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世界的に有名な碩学によるイスラームの入門書。講演を起こしたものなので読みやすい。スーフィズムやシーア派の思想にも触れ、精神性の高い哲学を有する宗教としてのイスラームの一面を詳しく論じているので、イスラームに対し「戒律の厳しい砂漠的宗教」といったイメージしか持っていない人にぜひ読んで欲しい一冊。
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イスラム文化についての講演を、幾らか編集したもの。
したがって予備知識が無い人でも問題なく、順を追えば理解しやすい内容になっている。
ムスリムの宗教概念やどういう法的意識を持っているか、「スンニ」「シーア」の宗教的違い、という段階から理解する為の手引書としては最適。
日本のイスラム観は、井筒の認識を乗り越えていないばかりか、退潮しているきらいもあり、そういう意味では、いまだ「古典」ではない存在。
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イスラムに関する著書も多い井筒 俊彦氏が市民に対して3回イスラム文化的な、イスラムに共通してある考え方について講演した内容。
今後はイスラムが熱いと豪語するI垣君に刺激されて、手始めに読んでみました。
イラク戦争の泥沼化から脱却できない状況が続いていますが、イスラムの成り立ち、考え方などが非常に明快に書かれている。
イスラムは一言で言うならばコーランの解釈につきる。←ちょっと言いすぎかもしれない。
この解釈の違いから
正統派と呼ばれてるスンニー派とシーア派が分かれている。
コーランはアッラーによる命令と禁止から成り立つことから、イスラム社会では論理学の中でも命令法が非常に発達してるなど、イスラム社会の根底にある特徴などが少し見えました。
キリスト教、ユダヤ教と並ぶ一神教宗教を理解することはグローバル化が進む現代では大事ではないでしょうか。
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2回目読破。
何度読んでも分かりやすいが、シーア派のところとかはいろいろと名前を覚える必要がある。なんとなくイスラムと言うと、苛烈なイメージを持ちがちだけれども、宗教の血塗られた歴史というのは、おそらく、どんな宗教でも似たようなもんなんだろうな。もっと言えば、最近は殺し合いの責任を宗教ばかりに投げつけるのも、なんだかおかしいような気がしている。
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上辺だけでなく、文化の根源に迫る1冊でした。
コーランとハーディスについて、そしてイスラム教徒の中でのその解釈や
思想の違いについて、言葉は分かりやすくもそれなりに深いところまで書
かれています。
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(2006.10.25読了)(2000.10.27購入)
副題「その根柢にあるもの」
「コーラン(上)」、「コーランの世界」、「コーラン(中)」と読んできたので、「コーラン(下)」を読む前にもう一休みで、訳者の本「イスラーム文化」が積読の中に見つかったので読むことにしました。
この本は、1981年に行った三つの講演を活字にしたものということです。講演全体を通しての主題は「イスラーム文化の根底にあるもの」で、各回の講演のテーマは、第一回「宗教的根底」、第二回「法と倫理」、第三回「内面への道」です。
講演の記録ですので、読みやすくなっています。分かりやすいともいえます。コーランを読むだけではわからいことが色々書いてありますので、お勧めです。
●イスラームは商売人の宗教(29頁)
商業取引における契約の重要性をはっきり意識して、何よりも相互の信義、誠、絶対に嘘をつかない、約束した事は必ずこれを守って履行するということを、何にも増して重んじる商人の道義を反映した宗教だったのであります。
●言葉の解釈の自由性(42頁)
言葉の解釈というものには以外に大きな自由があるものでして、与えられた一つの語、あるいは文が、それを解釈する人の性向や、思想や、感情によって驚くほどいろいろな意味に解釈されます。時にはまるで正反対の意味にもなる。
神の言葉の解釈の仕方がもとで、イスラームは自分の死後、次第に四分五裂していくだろうと、預言者ムハンマド自身が信じておりました。
●復活(136頁)
