではない、そのことを肝に銘じなければいけないと感じた。
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最初にこの本が現在絶版になっている事実を知って、唖然としてしまいました。四の五の言いません。今だからこそ、読んでほしい文献のひとつです。
いま、福島の原発事故がレベル7というチェルノブイリクラスの災害になってしまったからこそこの本を読みたくなって手にとって見ました。現在、この本は絶版だそうですね。非常に嘆かわしいことですが、ぜひ、再販を強く希望します。いま、原発事故で国が公開している情報を僕はまったく信用していませんので、こういうものから類推するしかないのですので。(こうならないことはもちろん祈っていますけれど…。)
チェルノブイリ原発事故と現地に住んでいる人々の様子をレポートする筆者のまなざしが切ないです。ここに記されている住民たちの血を吐くような魂の叫び、いまはどうなっているかはわかりませんけれど、この本が書かれたときは子供の甲状腺の異常が極めて多かったそうです。そして、この本を読んでいて一番恐ろしかったのは汚染地域の家畜の肉と、背のほかの地域で生産した家畜の肉を混ぜ合わせて販売してた、という事実でした。この事実には言葉もありませんでした。
あの国で汚染されたものを口にしているのはその地域で暮らしていた人はもちろん、広範囲にわたって、こういうことがあったという事実に慄然とする思いが致しました。自分の住んでいる生まれ故郷が二度と住めないくらい汚染されていて、それでも、自分の意思でそこに戻ってきてジャガイモやトマトを育てて消費している人たちの写真が掲載されているんですけれど、読んでいて、また写真を見てて、胸が本当に詰まりました。
福島の原発事故の被害がチェルノブイリのレベルにまで広がる、とは僕も素人なので、断言することはできません。しかし、こういうルポルタージュを読んでいると、こういう原発事故は果たして天災なのか?それとも人災なのか?そんなことを考え込んでしまいます。
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1991年出版。
チェルノブイリ原発事故から5年後。
政府は安全を強調して事実を隠蔽し、常に事実が漏れ出してから追認する。そのため避難が遅れて子供たちが大量に被曝した。被曝者が病死しても放射能との関連性を認めない。放射能恐怖症という概念を創り出し、被害者をカルトやクレーマー扱いして沈黙させる。汚染地域の住民は経済的支援が受けられないために避難できず、被曝しながら生活を続ける。避難した先で、放射能に汚染されているからと差別を受ける…
まったく今の日本を見ているようです。残念ながら我々はここから何も学ばなかったのか…。
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(2012.05.17読了)(2005.12.10購入)
【東日本大震災関連・その81】
いつか読む機会があるかと思って買っておいた本ですが、まさか国内の原発事故の関連で読むことになるとは思っていませんでした。
チェルノブイリの原発事故が起こったのは1986年4月26日とのことです。福島第一原発の事故の25年前ということになります。
被爆した人たちには、免疫力の低下、白血病、等がみられるようです。甲状腺がんが増えるのは、この本が書かれた後のことでしょう。
放射線被爆についての25年分のデータがあるのでしょうけれど、あまり聞かないのは、情報があまり公表されていないからではないのでしょうか。(僕が知らないだけで、公表され、利用されているのかもしれません)
汚染のひどいところが、公表されず、長年住み続けたり、公表されたけれど、行った先で差別を受けて、戻らざるをえなかったり、呼びかけた支援にこたえて、お金や物資が送られてくるのに、被害者のところに届かない。海外から受け入れの話があって人選をして提出しても、政府関係者が随行員の名目で多数割り込んで、被爆者の参加枠をとってしまう、という話がたくさん記されています。
似たような話を日本でも聞くことになるとは思いませんでした。
どの国でも、似たようなことが結構行われるものだということなのでしょうが、残念なことです。
【目次】
まえがき
第一章 汚染のヨーロッパ―オーストリア・ドイツの秋―(1987年11月)
第二章 隠された被害を追う―チェルノブイリの春―(1989年3月)
第三章 滅び行く村、生きる人々―チェルノブイリの夏―(1990年7月)
第四章 死に瀕する子供たち―チェルノブイリの冬―(1991年2月)
あとがき
●西ドイツ(18頁)
(5月2日)金曜日にトラクターに乗って仕事をした。すると放射能を浴びたときになる症状だと聞かされていた、軽い火傷のようになり、頭も咽も痛くなった。ちょうど強い日差しを浴びたときになるような症状が出たのである。雨が降った時に外で遊んでいた子供たちの中に、同じような症状を訴えた子もかなりいた。
●ハム原発(22頁)
西ドイツの中央部のハム原発は、チェルノブイリ事故で大気中の放射能値が高くなったのに目を付け、これに便乗して自分のところの放射性廃棄物を垂れ流ししたのである。
●運転継続中(35頁)
一号炉に向かう。四号炉からほんの数百メートルしか離れていない。それだけでなく、一号炉から四号炉までは連なった建物なのである。そしてもっと驚いたことには、(事故を起こした)四号炉以外は運転継続中なのだった。
●「ゾーン」の意味(49頁)
30キロ圏内を「ゾーン」と呼んで囲い込んで、「危険地帯」とすることは、30キロの一歩外側を安全だと宣言したことになるのだ。この境界線引きこそが、いちばん危険な考えだったのではないだろうか。空気は境界線にはおかまいなしに流れるし、地下水も越境して移動する。この地帯は地下水流が豊富な地帯だという。
30キロ圏内で働く人々は、120キロ離れたキエフから水も食料も運んでくる。圏内の水も食料も汚染されているからだ。しかし圏内を一歩出ると、そこで栽培された食べ��を食べ、井戸の水を飲んでいるのだ。もしかしたら「危険地帯」を設定し、残りを「安全地帯」と宣言することによって、取り返しのつかないことをしてしまっているのではないだろうか。
●教えてくれ(76頁)
生活してて一番恐ろしいのは、毎日のようにガイガーカウンターを持ってここへやってきて、放射能を測る人たちなんだよ。測るだけで誰も教えてくれやしない。
はっきり言ってほしいんだよ、ここは人様の住める土地なのか、それとも住めない土地なのかを!
●豚肉は食べられる(80頁)
豚を生きたまま他の場所に移し、そこで汚染されていない餌を食べさせてから、解体するのです。そうすると肉は食べられるようになるのです。
(理屈に合っているように聞こえるのですが放射能は…)
●汚染肉を混ぜる(108頁)
汚染肉は白ロシアだけでなく、ソ連全土に出回っています。汚染肉ときれいな肉とを一対五の割合で混ぜているのは事実です。
安全基準値はキロ当たり、肉が1800ベクレル、ミルクが370ベクレルです。
●子供たちの変化(125頁)
「事故以前と以後とでは、子供たちの状態にどんな変化が生じましたか」
「昔診ていた子供たちには、今のような甲状腺肥大、白血病などに代表される血液の病気、肝臓や膵臓の障害などの症例はありませんでした。胃腸障害も多くみられます。無気力、消極性、失神、鼻血もよく見られます。」
●戻ってきた(144頁)
この村が汚染されていることが分かったのは、事故後三年も経ってからだ。
違う土地に移住した人の話を聞いたけど、子供がチェルノブイリの汚染地から来たと分かると、転校先の学校でみんなにぶたれるんだって。それで、その人はここに戻ってきてしまったんだよ。
●救援金・支援物資は(184頁)
フランスで1000万フランが集められました。その救援金はまずモスクワの保健省に送られました。副保険大臣は自分がすべて取り仕切るといって、300万フランはモスクワに置いていけ、と言ったのです。そして三分の一がなくなった後、途中のいろんなことで100万フランがなくなり、結局届いたのは600万フランなのです。またキエフにベッドの装置と、検診機器を送ってくれました。途中モスクワの保健省を経由した車は、キエフに到着しました。しかし着いたのは車だけで、車には何も積まれていませんでした。機材は全部モスクワに置いてきたというのです。
●事故原因は設計ミス(214頁)
ソ連国家原子力安全監視委員会は、1990年2月にこの事故の原因は原子炉の設計ミスにあり、制御棒が完全に引き抜かれた状態から緊急停止ボタンなど一挙に引き下ろされると、出力が急上昇する構造になっていると発表したのである。そしてこのことは1991年2月にも公式に認められた。原因をつくったのは原発作業員ではなく、原発の開発設計責任者だったのだ。
☆広河隆一の本(既読)
「パレスチナ」広河隆一著、岩波新書、1987.08.20
「パレスチナ 瓦礫の中のこどもたち」広河隆一著、徳間文庫、2001.02.15
☆関連図書(既読)
「食卓にあがった死の灰」高木仁三郎・渡辺美紀子著、講談社現代新書、1990.02.20
「ぼくとチェルノブイリのこどもたちの5年間」菅谷昭著、ポプラ社、2001.05.