輪廻転生の場合のように、死んだ人の魂が幽冥界に生き続けていて、それが次々に全く別の肉体に宿るのではなくて、死に絶えていたその人のその同じ肉体が復活の日に生前の形に戻って、それにその魂が再び結合されて生き返る、つまり元の人が元のまま生き返るのですから、この世の生が重要になるのです。
●聖俗不分(144頁)
イスラームは「神の国」と「地の国」の分離は絶対に認めません。「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」というキリスト教的理念が全然通用しない世界なのです。勿論、人間が普通の日常生活を生きている以上、世俗世界は事実上存在しています。しかし、イスラームの立場から申しますと、これは世俗世界とは申しましても「聖なるもの」が底の底までしみ込んだ世俗世界でなければならない。
人間生活の全体が、毎日毎日の生活、その一瞬一瞬が、神の臨在の感覚で満たされなければならない。そういう生活様式に人生を作り上げていくことによって、人は神に真の意味で仕えることができるのだ。
●善悪は神が決める(151頁)
イスラームでは事物の本性が善悪を決めるのではない。人間の理性が善悪を判断するのではない。神の意思で善悪が決まるのです。例えば、人の持ち物を盗む。盗みということがそれ自体として本姓的に、あるいは理性的に、悪いことだから悪いというのではありません。神がそれを悪いと決定したから悪いのです。
ムハンマドが世にあるあいだは、どんな問題が起こっても、ムハンマドにお伺いを立てさえすれば、その答えが直ちに神の意思だったのであります。彼の死後は、神の意志の間接的表現として「ハディース」が非常���重要になってまいります。
●イスラーム法(156頁)
「コーラン」と「ハディース」を基にイスラーム法が作られた。イスラーム法には、四つの学派があり、現在も存続している。イスラーム法では、宗教的儀礼の規則、民法、商法、刑法、食物や飲み物、衣服、挨拶の仕方、等、社会生活から家庭生活の細部に及んで詳細に規定されている。聖典解釈の自由は西暦9世紀中ごろに禁止されました。
このことが、近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つでした。
☆井筒 俊彦の本(既読)
「イスラーム生誕」井筒俊彦著、中公文庫、1990.08.10
「コーラン(上)」井筒俊彦訳、岩波文庫、1957.11.25
「コーラン(中)」井筒俊彦訳、岩波文庫、1958.02.25
(「BOOK」データベースより)amazon
イスラーム文化を真にイスラーム的ならしめているものは何か。―著者はイスラームの宗教について説くことからはじめ、その実現としての法と倫理におよび、さらにそれらを支える基盤の中にいわば顕教的なものと密教的なものとの激しいせめぎ合いを認め、イスラーム文化の根元に迫ろうとする。世界的な権威による第一級の啓豪書。
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これだけは、誰もが一度は読んだ方がいい、と強く勧められる一冊。
イスラームについて、何も知らない状態から入って、その根源的な部分にまで触れることができる。
もっとイスラームについて学びたくなる。
イスラム教徒の「すべては神が決めてくれる」的なあの楽観は何なのか。
スンニ派とシーア派はなぜあんなにも仲が悪いのか。
ようやく分かりました。
本来、小学校中学校で教えるべきは、こうした文化や歴史の話なのだろう。
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講義のレポートを書くために読んだ。
副題の通り、一からイスラームについて理解できる、最適の入門書である。
井筒氏の講演を収録したものだから、読みやすい。
イスラームでは政治=宗教である。さらに、イスラーム法が日常の細かいことまで規定しているために、ムスリムにとって、法を無視することは宗教的背信行為なのである。
その他、スンニ派とシーア派の対立の要因(すなわち、イスラームが抱える内的矛盾)についても解説されている。
教養として読むことを勧めます。
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大変読みやすいイスラーム文化の入門書。
日本だとイスラームに無知な人が多く、
イスラームだというとテロだのなんだの物騒なイメージをしか
持っていない人も散見せられるが本当にそんな単純なものなら
世界三大宗教の一つにまでならない。
仏教、キリスト教と抑えたらまずこの一冊を手にとってイスラームの文化に触れてほしい。
基礎の基礎ではあるけれどイスラームの深淵がちょっとだけ見えてきます。