「これから100年放射能と付き合��ために」菅谷昭著、亜紀書房、2012.03.30
「原発と日本の未来」吉岡斉著、岩波ブックレット、2011.02.08
「福島の原発事故をめぐって」山本義隆著、みすず書房、2011.08.25
「災害論-安全性工学への疑問-」加藤尚武著、世界思想社、2011.11.10
「緊急解説!福島第一原発事故と放射線」水野倫之・山崎淑行・藤原淳登著、NHK出版新書、2011.06.10
「津波と原発」佐野眞一著、講談社、2011.06.18
「官邸から見た原発事故の真実」田坂広志著、光文社新書、2012.01.20
「飯舘村は負けない」千葉悦子・松野光伸著、岩波新書、2012.03.22
(2012年5月19日・記)
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20年以上前・・・チェルノブイリで起こった事故。
これは広河隆一氏 による現地レポート書。
今これを読むのは、私自身が福島での事故を「忘れない」ようにするため、です。
汚染状況はもちろん、政府の発表から・・・ああ、ソ連も日本も
政府がやることは全く同じなんだな、とやるせなくなります。
そして、ここにかかれている「事故から数年後」は、確実に日本にも
(というかそれ以上のことが起こるのかもしれませんが)起こるのだろうと。
そしてそれは「口外」「禁句」となってしまう類のものになってしまうのでしょうか?
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難しいこと一切なし。一日で読める良書である。
原発取材で有名なジャーナリストが86年の原発事故から91年まで、5年間に3回現地で取材。西側ドイツやウィーンにも行き、各地の様子を取材した。一言で言えば、放射能物質にはなす術はない。ないけれども、それでも戦っていかないといけない。人間にとって、まったく未知の世界であるけれども、もう事故も起こってしまったし、なんとかできることをしていくしかないってこと。
ちなみにフクシマは、はっきりいって誰も何が起こってるかわからない状態なので(冷温停止とか、いまどき信じてる人間がいるのか?)、チェルノブイリよりまだ悪いだろう。
86年から数年で、各地の住民(30キロ圏内居住禁止地区以外のあらゆる地域、特に白ロシアとウクライナの一部)に起こる健康被害が無視できないほどのレベルまで達したこと、つまり、普通の人や医療関係者が明らかにおかしいという認識を持つに至ったことは、日本の今後数年の状況を見ていく上でとても重要だと思う。淡々と記述しているけれどもあまりに悲惨な状況で、決して終わらない戦争のようなものかなと思う。
人に起きている異変はもちろんだけれども、事故後すぐに、79年のスリーマイル、86年のチェルノブイリで動物や植物の奇形や巨大化など共通した現象が見られたそうだ。2011年のフクシマでも、関東各地で発見された奇形植物・・・こんなのYOUTUBEでいくらでも見られるけど、そりゃ恐ろしくもなります。単に学術的に研究発表されてないからと言って、放射能の影響じゃないとは言い切れない。ていうか私はそう思ってるけど。
原発も核兵器もない世界が実現するかどうか、わからないけど自分なりに努力するしかないと思った。なんだかなあ・・・
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【コメント】
本書は「原発災害が、施しようがなく途方も無い
被害をあたえる」ということを知らせている。
*** 資料的価値/その後何が起きたのか(社会的に)
健康被害についての惨状は勿論だが、
当時の東ヨーロッパやウクライナ周辺でおきた
庶民の反応や、ソ連政府の庶民にたいする仕打ち
など知ることができて興味ぶかかった。
---
農家は自分たちの分だけ安全なものをとりおき、
役人たちは保身に走って無責任な対応をする。
そして、各国からの災害への援助は関係ない
ところにまわり、必要な被災者に届かない。。。
など。
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*** 著者の主張/残念なところ
著者は、低レベル放射線でも白血病や虚弱体質になる
などの意見を述べているが、何をもって低レベルなの
か分からない。本書では、会話のなかで出てきた数字
は羅列しているだけで、説明がないからだ。
因みに日本では、除染等業務従事者特別マニュアル
をみると体調を崩す状況はとても低レベル放射線と
はいえない。。。
【内容】
チェルノブイリ原発事故(1984)の影響で、健康被害
に苦しむ人々にフォーカスしたドキュメンタリー。
オーストリア、ドイツ、ウクライナ共和国、
白ロシア共和国、ロシア共和国に足を運び
原発被害はどのようなものだったのか、