ここをとっかかりにして是非井筒俊彦さんの他の著作や
他のイスラーム関係の本に入っていけばきっと自分の世界が大きく広がるでしょう。
国際人としての最低限の教養としても理解しておきたいところ、
恥をかかないためにも外国へ出る前、外国人に接する前に読んでおきましょう。
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昔読んだ本で、イスラム教についての理解を深めることは出来たと思う。しかし、実際にイスラム教徒に会った時に本書の内容を思い出せるかどうかは別問題。
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大変わかりやすい入門書。
講演を活字化してあるため読みやすく、コーランからの引用もおもしろいため、もっと先を…と興味を持たせる内容となっている。
著者が述べるとおり、イスラーム文化圏が多層的であることと講演の時間的制約から、ここではイスラーム文化の底を成すものは何かという点(「宗教」「法と倫理」「内面への道」)に絞った内容になっている。各論(宗派等)を理解する前の日本人向けには大変良い内容だと思う。(ただし書かれたのは1981年)
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イスラムの根底にある聖俗不分の思想。それが同じアブラハムの宗教であるキリスト教と対立する。生活即宗教であり、政治と宗教を分離してしない、現世を死後より卑下しない、といったムスリムの特徴となる。
宗教と政治を分離するという西洋近代システムを受け入れることは即宗教の否定となるので、非常な困難が付き纏う。9世紀にイスラム律法シャーリアの解釈の自由が禁止されたこと。
徹底した偶像崇拝の否定。多元論は存在しない。神と人間の一直線の契約。
原罪意識はない。神の愛、慈悲だけが世界に普く遍在する。
イスラム教の出現はそれ以前の伝統的な血族的価値で結ばれた砂漠の宗教の否定であり、自身が商人であったアブラハムの、速度と変化に対応する、都市的な、部族を溶きほぐすような、ものであった。アラーとの契約だけが根拠である。そこにSLM共同体が出現する。内面的実存主義的マッカ期から共同体的メディナ期へ。
共同体的なスンニー派イスラムに対して、イランのゾロアスター的二元論からくるシーア派と、神との内面的一体化を志向するスーフィズムがある。
アラブ人の非因果律な原子論的感覚の鋭敏さ、このあたりについてもう一度意識と本質を精読したい。
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イスラーム文化(その根底にあるもの)を読みました。この本はイスラーム文化と根底にあるものと題された3回の講義の記録を活字化したものです。日本ではイスラーム研究はあまりメジャーでは無いようです。ためしに国立国会図書館で3大宗教(キリスト教・仏教・イスラム教)の蔵書を調べてみたところ、以下のような結果でした。
仏教 24532冊
キリスト教 8378冊
イスラム教 146冊
http://iss.ndl.go.jp/
イスラムの蔵書数だけがずいぶん少ないという印象です。イスラームにおいては、キリスト教とイスラム教さらにユダヤ教はアブラハムの宗教という概念において、始まりを同じとする宗教です。ことさらイスラムの本がこれほど少ないのか非常に興味深く思います。
個人的には私には宗教は必要なく、自己規律において、謙虚で清貧であれば良いと思っておりますので、ことさらイスラムをあげる必要はないように思いますが、先日、イスラームにおける現世構造の考え方に非常に興味を持ったので読んでみました。解釈学的なアプローチから「人間内面への道」につながっており非常に興味深く読みました。時間があるときにイスラム関係の蔵書を探ってみたいと思います。
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これはかなり良質なるイスラーム文化入門書と言える。面倒くさいあれこれを省き、イスラーム文化とはなにかというある意味抽象的性質を抉り出そうとしており、それを平明なる文字でかつこの分量で為しえているあたりには感服する。本著の内容としては、イスラームとは何か?といったところから始まり、宗教的な性質、更にはムハンマドのメッカ期(神と人間との縦関係)とメディナ期(ムスリム同士の横関係)でのイスラームの性質の変化、更に現存する三大勢力のスンニ派、シーア派、スーフィズムの持つそれぞれの特徴を述べた後に、「どれが正しいのか?といった見方をするよりはこれらの対立衝突によって生じている文化こそがイスラームなのである」と結びを加えている。