健康被害、環境への影響、食べ物の汚染など
の状況や現地の人の声を伝えている。
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本書は、写真家でもある著者が、チェルノブイリの原発事故の被害を確認するため現地を訪問し、その内容をルポルタージュの形でまとめたものである。訪問した時期に分けて次の四章からなる。
第一章: 1987年、事故から約一年半後にオーストリアとドイツを訪問し、ホットスポットや住民の不安について取材をレポート
第二章: 1989年、事故から約三年後、チェルノブイリ原発および疎開された村であるプリピャチやナロジチを訪問し、事故に関わった人々、いまだ原発で働く人々、無許可で村に戻ってきた人々を取材したレポート
第三章: 前回から約一年半後のチェルノブイリへの再訪。またロシア共和国内のホットスポット地域であるブリャンスク地方そしてベラルーシの汚染地帯ゴメリ州、モギリョフ州にも訪問してその地の人々を取材
第四章: 1991年冬のチェルノブイリ再々訪
第四章に統計データを聞かされる場面がある。「ソ連邦全体では、5000万の人が影響を受けました。80万人が除染作業に関係し、このうち8000万人が死亡しました。7500人が身体障害者になりました。この500万人については、正確なデータをもっていません。国はデータを集めても、それを公表しないからです。先ほどあげた数字は、1990年6月に開かれたチェルノブイリ同盟の第一回大会で、発表されたものです。その会合では死亡者は7000人となっていましたが、現在の予想数として先ほどの数字を挙げたわけです。
原発の職員について言いますと、1500人が除染作業に参加しましたが、115人が死亡し、400人以上が障害を持つようになりました。この障害者数はもっと上昇しています。86年には18人が放射能によって死亡し、二人が自殺しました。87年には約15人が死亡しました。89年では25人以上が死にました。90年では40人以上です。これらの人々の主な死因は心臓病で、腫瘍も増えています。ほとんどの人が35-45歳の間に死亡しています。」
さらに心配されるのは、子供たちへの影響である。甲状腺障害、白血病、などの割合が上昇し、体が弱い子も多くなっているということが報告されている。
著者は、2015年のノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシェービッチの『チェルノブイリの祈り 』の解説も担当し、その中で同書を「人生の中で出会ったもっとも大切な書物のひとつ」と評した。そして「私が書物というものに対して理解しているものをはるかに圧倒して超えてしまっている」と書いた。自らの言葉を「事実の羅列にすぎない」とまで言わしめた。広河さんは、この自著のことを頭に置いていたのかもしれないが、事実の羅列であったとしても、実際に現地に赴き当事者からの話をその耳で聞き、事故の状況をその目で見たレポートは相応の重みをもつ。
また本書を読んで、スベトラーナ・アレクシェービッチ が独白を中心としたドキュメンタリの形を取った理由も見えてくるように思う。被災者の側に立つ場合、その表現形式として必然的に『チェルノブイリの祈り』で選択せざるをえなかったのだと。それが彼女が辿り着いた結論であると。
『チェルノブイリの祈り――未来の物語』のレビュー
http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4006032250
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一時期、チェルノブイリを調べていたことがあった。
ドキュメンタリーを数個みて、この本を読むとさらに理解が深まる。
事故から数年後の被爆地域の様子。
東北大震災の福島周辺でも同じようなことが起きているのだろうか・・・
原子力が危険だが風力や火力に比べて安上がりなのである。
だからといってしょうがないと済ませることができる問題なのかどうか。
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チェルノブイリ原発事故後に、実際に現地に行って取材された内容が、その取材の時系列に沿って書かれている。
放射能によるその後の影響と、子供を1つの柱に据えた事実が書かれている。
自分の予想をはるかに超えて、その影響が存在し、子供の人生を狂わせるだけでなく、終わらせてしまうことに衝撃を受けた。
放射能による影響だけでなく、ソ連による国を挙げた隠蔽と誤報の発信も驚かされたが、原子力や放射能のことを、結局のところ誰も把握することが出来ていなかったと感じた。
この事実は事故から30年以上たった我々が生きる世界も同じなのではないかと考えると、背筋が凍る思いがする。