具体的に内容を追っていくと、まずイスラーム教とは契約であり、砂漠的というよりは商人的な性質に譬えられている。そのため基本的には金銭的な取引をして、神との契約に譬えている。要するにイスラームでは金銭は悪しきものといった意識はかなり薄いといえこれは一つの特徴であろう。また、下地はユダヤ教であり、契約という観点からしてもこれらの両者は性格が近い。彼らはモーセやイエスを預言者として認めるが、しかし、イエスを神とは認めない。神は唯一絶対的な人格神であるとして、干渉すらできない存在と定める。基本的にはウラマー(=学者)がシャリーア(=イスラーム法)を作り上げてそれに従って生活する。シャリーアはコーラン(=聖典)やハディース(=ムハンマド言語禄)に従って制定される。彼らは隅々に渡る行動を規則によって規定されており、彼らは等しき存在となりうる。だがそれは人格性というよりは、むしろ神との契約においてである。基本的にこれはスンニ派的性格であり、スンニ派は世俗と聖域とを二分化することもせずして、コーランとハディースに記されていることを頼りに日々生活を営むとする(=政教一致)。それに対してシーア派はコーランの内側へと目を向ける。そこに形而上的な神性(=ハキーカ)が潜んでいる、と考えるのである。コーランやハディースを基にして、ハキーカを抽出しようとする試みがシーア派であるが、それが出来るのはあくまで一部のイマーム(内向的預言者≠外交的預言者=ムハンマド)の代理人(=ホメイニーなどがそれにあたる)である。シーア派は基本的に源流としてゾロアスター教があり究極的には一神教の姿勢を取っているものの、その前のレベルで聖俗などの二元論的な対立が見え隠れしている。最後にくるのがスーフィーであり、スーフィーも基本的にはシーア派と同じく内面的なものへと目を向けるが、シーア派がある種の集団であるのに対して、スーフィーは修行僧みたいなものなのだろう。彼らは徹底的な一元論へと自らの信仰を突き詰めるために、自我すら排そうとするのである。つまり神=自といった流れを目指すのである。そのために徹底的な自己否定を行い最終的にはグノーシス的な自己肯定へと至るというのが彼らの流派であり、シーア派よりもなお一歩突き進めており、神との契約とするイスラーム教の基礎概念すらも否定しかねないラディカルさがある。
基本的にはこのラインでイスラム教���ついて語られている。ここで浮かび上がってくるイスラム教の性質は個人的には功利的な性格である。ムハンマドは自らのアラブのための宗教をつくるためにユダヤ教やキリスト教からその権威を借りて宗教を作り上げている。シーア派はムハンマドが自らが最後の預言者だと述べたことに対して、ムハンマドは最後の外向的預言者であったのであり、内向的預言者の存在を掲げることでスンニ派とは別の路をゆく。更にはとうとうスーフィーたちは神との契約すらひっくり返して自らが神へと至ろうとする。ここに見られる性格は非情に功利的であり、自らが、あるいは自らを頂とした集団が派遣を握ろうとする姿勢である。そのためには既存の宗教の言い分をもらうといった姿勢が見え隠れしているように思う。これが悪いとは言わないのだけれど、これを心底から信じられる感覚がやはり日本人としては理解できない。尊重はできても理解できない。異文化理解という言葉が安易に使われる昨今だが、決して実感を伴った理解などはできないだろう。しかし、尊重は出来る。安易に理解へと至ろうとする現在の潮流は危険なのではないかとして個人的には警鐘を鳴らしたい。また、こうして見るとイスラーム教という宗教は、ユダヤ教キリスト教グノーシス主義ゾロアスター教などのそれまでに存在していた宗教と有機的に結合して生じていることが見て取れ、決して突発的に生じた狂信的な宗教でないことは判然としている。本著を通して得られた最大の意義はそこにあるのかもしれない。
しかし、アナルハック=我こそは神というのが、アナルファックに見える……。
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「外面への道」を辿ったスンニー派と、一方「内面への道」を選んだシーア派、スーフィー派。それぞれの異なる点と相似点、そして両者の緊迫した関係から生まれるイスラーム教の奥深きダイナミズム。無宗教の日本人にはわからない人生観がそこには在り、生きるという事が宗教と共に在る事という世界。イスラーム教とは何なのか。その周縁をなぞるのではなく、中心部からなぐりあげて教えてもらった感じ。
3回行われた講演を活字におろした本書は、まさにイスラーム教を知るための入門書と言える。
あざまっす